*この世にいるきっかけ
コタローが来たあとの一週間は、アリトンも他の悪魔も訪ねて来なかった。迷子はときどき来た。厭世家が来ると、迷子たちは気になってそわそわしてしまう。
彼らは厭世家に議論をふっかけたり、喧嘩を売ったり、時には助けを求めにくる。コタローはいつも、彼らにきちんと向き合う。迷子になっても、それは変わらなかった。そして議論に付き合ったり、喧嘩をいさめたり、救いの言葉を投げかけました。
あるとき、エデンを捨ててまだ間もない男がやってきた。彼は横柄な態度でドアを叩いた。コタローを見ると、「おれは進化論を信じる」と言い出した。コタローは肩をすくめて「なら、信じ続けろ」と答えた。男は肩すかしを食って、「創造論を信じなくていいのかよ」と言った。するとコタローは答えた。
「はじめに神が創造した。そして進化をうながした。そう答えれば満足か? 進化論は神の不在証明にはならない」
すると男は自信をなくして、すごすごと帰っていった。コタローは眉をつりあげ、「まだ論破してないのに。なまぬるいやつだな」と感想をもらした。
あるとき、男たちと女たちが集まって、玄関をはげしく叩いた。彼らは言った。
「厭世家を出せ!」
私はそわそわした。イトナは私に、窓から離れろと手話で示した。コタローはめんどうくさそうに猟銃をかついで出て行った。
彼らはコタローに罵声を浴びせた。エデンの園での恨みつらみを言った。そのあいだ、コタローはだまっていた。
だれかが、愛していた人が私よりも天使を愛した、と嘆いた。だれかが、自分は人とちがう、エデンでは自分を異物のように感じる、と言った。だれかが、愛を唱えるエデンの人間たちは矛盾している、と言った。だれかが、永遠の命なんかいらない、欲しくもない、と言った。
彼らはひととおり神への不信を口にすると、コタローをせめた。そして、なにか言え、と言った。コタローは猟銃を地面に立て、寄りかかって言った。
「考えればいい」
男たちや女たちは眉をひそめた。コタローは続けた。
「神があれこれ決めて、そのとおりに行動するのが納得いかないんだろ? なら、考えて、自分で決めればいい。聖書には『愚か者は自分で考える』なんて書いてある。だが、思考停止したまま神をほめ続けるより、疑ってかかって、やっぱりどうやら正しそうだと判断した迷子のほうが、まだましだろうよ。『悔い改める一人の罪人は、悔い改めの必要のない99人の義人以上の喜びがある』だろ」
彼らはしんとなった。だれも、自分たちが信者よりもましだと言われるなんて思っていなかった。彼らはコタローの返答に面食らったのです。やがてだれかが言った。
「私は悔い改めたりしない」
するとコタローはうなずいた。
「それも自由だ。お前たちには自由意志がある」
彼らはしばらくほうけていたけど、やがて一人ふたりと背を向けて帰っていった。喧嘩をしようとした人もいたけど、猟銃を見て、結局は帰るしかなかった。コタローはあくびまじりに戻ってきて「お腹すいたな」と言った。ガズラは食べ物を守るようにかかえ、コタローをにらんだ。
あるとき、男が泣きながらコタローを訪ねた。はじめ、彼は何も言えなかった。ずっと泣き続けて、私が慰めても、ガズラがしぶしぶ食べ物を差しだしても、動かなかった。ただ、ガズラはほっとしたように、食べ物を自分の口の中へ運んだ。
彼はやっと大人しくなって、「私は悪魔に魂を売った」と言った。するとコタローはちょっと笑って言った。
「銀貨三十枚で?」
彼は首をふった。それから、自分がどんなに悪いことをしたのかを話した。
彼は姦淫を犯した。
神への不信心を告白した。
ねたみやそねみの心を認めた。
そしてコタローに言った。
「神はお許しになっては下さらない。きっともう、私は見放されてしまったのです」
するとコタローは頭をかいて「そうかもな」と言った。男は傷ついたようだった。泣きじゃくった顔をさらにゆがめ、震える声で言った。
「やはりそう思われますか。厭世家のあなた様でも」
「まず、おれに『様』を付けるのはやめろ。そんなにできた人間じゃない」
コタローはひざの上に手を乗せ、頬杖をついた。そして言った。
「できた人間じゃなくてもいいんじゃないか?」
は……? と、男は不可解な顔をした。
「できた人間になろうと思ったら、どんどんハードルが高くなって、自分のあら探しばっかしちまうだろ。赤ん坊のころは悩みなんかなかったはずだ。なんにも考えなかったからな。バカは最強だ。悩みたくなけりゃ、考えるな。流されてへらへら笑ってりゃ、平和に暮らせる」
男はきょとんとして、ふに落ちない顔をした。
「そんなこと、聖書には書かれていません」
コタローは笑った。
「おれの言葉だもん」
「でも、あなたは厭世家なのに。神の言葉を伝えてくれるはずではありませんか」
「伝える必要あるか? 悩むのが快感になってる馬鹿に?」
男はびっくりして首をふった。
「なんてことを! こんなに苦しんでいるのに」
「ちがうね。おまえは不幸自慢のかたまりだ。かわいそうに、神は見捨てちゃいませんよと、おれに慰めてもらいたかっただけだろ。おまえは骨の髄から神の信者だよ。わかったら、おれがイラついて銃をぶっ放す前に、さっさとエデンに帰れ。おれは今、この部屋にいる誰よりも、神から心が離れてるんだからな」
男は首をすくめ、あわてて去った。コタローはため息をついて立ち上がり、猟銃を背負った。それから私をふり返って言った。
「仕事してくる」
それで私は言った。
「私も行く」
コタローはハルマゲドンのあと、地上をあちこち巡って復興に尽力した経験がある。それで、彼はトーキョーを巡って迷子に会い、仕事はないかとたずねてまわった。私も彼について歩いた。私は最近、誰ともセックスをしていなかったから、お金がなかった。私も働かなければいけないけど、やり方がわからなかった。それで、コタローから教えてもらおうと思った。
コタローは井戸を掘り、橋をかけ直し、畑の柵を頑丈にし、テーブルやイスを作り、魚を水揚げするのを手伝ってお金をもらった。私はそばにいて、ときどき木切れを押さえたり、クギを渡したり、差し入れのおにぎりを食べる手伝いをした。
一日が終わると、コタローと手をつないで帰る。それはとても楽しくて、イトナがパソコンとにらめっこしているのをながめるよりもずっといい。けど、一週間めにコタローは気まずい顔で切り出した。コタローはいつも、私に気まずそうな顔をする。
「イトナを放っといていいのか?」
私は首をかしげた。
「どうして?」
「だって、おまえらは付き合ってるんだろ?」
私は「付き合ってる」の意味が分からなかった。それでその真意をたずねた。
「結婚する前の段階ってことだ。おまえらはお互いに愛し合ってるんだろ?」
私は笑って首をふった。
「アリトンは、私が誰にもエロスを抱いていないと言ったよ」
コタローは眉をひそめた。
「でも、イトナはおまえを愛してるぞ」
「どうしてわかるの? コタローは人の心がのぞけるの?」
もしも心がのぞけるとしたら、イトナと同じだ。しかしコタローは首をふった。
「心なんざわからなくとも、見てりゃわかる」
私にはよくわからなかった。私は人の考えていることは、見てもわからない。わかるというコタローはすごいと思った。コタローはたぶん、千年は生きている。だから見ただけでわかるのかもしれない。それとも、魂がないから、私がわからないだけかもしれない。
けど、イトナが私を愛しているというのは、やっぱり信じられない。コタローの言う愛とは、エロスのことです。けど、私はイトナにプロポーズされたことがありません。イトナは律儀なところがあるので、だれかにエロスを抱いたらその旨を相手に伝えると思う。だからたぶん、コタローは間違っていると思う。
私がそう言うと、コタローは不服そうな顔をした。
「おまえは本当に、人を好きにならないのか? あんなに寝まくってるくせに、エロスがない?」
コタローは不思議そうだった。私をせめているのではなく、心の底から信じられない顔だった。私はうなずいた。コタローは私をじっと見て、やがて言いました。
「人間じゃないから……か。おまえも、哀しい存在だよな」
私は別に自分を哀しいとは思わなかったけど、コタローが言うならそうかもしれない。コタローは厭世家で、千年も生きているから。
私はこれを書いているノートを自分の部屋のマットレスの下に隠している。本当は無垢な信者たちに書きはじめたけど、イトナが「知り合いには読ませないでくれ」と言ったから、隠している。
私は正直に書きすぎて、イトナの秘密を全部あらわしてしまった。だから私はひとりでいるときだけ、ノートを取り出して続きを書く。今では私しか読まない。パイモンもしばらく来ていません。彼に会いたいと私は思った。彼はとても面白いから。
ある日、アリトンが家に帰ってきた。アリトンは霊者で、身体がないのに、ひどく疲れて見えた。アリトンはコタローに気付くと、固い声で「何しに来たの?」と言いました。アリトンはいつも穏やかなのに、そんな声を聞いたのははじめてでした。
コタローが何か言う前に、私は「迷子になったんだって」と言いました。アリトンは目をしばたいた。そしてコタローをにらみました。彼女はため息をつき、ソファに深く座り込んで、ぽつりと言った。
「信じられない」
コタローは黙り込んでいた。
「……本当に迷子になったというなら、今すぐ地下室へ入って」
アリトンは言った。私には意味が分からなかった。
前にアリトンがコタローを監禁したのは、コタローが厭世家だったからで、つまり敵だったからです。けど、今のコタローは迷子を名乗っていて、味方だ。檻に入れる理由がない。しかしコタローは反論しなかった。ただ立ち尽くして「いつまで」と訊いた。するとアリトンは答えた。
「すべてが終わるまで」
私はアリトンのとなりに座って、彼女をのぞき込んで訊いた。
「それは、千年王国が終わるまでという意味?」
するとアリトンはちょっと考えてからコタローを上目遣いに見て、言った。
「そうなるかもしれない」
「千年王国は、今何年目?」
「978年目よ」
私はコタローを見上げた。
「地下室に入らないで。入ったら滅ぼされるまで、ずっと居続けてしまう。最後の22年間をあんなところで過ごすなんてかわいそう」
アリトンは引きつけを起こしたみたいに笑った。
「そうはならないわ。こいつはまだ神を愛してる。千年王国が終わって私たちがすっかり滅ぼされたあとに、きっと救出されて永遠の命を得るでしょうよ」
私は意味が分からなかった。アリトンはひどいと思った。コタローは本当に迷っているのに、迷子だから滅ぼされるのに、どうして信じてあげないのかわからなかった。悪魔は迷子に優しいはずです。それならコタローにも優しくしてあげるべきだ。
私は立ち上がってコタローの手を握った。パソコンを見ていたイトナが顔を上げてこちらを見たのがわかったけど、気にならなかった。
「地下室に入らないで」
私が言うと、コタローはアリトンを見た。
「充分生きた。余生を地下暮らしにあてる予定はなかったが……仕方ない」
アリトンは小さく笑った。つまらないジョークを聞いた時みたいな笑い方だった。どうして笑うのか、ちっともわからなかった。今でもアリトンの笑い声を思い出すと、むかむかします。
コタローはそのあと、朝の散歩にでも行くように、普通の顔で地下室へおりていった。外からアリトンがカギをかけて、他の誰も開けられなくなった。
そのあとアリトンは私の部屋に行き、マットレスの下から私のノートを出した。彼女は雑誌かなにかを読むように、それをめくりはじめた。私は歩いていって、自分のノートを取りあげてかかえこんだ。アリトンはしばらくそのままの格好で、からっぽの手元をじっと見つめていた。やがて彼女は私を見上げ、悲しそうな顔をした。
「読んじゃダメ?」
「コタローが何を考えているのか、イトナに聞いたらいい。そうしたら、本当に迷っているかどうかがわかるよ。地下室に入れる必要はないでしょ」
アリトンはため息をついて、そっぽを向いた。
「もしも本当にコタローが天使とグルになって私をだまそうとしているなら、心にベールがかけられているだろうから、イトナに真実は見えない。それでなくとも、イトナが聞ける心の範囲は限定的だわ。今現在、考えていることしかわからない。他のことを考え続けたり、忘れていたりすればあの子には聞こえないわ」
「それなら、アリトンが心をのぞけばわかるでしょ」
私が言うと、アリトンは不機嫌に首をふった。
「たとえ悪魔だろうと、他者の心をのぞくのはいかがなものかと私は思ってる。いいえ、カエラ。お断りよ」
「けど、ノームは私の心をのぞいていた」
アリトンはハッとして私を見た。
「ノームは私の心をのぞこうとしていたよ。彼は天使だけど、そうしたよ」
アリトンはしばらくだまっていたけど、ふっと笑い、ベッドに寝転がった。
「ノームがあんたの心をのぞいた? だから何?」
アリトンは吐き捨てるように言った。
「あんたは魂のない動物と一緒よ。心を読んだところで、なんの価値もない。人間や霊者と自分を同列に語るのは、恥ずかしいからおやめ」
私は、今までにも似たようなことをたくさん言われていたのに、心の中がぎゅっと締めつけられて、ぎちぎちにしぼれたような痛みを感じた。自分の感情がよくわからなかった。ただ、ひどく悲しかった。なんで悲しいのかを考えました。するとひとつの可能性が一番しっくりきた。
ノームが私の心をのぞいても、なんの価値もないと言われたのが、悲しいの原因だった。ノームにとって無意味な存在だと言われたのが、一番悲しいの原因だった。
そんなつもりはなかったのに、気づくと涙がぽたぽたとしたたっていた。アリトンは同情から私をなでようとした。けど、私は顔を背け、言った。
「私はさみしくなるときにだっこするぬいぐるみじゃない」
するとアリトンは機嫌を悪くして、「なら、出て行って」と言った。
ここは私のためにアリトンが用意してくれた部屋だけど、出て行けと言われたら出て行くしかない。人間のために作られたエデンの園から、罪を犯した人間が追い出されたのと同じ。
私は私の部屋を出て、何かを食べるガズラの横を通りすぎ、パソコンをにらんでいるイトナの前も通りすぎて、地下室への階段を下りた。地下室は暗くてじめじめしている。電気を付けるとクモが見える。階段を下りきったところにスペースがあって、ドアの手前に、折りたたみのパイプイスが一脚置いてある。
ドアの向こうにコタローがいます。ドアの下部には猫が通り抜けられるような扉があって、水や食べ物を入れられるようになっている。イスに座って目の前に、こちら側から開けられる窓があって、開けると格子越しに向こうが見えます。
私はパイプイスに座った。それから少しためらい、窓を開けた。コタローの姿は見えなかった。けど、よく見ると足の先が見えました。コタローはドアに背をもたせて座っていた。それで、のばした足の先だけが見えた。
「コタローは天使とグルになったスパイなの?」
私が話しかけると、すぐにコタローの声が返ってきた。
「ちがう」
「コタローは嘘をついているの?」
「おれは本当に迷ってる」
私はわからなかった。
「どうして今さら迷ったの? コタローは厭世家で、誰よりも神様に忠実だと認められたはずでしょ?」
コタローがため息ともつかない呼吸をくり返しているのが、ドアを通して伝わってきた。コタローは人間なので、アリトンやノームとちがって息をしている。それは私と一緒で、私も身体をもっているから、その点では人間と同じだと思う。
「おれにはわからないんだ」
コタローは言った。
「神を愛して善人でいることが、本当にいいことなのかわからないんだ。終わりの日には確かに、悪や苦しみや悲しみがはびこってた。神なんて、サンタクロースと同じようなもんで、現実には存在しないと思っている人間も大勢いた。だけどそんな人間たちも、生きてたんだ。自分なりに、幸せを探していた」
私はじっと聞いていたけど、コタローが言葉を切ったので、たずねた。
「終わりの日の人間は、自分を作ってくれた神様をないがしろにしていたのに、それでも図々しく生きようとしていたの?」
コタローの低い笑い声が聞こえてきた。「そうだよな」とコタローが言った。
「おれが迷ってるのは、まさにそこだよ。神は作ってくれた。そこは疑わない。現実に千年王国を目の当たりにして、天使と仕事もして、悪魔とも話してきた。でも、それがなんだ? 作ってくれたからって、愛さなきゃならないなんて理屈はないはずだ。もしも自分にとって毒でしかない親を愛し続けたら、虐待を受ける子どもに救いがあるか? 親だから愛する? そんなのおかしいだろ。親なんて、自分がこの世に生を受けたきっかけにすぎないんじゃないか?」
私は何も言えなかった。ただ、考え込んでしまいました。
コタローは笑った。
「ごめんな、カエラ。そういうことだ。おれは神への感謝を忘れた、どうしようもない男なんだよ。だから迷子になっちまったんだ」
私はうなずいた。人が迷子になる理由はいろいろある。その理由はどれもばかげていて、どれもばかにできない。
「じゃあね」
私は言った。立ち上がり、階段をのぼった。私は考えていた。一階に上がってきてガズラのとなりに座り、腕をぽよぽよしながら、ずっとコタローの言った意味を考えていた。コタローは言った。親は自分がこの世にいるきっかけにすぎない、と。
そうだとすれば、私はアリトンを愛する必要はなくなる。
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