*地下室のナメクジ
イトナは機嫌が悪かった。
彼はいつも不機嫌に見える。けど、同じ表情に見えても、心が穏やかなときと、はらわたが煮えくり返るようなときとでは、私にはちがって見える。そして、コタローがあらわれてからずっと、イトナがイライラしているのが私にはわかった。
私たちの家には、一階に大きな部屋がある。暖炉があって、テーブルを囲むようにソファが並べてあって、いつもみんながゆったりできる。
そのとなりにはひとつ寝室があって、台所やお風呂もあります。二階には寝室がふたつ。一番大きな寝室には大きなベッドがあって、私が使っている。アリトンが帰ってくると、私と一緒に使う。イトナとセックスする時はここでする。
ガズラは一階の寝室に寝る。彼は重いのでマットレスはぺちゃんこです。けど、ガズラは気にしていない。彼にとって重要なのは食べることであって、寝ることは二の次だから。イトナは二階に余ったもうひとつの部屋を使っている。彼は長いベッドで寝ています。イトナは自分ひとりでそれを作った。
コタローが寝る場所はなかった。お客さんが来るとき、彼らは私とセックスするので、私の部屋で寝ればよかった。しかしコタローは私とセックスしたくないので、新しくベッドを用意しなければなりませんでした。コタローは布団さえあればいいと言った。それで、イトナとコタローとで、布団を買いに行くことになった。
迷子の中にはいろいろなものを売っている人がいる。彼らは自分では作らずに、誰かが作ったものを買ってきて、それを他の迷子に売っている。二度手間な商売だと思う。お金が欲しければ、自分で作って自分で売ればいいのに。
私はふたりについて行くことにした。私はコタローと手をつないで歩いた。
コタローは背中に猟銃をかついでいるので、道行く迷子たちがじろじろ見ていた。彼らは私たちを遠巻きにして近寄りませんでした。武器を持っているのは厭世家だけだから。迷子たちは厭世家を怖がっているから。
迷子たちは自分たちが反逆者であることを自覚していて、気高い存在の厭世家に対して、申し訳なさと恐れ多さでいっぱいになってしまうそうです。
けど、彼らの様子を見て、コタローはさみしげに笑った。何がおかしいの、と私は訊いた。するとコタローは意地悪そうに肩をすくめて笑いました。彼はいつも、ちょっと意地悪そうに笑う。それはイタズラ好きの顔で、ちょっとかわいい。
「終わりの日の人間とは、えらいちがいだなと思ってさ」
私が首をかしげると、コタローは続けて説明してくれた。
「終わりの日の人間は、罪悪感すら持っちゃいなかった。神への不信心だって、自分に与えられた当然の権利だと思ってたんだ。特に日本では、宗教をやってる人間のほうが、ヤバいやつだと思われて遠巻きにされてた」
私は目をぱちくりしてイトナを見た。けど、イトナはそっぽを向いて、これっぽっちも会話に参加していなかった。それで私はコタローに向き直った。
「日本人は悪人だらけだったの?」
「そうじゃない」
コタローは笑って首をふった。
「宗教に不信感を抱く人間が多かっただけだ。宗教がらみの犯罪が多くてさ」
「犯罪って?」
私が訊くと、コタローは考え込み、言った。
「やっぱり一番は、サリン事件だったな。宗教団体がテロを起こしたんだ。カエラにわかりやすく言うなら……ハルマゲドンを自分たちの手で起こそうとしたんだ。大勢が集まるところに毒をまいて、たくさん殺した」
私は口をぽかんとあけた。そして言った。
「人間がハルマゲドンを起こせるの?」
「起こせない」
コタローはきっぱりと言い切った。眉間にしわを寄せていた。
「あいつらがやったのは無差別殺人だ。だけどその瞬間、日本人は一気に宗教が嫌いになったんだと思う。狂信者は自分の理屈で人を殺す、ってイメージが広がった」
「けど、神様は人を殺しちゃいけないと聖書に書かせた」
私が言うと、コタローはうなずいた。
「どんな宗教だって、教典には立派なことしか書いてないさ。間違うのはいつも人間だ」
「終わりの日には、ニセ預言者とニセのメシアがあらわれる」
私は聖書の言葉を唱えた。コタローはうなずきました。
「その事件のとき、コタローは宗教を嫌いにならなかった?」
コタローは肩をすくめ、知らねえよ、と言いました。
「事件があったのは、ガキのときだったからな」
私はうなずいた。私には子ども時代がないけど、子どもというのは物心がつくまで、ろくに覚えられないらしい。コタローが覚えていなくても仕方ないと思った。
「だから日本で『宗教』なんて言ったら、詐欺か犯罪か政治活動に巻き込まれると勘ぐる人間はたくさんいた。実際、そんな宗教ばっかだったからな」
「その勘ぐる人間たちは、ハルマゲドンを生き延びた?」
私の質問に、コタローはすぐには答えなかった。やがて首をふって、言った。
「だからおれは迷ってるんだ」
イトナは相変わらず不機嫌だった。それは迷子の経営する雑貨屋に来たときも同じでした。イトナは私にお金の入った財布を渡して、自分は知らんぷりをしていた。会話に参加しないなら、ついて来なければよかったのに。
雑貨屋にはなんでも置いてあった。迷子たちが欲しがるものはあらかた取り揃えていた。服、靴、帽子、金づち、クギ、イス、テーブル、ギター、笛、スケッチブック、鉛筆、はさみ、ボードゲームなどです。食べ物やワインはなかった。それは他の店にある。
この雑貨屋は好き。何度でも来て、ながめている。私の住んでいる家からは歩いて30分くらいなので、散歩するにはちょうどいい。
雑貨屋を経営する迷子は女です。痩せていて、髪の毛はネズミみたいに短い。耳と眉と舌にピアスをたくさんつけていて、かっこいい。けど、舌のピアスはキスをするときに邪魔なので、私はとってほしいと思っている。女は「久しぶり、カエラ」と言って笑った。私もにっこり笑って「こんにちは」と言った。何度も会っているけど、私は彼女の名前を知らない。
コタローが彼女に布団がないかと訊くと、彼女は奥へ確認しに行った。それから戻ってきて、今はマットレスと毛布しかない、と言った。コタローはそれでいいと言った。それで、私たちはマットレスに毛布を乗っけて、三人で運ぶことにした。雑貨屋の女は「また来てね」と言いながら私の唇にキスをした。私はうれしくなって「また来るね」と手をふった。
エデンの外にはごみがたくさん落ちています。それは家電だったり車だったり家具だったり食べ残しだったりびりびりにやぶけたカーテンだったりする。エデンの外は汚れている。ススだらけで、ほこりだらけで、虫だらけで、毛だらけ。ガラスで割れていないものはひとつもないし、道路は砕けて草や野菜がぼうぼうに生えている。
けど、野菜ならまだいい。育てば食べられるから。けど、野菜はある程度育つと誰かが抜いてしまうから、いつも迷子たちは戦々恐々としている。なるべくなら大きくなるまで待ちたいけど、ぼうっとしていると他の誰かに食べられてしまうから。
エデンでは食べ物はいつも分け合っているらしい。けど、エデンの外では、野菜も果物も、食べごろはめったに手に入らない。まだ青いか、ひからびているかのどっちか。おいしいのはお肉だけです。お肉は育ちきる前でもおいしいから。
イトナとコタローは向かい合ってマットレスを運んでいた。私はコタローのとなりで運びました。けど、コタローは二回ほど私のほうへ怖い顔を向けて「まじめに運べ」と怒った。意味が分からなかった。私はちゃんと運んでいました。けど、コタローが言うには、私は「手を添えているだけ」だそうです。
半時間もすると家に帰り着いた。イトナとコタローはマットレスを縦にして、玄関から中へ運んだ。私は毛布をかかえました。私はドアを開けるのも手伝った。なので今日はよく働いたと思う。
ガズラはみんなが集まる大きな部屋にいた。そして一生懸命何かを食べていた。彼はコタローがとなりで寝ていても気付きもしないでしょう。だからコタローはガズラの部屋になった。イトナはコタローが嫌いだし、私の部屋はコタローがいやがるから。それに、コタローは地下室はいやだと言った。
コタローは少し前、地下室に暮らしていました。半年くらい前まで。
私がアリトンに作られて少ししたころ、コタローはイズルとふたりでやってきた。そのとき私ははじめてコタローに会った。そのときすでに、イトナとガズラは家にいました。
コタローは私をじろじろ見た。彼はどうやって私が作られたかの説明をきくあいだ、ずっとしかめ面をしていた。イズルは「神が許しているのだから」と言ってなだめた。アリトンはくすくす笑っていた。
イズルはそのあと何回かしか来なかったけど、コタローはひとりでちょくちょくやって来ました。彼は迷子たちに会いにきた。そして改心するようにすすめた。ときにはコタローに諭されて、エデンへ戻る人もいました。だからコタローの活動はまったく無意味というわけではなかった。
けど、コタローは必ず、私に厳しい目を向けた。そしてイトナやガズラには、他の迷子と同じように接した。つまり、ときどきは冗談を言い、意地悪な笑い方をし、おどけてみせた。けど、私には決してそうしない。私とアリトンは、いつもコタローの気に食わない。それは、私がエデンの人々の身体を盗んで作られたせいです。
コタローはアリトンに、私の身体をもとのように分解して、それぞれの持ち主に返すべきだと言った。来るたびに、同じことをくり返した。
彼の言い分はこうです。アリトンに身体を盗まれた信者たちはまだ生きているから、戻してあげたら喜ぶ。それに、カエラの心はもともとアリトンの半分だから、カエラは消えてなくならない。誰も傷つかないのだから、すべて元に戻すべきだ。
しかし私はいやでした。私の身体はたしかに人のパーツを盗んで繋ぎ合わせたものだけど、今は私が使っているから。そう言ったら、コタローは舌打ちして言った。
「気前の悪い女」
それを聞いてアリトンは笑った。そしてある日、アリトンはコタローを地下室に監禁しました。
コタローが閉じ込められていたのは全部で7年くらいです。私はそのあいだ、コタローに水や食べ物を運んであげたことがある。イトナもしょっちゅう運んでいた。そして教わった手話を使って、ときどき話した。ガズラは興味がなさそうだったので、運んでいたかは知らない。けど、ガズラはコタローに届ける前に、階段の途中で全部つまみ食いしてしまうと思う。
エデンの外にはベールがかけてあって、人間の祈りは天使には聞こえない。このベールは悪魔たちが境界に沿ってかけたものです。彼らは地の底から這い出てくると、自分たちが自由に活動できる安息地を作った。悪魔たちは、人間を誘惑するとき天使に邪魔されたくなかった。だからエデンの外にベールをかけた。
エデンの外にいる人間の祈りは、霊者には聞こえません。なので、コタローを担当するイズルは、彼がどこにいるのかわからなくなった。
イズルがコタローを探しにくるたび、アリトンは知らない、と嘘をつきました。私もイトナもガズラも、知らないと言った。それがアリトンの命令だったから。
すぐそばにいたのに、イズルはコタローに気付くことができなかった。彼は親友のアリトンから知らないと言われれば、だまって帰るしかなかった。それでコタローは助けてもらえなかった。私たちも助けなかった。それもアリトンの命令だったから。
地下室の扉には小さな扉があって、食べ物や水はそこから入れます。そこから相手が見えるようになっている。けど、直接会うことはできない。カギを開けて中へ入り、向き合うのはいつもアリトンだけでした。
はじめの一年は、コタローの悲鳴や叫びが聞こえました。アリトンは一時間後に、にこにこしながら出てきた。彼女の顔や手やドレスには血がこびりついていた。そのあと数時間は、食べ物や水を運んで行ってもなんの音もしない。呼びかけても応答はない。ときどきかすれた祈り声が聞こえるだけだった。
そのあとの三年は、いつも静かでした。アリトンは五分で出てくるようになった。そんな彼女はつまらなそうだった。コタローに話しかけても、私では無理だった。彼は私を無視した。イトナはこのころ、地下室へよく下りていた。辛そうな顔をして、爪を深く噛みすぎて、いつも指から血がにじんでいた。
そのあと、アリトンは二年間、地下へ下りなかった。ただ、私たちに食べ物を忘れないように命令した。コタローが死んだらイズルが気付くから。ベールがあっても、厭世家が死んだら、担当天使だけは気付いてしまう。だから私とイトナは忘れずにコタローを生かした。それは、なんの反応もないナメクジを育てている気分だった。
最後の一年、アリトンはまた、コタローの檻に入っていくようになった。出てくる彼女は不機嫌そうだった。そしてある日突然、コタローを解放した。
コタローはひどくやつれて、服はぼろぼろでくさかったけど、生きていた。彼はふらふらしながら出てきた。その顔はしょぼくれていたけど、目はしっかりしていた。彼はバイクにまたがり、去っていった。それが半年前。
三ヶ月くらい前から、コタローは前と同じように、ときどきエデンの外に来るようになった。アリトンに会わないように、こそこそしていたけど、それでも来た。彼は前と同じように、迷子たちを導こうとした。けど、私に対して、文句を言わなくなった。アリトンに心を戻せとは言わなくなった。
アリトンとコタローが地下室で何を話したのか、私は知らない。けど、きっとアリトンは厭世家を誘惑したのです。そしてコタローはまんまと迷子になった。
コタローは迷子になってこの家に住むと言ったけど、地下室はいやがった。そこでの思い出は、人間の尊厳がないようなことだからです。たしかに地下室はひどいにおいがします。私はなるべく行きたくない。
監禁するのは悪いことだと私は知っている。そしてそれを笑いながらやるアリトンは、悪魔です。悪魔は悪いことをするのが好きだから、アリトンは笑っていられる。
もし監禁したのが迷子だったら、もっと申し訳なさそうな顔をしたと思う。イトナは7年のあいだずっと、申し訳なさそうな顔をしていた。いつもコタローを励まそうとつとめていた。けど、自由になった今では、あきらかにコタローを嫌っている。
コタローは厭世家だから、完璧にちかいから、きっと心が強いのだと思う。だから監禁されたあとでも怖がらずに、アリトンの家にいたいのだと思う。けど、アリトンはすごいと思います。厭世家を迷子にするなんて、誰もできなかったのに。
私はコタローに「アリトンはいつ帰ってくるだろうね」と言った。コタローは「さあ」と言って肩をすくめた。私は「アリトンとノームは知り合いなの?」と言った。するとコタローは「アリトンとノームは」と言いかけた。
けど、その瞬間大きな音がして、私とコタローとガズラはそっちを見た。イトナがステッキでテーブルをたたいて、まっぷたつにしていた。イトナはコタローをにらみ、首をふった。それでコタローは口を閉ざしてしまった。
ガズラは「なんだよ、イトナ」と文句を言った。私はわけが分かりませんでした。イトナはいつも、賢くて大人しいのに。
結局、私はコタローが何を言いかけていたのか聞きそびれました。あとで思い出したら、また訊きに行こうと思います。
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