◎魔女狩りの理屈
コバはポケットからハンカチを引っぱりだし、血にぬれた刃先をぬぐった。
「日本のカタナは世界一の切れ味だときいてるけど、切り落とせたためしがないわ」
コバのハイヒールに血のしみがつく。コバは仕事を終えて家に帰り、ヒールを脱ぐときはじめて、赤黒くこびりついたコタローの血に気づくのだろう。
コタローを見やった。額に脂汗をうかべ、あさい息をはいている。死んではいない。でも、死ぬかもしれない。斬りつけられた肩からは血があふれ出している。
言葉が出なかった。でも、何か発することができたとして、なんと言えばいい?
大丈夫?
痛くない?
死なないよね?
ああ、だめだ。大丈夫なわけない。痛くないわけない。死ぬかもしれないのに。どうする。どうすればいい。人間は、どのくらい血が出ると死に至るんだっけ? 思考回路がばちばちと火花をあげはじめたころ、コタローの目がうすく開いた。コバを見上げ、口の端をあげて、笑った。
「日本刀の切れ味は、世界一だ」
痰がからんで切れぎれになった声で、コタローは言った。
「でも、そいつは最高の条件がそろったときの話だ。腕のいい研ぎ師と修練を積んだ剣客がいて、はじめて成立する。おまえなんかが、人をまっぷたつにできるもんか」
コタローはうめきながら身を起こそうとした。私はあわててコタローの背を支えた。どろりと生あたたかい血の感触。少しずつ脈打って、今も流れ続けている。
「コタロー、寝てて! まだ、血が……!」
「……寝かしといてくれないんだもんなあ」
コタローはかすかに笑った。コバが一歩近づき、びくりとして彼女を見つめた。
背が高く、太っていないのに胸が大きい。白っぽい七部丈のセーターにも、ひざまでのスーツスカートにも、血はついていない。ただ、そのハイヒールに、彼女の罪の証が刻まれている。人を斬ったという、許されないはずの罪が。
「よろこぶべき話かもしれないわね。つまり、私は人殺しには向いていないということだもの。このカタナを正しく扱えていないということは、つまりそうでしょう?」
「……どうだろうな」
コタローはずりっと前に出て、私をかばうようにコバを見上げた。
「なんだか妙なセリフが聞こえたよな。『切り落とせたためしがない』とかなんとか……今までいったい、何を切り落とそうとして失敗なさったんですかね……」
コバは眉をつり上げ、「さあ」とうそぶいた。
「おまえ、カヤを殺す気でいるのかと思ったぞ。まさか人間が人間を裁くなんてまねはしないと思うが……まさか、だよな?」
背筋がぞくっとした。
つまり、私は……コタローがかばってくれなければ、コバに斬られていた?
コバは日本刀をぬぐったハンカチを捨てると、両手で刀をかまえた。
「私が彼女を裁くはずがないでしょう。裁く方はただ一人、全能にして愛ある神よ」
「……本当にそう思うなら、帰ってのんびりコーヒーでもすすってりゃいいだろ」
コタローは肩の痛みにうめき、小さな声で付け足した。
「……おまえの天使と」
「天使スメルは私の行動を認知しているわ」
コバの声はひやりと凍っていた。
「私は迷子の監察権限を与えられている。手に負えないと判断すれば、あとは神のご判断に任せ、祈りをささげるわ。主よ、この者に罪がなければ、どうぞよみがえらせください、とね」
「……よくも」
コタローはよろめきながら立ち上がろうとして失敗した。
「コタロー、やめて」
私は半分叫んでいた。無理に動くと、余計に血が流れ落ちていく。
「……よくも厭世家になれたもんだ。よくもスメルが墮天しないもんだ。いったいなんでだ? そんな理屈、あってたまるか。神が容認するわけがない!」
「あら、至極まともな考え方だと思うけど」
コバは意外そうに首をかしげた。
「ハルマゲドンの前は、そんな価値観であふれていたでしょう?」
「ふざけんな。人間を殺して、神が許すとでも思ってんのか。そんなの、中世の魔女狩りと同じじゃねえか」
「『中世』? ……ああ、そうか」
コバは謎がとけたという顔で、コタローを見てうなずいた。
「あなたは……終わりの日の人間なのね。ハルマゲドンを、その目で見た世代ね?」
うらやましいわ、とコバは肩をすくめたけれど、感情はこもっていなかった。
「私は楽園が来たあとに復活したから、神の奇跡は見ていないの」
コタローは、そうか、と苦しげに息を吐いた。
「おまえ……中世の人間なんだな。あのアホみたいな暗黒時代の……」
「終わりの日の人間にとやかく言われる筋合いはないわ」
コバはきっぱりと言った。
「終わりの日だって、ろくなものではなかったときいている」
コタローはちょっと笑った。
「耳が痛いよ」
私はふたりを交互に見て、震えていた。そうか。同じ厭世家でも、同じ時代を生きていたわけじゃない。アダムとエバのあと、ハルマゲドンが来るまでには6千年の時が流れた。そのあいだに、たくさんの人間が生まれて死んだ。その数えきれない人間の中から、14万4千人の厭世家が選ばれたんだ。6千年のあいだには、いろいろなことが起こったし、いろいろな考え方がその都度存在していた。
終わりの日には、資本主義がもてはやされた。人々は躍起になってお金を稼いだ。その流れには、善人だろうと逃れられなかった。お金がなければ、人には何もないのと同じだった。
中世と呼ばれる時代には、人々は神を信仰するばかりに、悪魔の弾圧をはじめた。悪魔と通じた魔女を探し、疑わしい者は殺された。もしも無実なら、魂は天国へ行くだろうと言って、殺し続けた。
当時はそれが常識だった。だれも不思議に思わず、受け入れていた。だけど終わりの日の人間は中世の魔女狩りを、野蛮で醜いと思っている。中世の人間は終わりの日の資本主義を、あさましくて醜いと思っている。
常識は時代で変わる。コバの常識と、コタローの常識と、そして私の常識は、どれだけかけ離れているのだろう。
「ごめんなさいね、カヤ」
名前を呼ばれて、びくっとした。コバが感情のない目を、私に向けている。
「ゆうべの時点では、あなたに刃を向ける必要はなかったの。でも、あなたが逃げ出したのを見て、疑問にかられたのよ……信者のくせに、協力的だとは思えなくてね」
そう言って、日本刀を持ち上げる。コバは本気だ。
「おいおまえ、昨日はカヤは巻き込まれただけだって、いかにも理解のあるような顔で言ってたじゃんか。なのに今は、実行犯扱いか?」
「私は犯人探しに興味はない」
コバはコタローに目を落とした。
「私は天使スメルの従者。彼のもとで動き、最善と思える行動をする」
「だから、いったいなんなんだよ、そのスメルってやつはよ」
コタローは背中の猟銃を引っぱって、コバへ銃口を向けた。コバは動かない。
「手取り足取り指図してるわけでもなさそうだが。カヤを殺すことを、その天使は本当に認めるのかよ?」
「彼の判断基準は熟知しているわ」
「あっそう。他の天使はどう思うかね?」
「私は他の天使との親交はない」
「ああ、だろうね。この冷血女」
コバは真っ赤に染まったコタローの肩を見つめた。血のいきおいは弱まっていたけれど、止まってはいなかった。だらりと下げた腕はぴくりともしない。指の先からぽたぽたと落ちて、地面に小さな血だまりを作っていた。
「人質が必要なら、またエデンをうろつけばすむでしょう。あなたたち迷子は、いつもそうやって天使や厭世家に要求を押し付けているものね」
コタローはだまっていた。コバは身をかがめ、銃口に指を入れてコタローを見た。
「さあ、撃ちなさい。暴発してあなたも死ねるわ。厭世家が死ねば、エデンの外だろうと担当天使だけは気づいてくれる。あなたも厭世家だというのなら、祈りを捧げてもらえるでしょう。あとはあなたの信仰次第ね」
「……おまえは、死ぬのが怖くないのか」
「私は神を信じているもの」
コバは気高く言った。
「……さすが、中世の魔女狩り時代を生きた人間だ。くそったれな狂信者め。おまえ、いったいどれだけ無実の人間を魔女扱いして、殺したんだ?」
私はびくびくとコバを見つめた。彼女は何も言わなかった。じっとコタローを見つめ、銃口の指を抜いて一歩下がった。
「私が今、用があるのはこの子の命だけ。裏切り者の厭世家のことは、見逃してもいい。どうせあと22年したら、あなたたち迷子は滅ぼされる」
「じゃあ、カヤを放っておけよ。迷子なら、22年待てば勝手に死ぬんだろ?」
「私がカヤを手にかけるのは、記憶を抹消させるためよ」
手が小刻みに震えた。
記憶を、抹消する。
人間はめったなことでは死なない。運悪く死んでしまったとしても、信仰があれば天使の祈りによって息を吹き返すことができる。しかし、記憶はない。エデンの園での記憶はすべてなくし、改めて神を愛さねばならない。厭世家は別だ。厭世家はハルマゲドン前の記憶が残る。でも、千年王国での記憶は、やはり消えるらしい。
私が死ねば、ノームの最期は誰の記憶にも残らないことになる。
もし復活できたとしても。
「カヤはノームの死に立ち会った。一人の人間だけが、霊者の死を目撃したの。それが何を意味するかわかる? 『霊者を殺す方法』を、誰もが知りたがる。カヤを捕らえて、拷問にかけようという悪魔は必ず出てくるわ。そうならないために、確実な方法で記憶を消してあげましょうと言っているのよ」
コバは私へ目を向けた。
「ノームの死の報は広まりつつある。悪魔があなたを追いはじめるわ」
「待てよ、待て待て」
コタローが首をふって荒い声を出した。
「ノームが死んだ原因を知らなくていいのか? もとはそのために派遣されたんだろ?」
「カヤが協力的なら、その方法もありえたでしょう」
コバは肩をすくめ、あなたが悪いのよ、という顔で私を見た。
「真相を知るよりも、闇に葬り去るほうが賢明な場合があるわ。神だけがご存知ならそれでいい」
「つまり、思考停止か。狂信者らしいこって」
コタローがぼやく。コバはコタローを無視した。
「大丈夫よ、カヤ。もしもあなたが無実で、神を愛していれば、必ず復活を遂げるでしょう。すべてを忘れた状態で、もう一度やり直せるわ。この男のことも、私から逃げ出したことも、すべて忘れる。あなたの家族に連絡を取りましょう。何も心配いらない。私がすべてきちんと手配するわ」
「……おまえ、その魔女狩り理論で、今まで何人殺した?」
コタローの冷たい声に、私は氷を飲み込んだようになった。
厭世家が、武器の所持を許されている理由。
「……人聞きの悪いことを」
コバはあごをつんとそらし、少しだけ口をすぼめた。数えているみたいに見えた。
「……指で数えられる程度よ」
「指、か」
コタローがくくくと笑った。笑えない。指って、足も含めたら、20本あるじゃない。私にはいやというほどわかった。コバがこんなにも冷たくて、恐ろしい理由が。
コバに悪意はない。
正義もない。
ただ、義務があるだけだ。
コタローは深いため息をつき、ちらりと私をふりかえった。
「なあ、どう思う、こういう厭世家」
私はこぶしを握りしめた。あんたなんかにそのセリフ、言われたかないっての!
「……もう、いったいなんなのよ」
私は立ち上がり、コタローが持つ猟銃の銃身をつかんだ。
「おい、なんのつもりだ」
コタローがわめく。私はじっと、背の高いコバの目を見上げていた。
「貸して」
「は?」
「けが人はすっこんでろって言ってんの!」
「おまえなあ、こんなもん持って怖いだとか、恐れ多いとか、そういう感情――」
ああ、もう、この期に及んでいらつく!
私は無理やり猟銃を奪うと、銃口をまっすぐコバに向けた。
「私にかまうのはやめてください」
今までに出したことのない、冷たい声が口から出た。だけど、足りない。体の芯まで冷えきるほどの声を出したかったのに。
「私は何も知らない。ノームを殺していないし、どうして死んでしまったのかも知りません。放っておいてくれませんか。自分のことは、自分でめんどうみますから」
コバはふっとバカにしたような笑い方をした。それも一瞬だったけれど。
「自分のことは、自分でめんどうみる、ね」
私は猟銃を握りしめた。コタローがかまえていた持ち方を必死で思い浮かべる。たしか、銃床を肩につけて、頬を思いっきりくっつけて……それらしく見えるよう、必死でしがみついた。本気さを見せるために。
「たった今も、その男に何から何まで守られている小娘が、ずいぶんな自信ね?」
食ったように笑うコバを、ぎっとにらみつける。
「私はまだ、死にたくないんです」
「もしあなたが無実なら、死んでもまた復活できるでしょ」
コバは私のかまえた銃なんか、目にも入らないようだった。一歩近づき、凍てつくような目で見てくる。私なんかとは比べ物にならない、威圧感。
ちぇ。くやしいけど、完敗だ。歳の差はだてじゃないな。こっちは27年、対するあっちは、千年くらい?
コタローが私をとどめようとする。私は思いっきり押しのけて、もう一歩コバににじり寄った。コタローがわめく。
「なんなんだよ、おまえ! 死にてえのか!」
「んなわけないでしょ! 死んで復活できる保証がどこにあるっての?」
コバは首をかしげ、「保証ならあるでしょう?」と言った。
「祈りなさい。神は必ず聞き届けてくださる。あなたが愛を持っていさえすれば」
「それが問題なんです、コバ」
私は肩をすくめ、ちょっと笑った。そう、笑っちゃいたい気分だった。
昨日の今頃は、のんきに鼻歌を歌いながら、ガルと散歩してたってのに。なんで私、血だらけになって銃を人に向けてんの?
「神を信じていれば——愛していれば、復活できる。そこに疑いはありません。問題は——本当に神を愛しているのか? っていう、根本的なところにありまして」
「……そう」
コバは日本刀をかまえ、私をねめつけた。
「あなたは……迷子なのね?」
「おいおい……やめてくれ……」
コタローのうめきが背後から聞こえてくる。私はコタローを蹴ってから(ぐえ! という悲鳴が聞こえた)ますます銃をかかえこんだ。引き金に指をかける。
「あなたは厭世家。それは疑いません。でも、どこに愛があるのか、私にはわからない。あなたは最善の行動をしているって言いましたけど——厭世家のくせに、暴力で解決するなんて、罪悪感はないの?」
「厭世家である前に、私は一人の『人間』よ」
コバの声がするどく響いた。その目は凛と光っている。
「あなたには想像もつかないでしょうね。『誰も信用できない時代』が、どれほど人の心をねじ曲げたか。厭世家が天使と同等だとでも思っているの? 私もその男も、あなたと同じ、弱い人間よ。その人間が人間を救おうと思ったら、方法はいくらもないわ。時には力でねじ伏せることだってある。キレイ事だけでは、理想は語れない」
「でも……それでも……」
かまえた銃身が、ぶれる。
弱い人間。そんなふうに言う人は、エデンにはいなかった。私たちはハルマゲドンのあと、完璧になった。そのはずだった。
コバは……コタローは、強く見えるのに。ちがうの?
コバは舌打ちすると、銃身をつかみ、銃口を自分の心臓の上にぴたりと固定した。
「自立もできないくせに文句ばかり言うガキの相手は、反吐が出る」
コバの冷たい目。私は何も言えなかった。言う権利なんて、ないと思った。
「さあ、撃ちなさい。その銃を扱えるなら」
引き金にかけた指に、力を込める。息が荒くなる。人間は、弱い……。それは、私も……?
「やめろ」
コタローの声に、びくっとして力がこもった。カチッと、引き金が引かれた。
そして……何も起こらなかった。
「無知なあなたに教えてあげるわ。銃には子どもがいじっても撃てないように、安全装置がついているのよ」
日本刀がふり上げられ、切っ先が日の光にきらめく。
ずっと、自分には関係ないものだと思っていた。だけど、そっか。
これが死か。
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