◎十人の為に

 ぼんやりした意識のまま、ゆっくりと目を覚ます。うす暗がりの中で、小さなくしゃみをした。カタカタ震えながら身をよじる。あちこち痛い。筋肉痛と、打撲と、それからいろいろ。身体が重い。でも、起き上がらないと。


 ぐっと地面に手をつき、力を入れる。やっとのことで半身を起こすと、身体の上から何かが落ちた。男物の茶革のジャケット。誰のだろう、とはっきりしない頭で考えて、ようやく思い出す。コタローの着ていたやつだ。


 座り直して目をこすり、周囲を見回した。鍋の中でおこしたたき火はすっかり消えて、灰だけになっていた。鍋の向こう側に、コタローが丸くなって眠っている。古びたジーンズに、白い長そでシャツだけで、寒そうに自分の身体をかかえこんでいる。


 コタローのジャケットを着て、身体にぴたりと巻き付けた。寒い。ちょっと借りとこう。コタローは一応長そでだし、いいよね。私の上着はもうないし……そこまで考えて、ノームが頭をよぎり、あわてて首をふった。今は、そう、トイレを探そう。


 立ち上がると、さらに痛みが走った。昨日のあれやこれやをさしひいても、地面の上で一夜を過ごせば痛くもなる。ふかふかのベッドがなつかしい。清潔な服と、なんでもそろった洗面所と、おいしい朝ごはんと、それから……現実は最悪だ。


 コタローを起こさないようにそっと歩いていく。腰にくくられた猟銃のヒモは、いつの間にか外されていた。


 外へ出ると、冷たい空気が息を白くした。日はまだ地平線の下にいるみたいだけど、空は白みはじめている。どっちを向いても灰色の廃屋がぼんやり立ちあらわれ、覆い隠すように木々やツタが生い茂っている。金色と藍色のあいだを取ったような空は冷え冷えとして、澄んでいた。


 トーキョーはどっちを向いても似たような建物ばかりで、どこも同じに見えた。こんなところでひとりぼっちになったら、永遠にさまよい続けてしまう気がした。


 しばらく自分の白い息を眺めていたけれど、ぶるっと震えて歩き出した。わかっちゃいたけど、清潔なトイレはどこにもなさそうだ。崩れた瓦礫の陰を見つけて用を足す。ポケットに手をつっこんで、私は固まった。引っぱりだし、目を落とす。


 星空の映画祭


 ガルを思い起こしながら、紙をちぎって使った。立ち上がり、寒さに震えながらもとの道を戻った。建物に入ると、昨夜は気づかなかったものが目についた。床に散らばった、ナイフやフォーク。それに、食べ物の写真。ここはレストランだったんだ。写真にそえられた数字は、用意している食べ物の数をあらわしているのかな。


 いや、ちがう。これは値段だ。ぴんときた。あの時代は、なんでもかんでもお金でやり取りされていたんだ。お金を持っていないと、食べ物さえ手に入らなかった。そう考えると、この建物が急に哀れっぽく見えてきた。お金でしか信用が見えなかった時代。ここはその象徴だ。


 部屋の中の紙の束をあつめ、火をおこそうと試みた。コタローが燃やし残したテーブルやイスの欠けらを鍋に積み上げ、準備ができてから、あれっと見回す。


 昨日、コタローは小さなプラスチックの道具で火をつけていた。あれはどこだろう? しばらく歩き回って、コタローの尻ポケットから半分のぞいているのを見つけた。指でつまみ、息を止め、ゆっくりゆっくり、引っぱりだす。どうか、起きませんように……起きるなよ、たのむから……。


 コタローは起きなかった。小さく息を吐いてコタローをまたぎ、鍋の前に座り込む。


 これは今でいう、マッチの代わりにちがいない。たぶん終わりの日の産物だ。終わりの日には簡単で便利なものがもてはやされた。だから人々はマニュアル車よりもオートマを好んだし、愛よりお金を選んだ。


 まあ、仕方のない面もある。彼らには時間が貴重だったんだ。今みたいに完璧ではなかったから、病気や老衰で死んでしまった。限られた時間を効率よく使うために、こういう道具が必要とされたんだろう。


 コタローはあんなに簡単に火をつけていたのに、どんなにがんばっても火はつかなかった。同じようにこすっても、力を込めても、まるでだめ。何十回めかに、やっとついたと思ったら、指を離したとたんに消えてしまった。


「くっそー!」

 歯ぎしりしていると、寝ぼけた声がした。

「女が『くそ』とか言うなよ」

 あわててふり返ると、コタローがぶるぶる震えながら身を起こし、あくびまじりに私を見ていた。かったるそうに手を伸ばす。

「貸してみ」

 私はだまってコタローに道具を手渡した。

 コタローは受け取ると、「あいてて」と言いながら私のとなりへ移動し、二、三回こすって火をつけた。

「ライター、はじめて見たのか?」

 私はうなずく。

「……ま、タバコ吸うやつもいなくなっちゃったしな」


 コタローはくすぶりかけた火に息を吹きかけて大きくし、ときどきつつきながら火を安定させた。もう簡単には消えないとわかったころ、火に手をかざして「うー」としみいるような声を出した。

「寒かったあ……布団くらい探してから寝るべきだったか……いや、ここら辺にはさすがにないか……」

「今から探す?」

「いや、やめとこう。今日一日歩いても浅草までたどり着けるかわかんねえし……いや、着くか。何時間かかるかなあ……」

 お腹がグーっと音を立てて、私は顔を赤らめてちぢこまった。コタローが火を見つめながら、ははっと笑う。

「布団よりまずは、食いもん探さねえとな」

「それこそ、ここら辺にはないんじゃないの?」

 私がむくれて言うと、コタローは「どうかな」と笑いながら猟銃をかついだ。

「さ、行こうか。また悪魔が手を貸してくれりゃいいんだけど」

 うん、とうなずきながら、私は口をすぼめた。


 なんだか、調子がくるう。コタローは意地悪じゃないし、普通に優しかった。寝起きで素が出ているのかと、思ってしまうじゃない。



 車が何十台も詰まった交差点の真ん中に、青地に白で標識が書いてある。あちこち剥げて、ほとんど読み取れなかったけれど、コタローはだいたいの内容を知っているようだった。ぶつぶつ言いながら指をさし、うん、とうなずく。

「こっちだ」


 ハルマゲドンの日、人々は地球最後の日を知ってパニックにおちいった。意味がないのに、車に乗ってどこかへ逃げのびようとした。それで、道路には車が散乱し、今では動植物がねぐらにしている。


 コタローは車の下の暗がりに鳥の巣を見つけて、「やったー」と喜びながら小さな卵を引っぱりだした。親鳥が怒ってその手をつつきまくっている。


 私はげんなりしながら笑顔のコタローを見た。

「……あんたが厭世家っていう話、やっぱり疑わしいと思うの」

「なんだよ、おまえベジタリアンなの?」

「卵は食べるけど。それ、どう見ても有精卵なんじゃ……」

「食っちまえば同じだって。あー、白いお米と醤油があれば最高なんだけどなー」


 日がのぼりはじめたころ、果物をとって火をおこし、卵をゆでた。コタローはまたしてもレストランを簡単に見つけ出し、鍋を探し当てた。コンクリートの割れ目にできた小さな川で水をくみ、果物を食べているあいだにゆでる。


 コタローは「せめて塩があればな」と文句を言ったけど、できたゆで卵は今までで一番おいしかった。半熟で、びっくりするほどとろっとしてる。カチカチになるまで卵をゆでるのが普通だと思ってたのに。目からウロコが落ちた、サウロの気分だ。


 ひもじさからは解放されたけれど、そのあとはひたすら歩き続けなくちゃいけなかった。コタローはだまっていると死んでしまう病気なのかもしれない。口を閉じることなく、しゃべり続ける。こっちがうんざりするくらい。


 今歩いているトーキョーがどんな街だったのか。トーキョーを首都としていた日本がどんな国だったのか。日本の中で一番日本らしかったというキョート、陽気でしたたかな人々が暮らしていたオーサカ、北はホッカイドー、南はオキナワ、外交を断って、ひたすら平和を築いたエドの時代……


 ガルがここにいたら、目を輝かせてコタローの話に聞き入っただろうな。ガルはもともと、日本文化に興味を持ってこの地へ移り住んだ言語オタクだったから。ガルによれば、国民性や文化は、言語と深い関わりがあったという。たとえば、当時ポピュラーだった英語にはない表現が、日本語にはたくさんあった。


「伝わる」

「がんばって」

「お疲れ様です」

「なつかしい」

「いただきます」

「ごちそうさま」


 これらは日本語特有で、にもかかわらず日常的によく使われていた。英語で「伝わる」といえば「メッセージを伝える」くらいのニュアンスしかないけれど、日本語の「伝わる」には、「感覚や気持ちが相手に染み入る」という意味合いがある。


 あいまいで、言葉にしないでも気持ちを察するような単語が、日本語にはたくさんあった。だから日本人はあいまいで、言わなくても通じるような「絆」が大好きだった。そして、「絆」をテーマにした創作物がたくさん作られた。


 対して、英語が主語だったアメリカでは、はっきり、きっぱりした考え方が主流だった。英語そのものにそうした単語が多かったからだ。アメリカの映画には、「正義」や「運命の愛」をテーマにする作品が多かった。


 どっちがいいとかじゃない。言語が人々の考えを形作り、思考を形成したんだ。

 それって、最高に興味深いじゃないか? ガルはそう言った。


 私の興味はそこらへんにはない。私の興味はこの国のファッションだった。キモノ、ハカマ、コソデ、ジンベエ……なのに、コタローの格好を見てがっかりだ。あんな革ジャン、終わりの日のアメリカ人みたいじゃない。


 一回だけ、私はそ知らぬ顔で「着付けができる?」と聞いてみた。そしたらコタローは「着物なんか、着たこともない」と答えた。

「クリスチャンだったからお宮参りも七五三もなかったし、成人式はスーツだった」

 なんてつまんないやつ。この男はなんのために日本人だったのだろう。


 だけど、コタローはしゃべり続ける。私が聞いていないと知っていながら。たぶん、他のことを考えたくないから。ゆうべ、火を囲みながら、コタローは言った。ノームを恨んでいるやつはたくさんいる、と。そのあとで、私はコタローに訊いた。


 あなたもノームを恨んでる?


 コタローはじっと火を見つめて、しばらく答えなかった。答えたくないんじゃなくて、コタロー自身、本当の気持ちがわからなかったんだと思う。やがて息を吸い込み、背筋を伸ばして「いや」と言った。

「ノームを恨んだって仕方ない。やっこさんは生き残らせるべき人間を指令どおりに選んだだけだ。それがやつの仕事だったし、誰より公平なやり方だったと思うよ」


 私はひざを抱えてうつむいた。その答えは、頭で考えた「模範解答」にしか聞こえなかった。

「……私は、選ばれなかった人のことなんて、ちゃんと考えたことなかったけど」

 私はおずおずと言った。

「……でも、14万4千人に選ばれなかったなら、善人ではなかったんでしょう?」



 ソドムとゴモラの町を滅ぼすつもりだと知った人間が、神に問いただした。もしもその町に善い人間が50人いるとしたら、それでもあなたは他の大勢の邪悪な人間を滅ぼすために、その地をぬぐい去るのですか、と。


 神は言う。その50人のために、私はその場所全体を容赦しよう。


 では、その数が45人だったなら。それでもあなたはその都市全体を滅びにいたらせるのでしょうか。


 神は答える。そこに45人を見いだせば、私はそれを滅びにいたらせはしない。


 40人、30人、20人……神は答える。その10人のために、それを滅びにいたらせることはしない。


 それで、神はロトとその家族を避難させ、ソドムとゴモラを滅ぼした。その地にいた義人は、まさにロト一人だったから。



 だから、14万4千人に選ばれなかったとすれば。滅ぼされた他の人間は、みんな邪悪だったことになる。


「そうなるんだろうな」

 コタローは口元だけで笑った。

「どんなに人望があっても、熱心に祈っていても、心の中まで見すかせば、善人か偽善者かはわからない。ノームはよくやったよ。きちっと善人だけ選んだ。神も喜んだんじゃねえの」


 私は厭世家に何人か会ったことがある。彼らはみんな長老で、私たちを導いてくれる存在だった。彼らは霊者と同じように、一人で立っているように見えた。自分で家族を作り、幸福を作り出しているように見えた。


 だけどもちろん、彼らにも産み落としてくれた親がいるはずだ。一緒に育った兄弟や、友達や恋人や子どもがいたはずだ。ハルマゲドンが来るまで、彼らは厭世家とは呼ばれなかった。他のすべての人と変わらない、その他大勢の一人にすぎなかった。


「コタローには……家族がいた?」

「いたさ」

 あぐらをかいて猟銃をかかえたコタローの目は、うつろに炎を見つめていた。いや、そう見えただけなのかもしれない。コタローの瞳は、びっくりするほど真っ黒だったから。でも、そのとき確かに、私はコタローの目に光を見いだせなかった。

「たくさんいたさ」

 その夜、私はもう何も訊けなくなった。



 私のとなりを歩きながら、バカみたいに昔話に花を咲かせるコタロー。一見すれば、この男がハルマゲドンを生き残った厭世家だなんて、思えない。ノームの死に涙を落としたエードや、私を連れ戻しに来た冷徹なコバなら、わかる。彼女たちは選ばれたんだ。善人であることを証明されて、優しさと厳格さを評価されている。


 ……でも、このコタローは?


「あんた、本当に迷子なの?」

 私はコタローのおしゃべりをぶった切って訊いた。ちょうどアケチミツヒデとオダノブナガの確執について語りはじめていたコタローは、眉をつり上げて私を見た。私は気づいていた。昔話ばかりしているように見えるけれど、コタローは自分の話をしていない。


「最初にそう言ったろ。でなけりゃ、こんな廃墟歩いてるかよ」

「でも、あなたは厭世家でしょ? ノームが公正に選んだ『善人』なんでしょ?」

 私は食い下がった。考えれば考えるほど、ある思いが大きくなる。


 そうだよ、コタローは迷子じゃない。迷子を演じているだけ……?


「何かの理由があって、迷子のふりをしているんでしょ? 悪魔や迷子を欺くために。終わりの日の映画で見たことあるよ。スパイっていうやつ、そうでしょ? ねえ、誰にもだまってるから、本当のことを教えてよ。コタローは、本当は天使の命令で、こんなことをしてるんだよね? そうだよね?」


 そうだよ、だからコタローはバスから飛び降りてまで私を追いかけたんだ。あのとき、他の二人はバスを止めようとすらしなかった。でも、コタローは私を一人にさせなかった。エデンの外が危険だって知っていたから。信者の私を守ろうとしたから。


 そうに決まってる。


「おまえなあ……」

 あきれたように私に向き直ったコタローは、目を見開いた。突然肩をつかまれ、地面に倒される。背中にがれきがぶつかり、小さく叫んだ。

「ちょ、何をーー?」

 何が起こったか、すぐにはわからなかった。私の胸の上に、ボタタッと生あたたかいものがしたたり落ちる。顔に流れ落ち、口に入る。鉄の味がした。


 目を上げると、コタローが私に覆いかぶさって、浅い息をついていた。汗びっしょりで、目は揺れている。私をつかみ、歯を食いしばって意識を保とうとしている。その肩に、ぎらりと光る日本刀が食い込んでいた。


 日本刀が引き戻され、肩を切り裂いた。転がるように私の上からどいたコタロー。その背後に立っていた人物が、静かに私を見おろしている。


 コバ。


 彼女は日本刀に目を落とし、コタローの血を払うと、不満そうに鼻を鳴らした。私はコタローの血をあびて、ぼう然としていた。となりには、うずくまる男がいた。私をかばって死にそうになっている、迷子の厭世家がいた。

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