◎違和感

 猛スピードで走る車の助手席で、コタローはバカみたいに笑っていた。


 コンクリートのひび割れや、道路に身をのばした植物にのりあげるたび、車がはずむ。私はいきなりブレーキをふみ、ハンドルを切った。ずざっと、車が横すべりになって止まる。


 笑っていたコタローが頭をフロントガラスにぶつけて、私をにらんだ。

「何やってんだ!」

「本当、私、何やってんだろーー厭世家の命令に逆らうなんて……!」

 自分の行動に震えながら、車をUターンさせる。

「戻らなくちゃ――」

「ばか、車を戻せ。厭世家の命令だって言うんなら、おれだってそうだぞ!」

「信じられない」

 私はうさんくさい目でコタローを見た。


 見るからに悪そうな目つきに、見るからに悪そうな服装。何より、バスに乗り込んだ時から今にいたるまで、その乱暴なふるまいがすべてを物語っているじゃない。


「あんたのどこが厭世家だっていうの?」

「言ってくれるじゃん」

 コタローはイラついたように笑った。

「ま、そうだわな。迷子の厭世家なんざ、14万4千人のうちでおれくらいだろよ」

「狂ってる。あんたは思い込んじゃってるだけよ。自分が特別な厭世家だと信じ込んでるんだわ。あんたは迷子になって思い詰めすぎて、悪魔に頭をやられたのよ」

「そうだったら良かったんだけどね」

 コタローは皮肉っぽく笑った。私をにらみ、不機嫌に言う。

「おれの話なんかどーでもいい。さっさと車を先に進めろ。殴るぞ」

「ほら、やっぱり」

「あ?」

「あんたが厭世家のはずない。厭世家が人を殴るわけないもの」

「へえ、なんでそう思う?」

「だって、厭世家は終わりの日の、暴力に満ちた世界を生きていたのよ」

 私はもう一度アクセルをふみ、言われたとおり車を戻した。

「暴力の理不尽さと残酷さは、誰より知っているはず。本当に厭世家なら、わざわざ過去のいやな思い出を呼び起こすようなこと、するはずない」


 コタローは短く笑った。なによ、と私が噛みつくと、コタローは言った。

「おまえ、つまりこう思ってんのか。戦争経験者は虫も殺さないし、レイプにあった被害者は、怖くて二度とセックスできないって?」

 顔がほんのり赤くなるのを感じた。コタローは手をふって、「無垢ってのはいいことだよなあ」と笑った。

「悪いことじゃねえよ、ほんとに。終わりの日ならともかく、だますようなやつがエデンにゃめったにいないんだから、そりゃそういう思考回路にもなるよな」

 私は顔をしかめ、コタローをにらんだ。

「思考回路?」

「そ。頭にお花畑が広がってるかんじ」


 コタローはにやっと笑って、体をこちらに向けた。

「バスジャックをしたとき、拍子抜けしたよ。おれたちに対して、おまえらは数で勝ってたのに、何もしようとしなかった」

「運転手が話しかけたでしょ。それに、三人の男の人が、あんたに何か言ってたわ」

「そう、説教はされたな」

 コタローは思い出し笑いをして、ぷっと吹き出した。

「あの三人組。笑えるよな。完全に体格でおれに勝ってたのに、おれをバスから投げ出そうとはしなかったんだぜ。武器を持ってるのはおれだけだった。おれさえ始末しちまえば、あの場は解決しただろうに」

 私は眉をひそめた。

「……やっぱり、狂ってる」

「へえ、何が?」

「あんたは、死にたかったって言うの?」

「論点をずらすなよ。おれがあの三人組の一人なら、そうするのにな、って話だ」

「そんなひどいこと、するわけないでしょ」

「だからおまえらは無垢だって言ってんだよ」


 私は首をふった。とうてい賛同できない。コタローはつまらなそうに前を見た。

「正当防衛って言葉すら知らないのか、おまえらは」

「……あんたはいかれてる。迷子はみんなそうなのかもしれないけど。そうよ、迷子だから、そんなひねくれた考え方をするんだ」

 コタローはくくくと笑った。

「迷子だって似たようなもんさ。霊者はそうでもないけどな」


 車に勢いがなくなり、やがて止まってしまった。

「ガス欠か」

 コタローは舌打ちした。まだ、三十分も走っていないのに。

「なんでだろ?」

「悪魔が手助けしてくれるからって、サービス満点だと思わないほうがいい。しょせん悪魔だ」


 コタローはドアを開け、外に出てうーんとのびをした。私はぱっと外に出て、全速力で走り出す。

「あっ。おい、このやろ!」

 すぐに追いかけてきたコタローに、あっさりつかまって引きずり倒された。


「なんなんだよ、おまえ」

 コタローの声にはイラつきと困惑がにじんでいた。私の手首をつかみ、東へ向かって歩き出す。ずりずりと私を引きずりながら。


「バスから飛び降りずについてきたと思ったら、土壇場で飛び降りるし、コバから一緒に逃げたと思ったら、やっぱりおれから逃げ出すし」

「だって……」

「だって、なんだよ?」

 車のライトがコタローの横顔をてらしだす。しかめた顔は、どこかぎこちない。まるで、本当は優しいのに、わざと悪ぶっているみたい。


 考えすぎだろうか。コタローが厭世家だと聞いて、私の脳みそがそう思い込もうとしているのかな? 今の今まで、そんなふうには見えなかった。本当は優しいかもしれないなんて、これっぽっちも思わなかった。コタローは生まれた時から、チンピラをやってますって人間に見えていた。でも、そんな人っているだろうか。生まれた時から、役割の与えられた人間なんて?


「コバは、何を考えてるのか分からなかったから……」

 私はうつむいて言った。コタローの顔を、まともに見たくなかった。真正面から見て、目が合ってしまったら。次はどんなふうに見えるのか、わからない。


「コバは、なんだか怖かった。迷子だけじゃなくて、私に対しても……ううん、この世のすべてに怒ってるみたいで……連れて行かれるのは怖かったの……」

「それで、迷子のおれのほうが、まだましだ、ってか」

 顔が熱くなる。罪悪感におそわれた。コバは少なくとも、私を助けにきてくれたのに。


 ま、そうかもな、とコタローは肩をすくめた。そして、私を引っ張って立たせる。車に背を向けたコタローの顔はライトの影になって、真っ黒に見えた。


「厭世家ってのはそういうもんだろ」

「……そういうもの?」

「世間を忌み嫌う、ってことだ」

 私は眉をひそめた。確かに、語源的には間違っていないけれど。

「でもそれは、終わりの日の堕落した世を、ってことでしょう?」


 コタローはだまって歩きはじめた。私の手を乱暴につかんだまま。うしろで、車のライトが弱々しく点滅して、消えた。あたりが真っ暗になる。目が慣れず、一瞬コタローが立ち止まる。

「そうだな」

 コタローの声は、しんと冷たい闇の中で、静かにとけていった。かすかな光を投げる星が、空を埋め尽くしていた。



 朽ちたコンクリートの道はあちこちひび割れていて、歩きにくい。割れたガラスや鉄くず、看板や標識が道に落ち、植物が無秩序に育って実をつけていた。建物はどれも崩れかけていたけれど、入っていっても平気なくらい、状態のいいものもある。エデンの外を徘徊する悪魔がときどき修復して、根城にしているのかもしれない。


 大きな四角い建物が多くなっていく。このあたりは住宅地というより、資本主義社会が生み出した、「店」の並ぶ町なのだろう。あちこちにならぶ看板の数も多くなっているけれど、私にはその文字がさっぱり読めない。


 ハルマゲドンのあと、人々の言葉は統一され、バベルで分けられる以前の言語に戻った。この島国でも、日本語という言葉が使われていた。趣味で過去の言語を調べる人はときどきいる。私の恋人のガルがまさにそうだ。


 彼は日本語の多様性に惹かれてこの地へ来た。日本語には三種類の文字がある。ひらがな、カタカナ、漢字。ひらがなとカタカナは表音文字といい、音のみを表す。漢字は表意文字で、これは文字そのものに意味がある。


 ガルが言うには、漢字は厳密には表語文字らしい。アラビア数字も表意文字の一種だし、他にも古代文明で表意文字と表音文字を組み合わせていたものはあった。シュメール語とか、ヒエログリフとか。けれど、終わりの日まで日常的に混在した文字をあやつっていたのは、日本くらいだった。


 ガルは目をきらめかせて言った。しかも、日本語には縦書きと横書きがあるんだよ、と。これも、ハルマゲドン直前まで混在して使っていたのは、日本と台湾だけだった。だから、日本の次は台湾のあった島に行こう、とも言っていたっけ。


 ガルは言った。日本人は、組み合わせるのが得意だった。考え方が柔軟で、曖昧さを好み、とりあえず使ってみようというノリの良さがあった。それは言い変えれば、主体性がないとか、唯一絶対の神を信じない、という見方もできるのだけど。


 でも、ガルでさえ、日本語をしゃべることはできない。日本語を知っている人はあまりいなかった。過去の言語について知っているのは、天使か、その時代を生きた厭世家くらいだ。けれど私もガルも、日本語を知る厭世家には会ったことがない。研究が進まなくて歯がゆいと、ガルはいつもこぼしていたっけ。


 車を直してくれた悪魔が言っていた。コタローを見て、珍しいって。君は日本人なのか、と。



「よーし。ここらで火をおこすか」

 コタローは建物のひとつに入っていき、勝手知ったる顔で奥へとすすむ。

「崩れたらどうするの?」

「崩れたら死ぬだけだ」

 ひひひと笑って、私を引っ張っていく。やっぱりこいつ、頭がおかしい。狂ってるんだ。


 中にはほこりがつもり、テーブルやイスが半壊していた。壁には消えかけた絵、床には食べ物の写真と数字がならぶ紙が落ちている。キッチンらしき部屋があって、さび付いた包丁やおたま、鍋が床に転がっていた。


 コタローはそこに入っていき、腰をかがめて何かを探しはじめた。ほこりがもうもうとたちあがり、咳が止まらなくなった。

「っしゃ、見っけ」

 コタローは広くて浅い鍋を手にして笑った。疲れたし、寒いし、お腹が減ったし、眠気にも負けそうだ。だからコタローにも素直に従い、言われるままにテーブルとイスを引きずってきた。


 コタローはテーブルの脚を折り、鍋に乗せて、床に落ちていた写真つきの紙を丸めた。ふところに手をつっこみ、ちいさなプラスチック製の道具を取り出す。

 親指くらいの大きさで、中が透けている。先端にねじがついていて、コタローはそれをこすった。ジッ、と音がして、火がついた。目を丸くしているうちにコタローは紙に火をつけ、息を吹きかける。火はテーブルの脚にも定着し、あかあかと燃えた。


「よーし、なんとかついたな」

 コタローはほっとひと息ついて私に笑いかけた。またもや腰にヒモをくくり付けられていた私は、むすっとしてその顔をにらんだ。

「なんだよ、かわいくねー女」

「ここで夜明かしするつもり?」

「そ。夜道は危ない。特にこっから先は迷子も多くなるし、おまえも疲れてあんましゃべんなくなったし」

 私は恥ずかしいのをごまかすために、ふんとそっぽを向いた。

「私は迷子と何人会ったって、誘惑されたりしない」

 コタローはぷっと笑った。私は顔をしかめてにらみつける。

「なによ。強がりだって、バカにしてんの?」

「ちげーよ。またもや無垢ゆえにとんちんかんなことを言ってるおまえが、哀れでさ」


 顔がほんのり赤くなった。とんちんかんって、どういう意味。

「おまえ、迷子に会ったら悪の道に引きずり込まれるとでも思ってんの」

「なによ。ちがうとでも言うつもり?」

「じゃ、こういうわけだ。意識を高く持ってれば、迷子に会っても問題ない、と」

「そういうものでしょ。自分がどう生きるのかは、自分次第だもの」

 げらげらと笑い出したコタローに、燃えかすを投げつけてやりたかった。

「ごめんごめん、そんな怖い顔すんなよ。じゃ、あれだ。コバみたいにお高く止まってりゃ、悪い人間に会くわしても、恐れることはないんだな?」

「そうでしょ?」

「そうかもな。でも、こうも考えられる。相手が本当に悪いやつだったら、おまえを見るなり、殺そうとしてくるかもしれない」

 一瞬、言葉を失った。

「……は?」

「それか、そうだな。おまえは女だから、いきなりレイプされるかもしれない」

「な、何を言ってるの?」

 意味が分からない。そんなこと……そんなこと、普通する?


「相手が大勢だったら、おれも殺されるかもしれない。こんな猟銃、一人に取りあげられたら終わりだもんな。おまえは大勢に廻されて、最後は殺されるかもしれない。殺してから犯されるパターンもあるな。そこまでいかずとも、身ぐるみはがされたり、鬱憤ばらしでリンチに遭う可能性だってある」

「ま、待ってよ。考え方が飛躍しすぎじゃない? 映画じゃあるまいし。そんなこと実際にする人間なんて、いやしないわよ!」

「そうかね?」

 コタローはきょとんとして首をかしげた。

 ぞっとした。あまりにも、普通の顔だったから。


 言っている言葉はどれも当然で……理解できない私が無垢なだけ。

 そう言われている気がした。


「悪い人間に気をつけろっていうのは、本来そういうことだ。終わりの日には、いつでも気をつけなくちゃならなかった。どこでも、誰でもな」

 コタローの顔に、にこっと笑みが広がった。

 まるで、信者たちに語りかける、厭世家の笑顔。


「そして、エデンの外ってのは、終わりの日と変わらない。だから、この先には迷子がいるから、ここで夜を明かして、明るくなったら出直そう、って言ったんだ」

 私はひざを抱えてだまりこくった。かすかに震えていたのをごまかすために。


 境界を越えたとき――エデンの外に入ったとき、迷子たちに殺されるかもしれない、と思った。でも、そこに具体的な恐怖があったわけじゃない。なんだかんだいって、なんとかなると思っていた。自分は助かる、いつか戻れるって、どこかで信じていた。でも、たった今気づいた。私は二度と、ガルに会えないかもしれないんだ。


「人質なんてとって、どうするつもりだったの」

 恐怖に耐えきれなくなって、言った。火をつついていたコタローが、細い目で私を見上げる。目をそむけ、言葉を続けた。

「人質なんかとったって、意味なんてないでしょ。神は迷子と取引しない」

 コタローがあぐらをかき、猟銃をかかえこむのが目の端にうつった。

「おれに質問する前に、おまえが言えよ。ノームが死んだってのはマジな話か」

 びくりとしてコタローを見た。

「……本当だよ」

 私は言った。


「今日、はじめて守護者の家に行ったの。まだ一度もあいさつに行っていなかったから。夜に映画祭へ行くことになって、その前に、ノーム様に会おうって……散歩がてら、歩いて行った。そしたら、急に違和感があったの。トリイをくぐった時だった」

「鳥居か。そうか、ノームの家は諏訪神社だったな」

 コタローが言った。私が首をかしげると、ごめん、と言って手をふった。

「続けてくれ」


 私は手を握りしめて考えた。あのとき、何があったっけ。砂利道にさしかかったときに違和感があって、それで――。


「感じたことのない、いやな寒気だった。何かがポケットに入ってた。どうしてそうわかったのかは、わからない。誰かにねじ込まれたわけでもなかったし、異物感もなかった。私が立ち止まって、ガルがどうしたの、って聞いてきて。答えられなかった。口がうまく動かなくて。それで、ポケットに手を入れて……」

「何が入ってた?」

「三つに折りこまれた、封筒。薄茶色で、どこにでもあるようなやつ」

 コタローは不審げな顔をしていたけれど、何も言わず、あとをうながした。


「私……どうしてそれが自分のポケットに入っているのか、まるでわからなかった。赤い蝋で印がしてあって、差出人の名前はなかった。宛名に『親愛なるノーム』と書かれていて」

「……それで、届けたわけか」

 私はうなずいた。

「ちょうど、道の先でノームが誰かと話しているのが見えた。彼が話し終えるのを待って、ガルに待っていてと言って、手紙を渡したの。なぜだろう。ガルには手紙のことを教えたくなかった。だから、ちょっと天使様と二人で、話をさせてと言ったの」

 あれ? でも、私はノームが死んでから、彼の名前を思い出したのではなかったっけ。手紙に書いてあったとき、どうして、ノームが天使だとわかったのだろう。


 頭をかすめた疑問を考え込む前に、コタローが口を開いた。コタローはあぐらを組み直し、頭の中を整理しようとしているみたいだった。

「……ノームはどんな様子だった? つまり……おまえを見て」

「私を? さあ、わからない。他の信者と変わらない、にこやかな態度だったけど。ただ、手紙を見たときに、ちょっと顔がこわばったみたいだった」

「蝋の印か。それが差出人の署名がわりだったんだな」


 日本でいう、家紋みたいなものかな。自分の所属をあらわすシンボルは、日本だけでなく、どの文化圏にも存在した。印を見れば、どこの誰かがわかる。

「どんな模様かわかるか?」

「……ごめん、全然覚えてない……」

「ま、おれも詳しくないしな」

 コタローは肩をすくめ、私を見た。

「で、ノームはそれを読んだんだな」

 私はうなずいた。


「ノームはその場で読んだ。私の目の前で。そしてみるみる青ざめていった。天使が青ざめるなんて、あるんだって思った。でも今思うと、血の気が失せたと言うより、輝きが失われたって感じだった。そして、私を見て、言ったの……『あなたを愛したせいだ』って。そして……私の上着をつかんで、死んでしまった……」


 沈黙が流れた。コタローはじっと火を見つめていた。彼の黒い瞳に、ちらちらと炎がおどっているのが見えた。


「それで、手紙はーーどうなった?」

「空気のように、とけて消えた」

 そう、これが理由のひとつでもあった。証拠が目の前で消えてしまった。だから、私の無実を証明するものが何もない。私は逃げるしかなかった。


「ノームが死に際に燃やしたのかもしれない。他の誰にも見せたくなくて」

「じゃあ、手紙の内容は……」

 首をふった。そうか、と、コタローが口の中でつぶやく。

「それで、霊者たちはコバをよこして、おまえを追ってるってわけか」

 コタローが私を見た。

「誰も思いもよらなかっただろうな。よりによって27歳の無垢な信者が、守護者の中でも一番人間想いのノームを死に追いやるなんて」

 背筋に悪寒が走った。


 死に追いやった。

 殺した。

 私が?


「ノームは……そんなに立派な天使だったの?」

 自分の無知さに嫌気がさす。半年前から暮らしていた地区の天使なのに、何も知らない。


「ノームは神の仕事を忠実にこなしたし、人間への愛にもあふれていた。ハルマゲドンでは、人間にとって一番重要な仕事を任されていた」

「それって、何?」

「おれを選んだのさ」

 コタローは目を上げ、自嘲気味に笑った。

「ノームは数百億もの人間の中から14万4千人を選ぶ、最終責任者だった。すべての厭世家はあいつが選んだってわけだ。そして、あいつに選ばれなかった大勢の人間が死んだ」


 なんと言えばいいのかわからなかった。それは……つまり……。

「おれがコバに言ったこと、覚えてるか? 霊者が死ぬなんて、本来なら大事件だ。なのに送り込まれたのは一介の厭世家ひとり。どう考えてもおかしいだろ。天使たちが悠長すぎる」


 確かに言っていた。コバの担当する天使は、愛がないんじゃないのかとか、家でコーヒーでもすすってるのか、とか。そして、恐ろしいことも言っていた。これは、天使たちのあいだでは予測されていた事態なのか、と。


「ノームだからだよ。死んだのがノームだから、霊者たちはどっかで『ああ、やっぱりな』って思ってるんだ」

「どうして? ノームは神の命令どおりに厭世家を選んだんでしょ。落ち度は……」

「ない。やっこさんは何も悪くない。でも、愛した人間が死んだとき、それを合理的に受け入れることは誰もできない。打ちのめされた魂は、敵を作り出して自分を慰めるもんだ。死んだのはあいつのせいだと、誰かのせいにしちまうもんだ」

「でも……厭世家や天使に限って、そんなこと……」

「厭世家や天使だからこそ、そうなる」

 コタローは言った。

「無垢じゃないからこそ、そういう思考回路になる。わからないか? ノームを恨んでいる厭世家や霊者は大勢いる。たとえあいつに非がなくても、死んでくれと思ってるやつはいるんだ」


 コバを思い出した。ノームが死んだというニュースに、これっぽっちも動じなかったコバ。同じく、動じていないであろう、コバを担当する天使。


 彼らはノームを敵としていたわけではないかもしれない。ただ、受け入れることができたんだ。敵の多いノームが死んだ事実を、すんなりと受け入れた。合理的に、納得のいく形で。


「ノームは人間を誰よりも愛していたし、理解していた」

 コタローは言った。

「だからこそ、神はあいつに、善い人間を選ばせた。いい話だろ。あいつは天使のうちで、一番人間を愛し、一番人間にうとまれていたんだよ」

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