◎厭世家

 泣き続けるエードを、ガルが優しく抱き、顔を上げて集まった人々に言った。

「ノーム様を――天使様を、中に運んでくれませんか?」


 2、3人がうなずいた。しかし、何人がかりでやっても、天使を持ち上げることはできなかった。エードはますます泣いて、ノームの胸におおいかぶさった。人々は手を引っ込め、思わず後ずさった。こんなふうに泣く人を、初めて見た。まるで、この世の終わり。絶望のどん底。愛する人を失って、永遠に取り戻せない哀しみ。


 映画で演じているのとはちがった。聞いたことのある、どんな悲惨な話も、耳を覆いたくなるような実話も、本物の悲嘆の前では、まるで子どもを寝かしつけるためのおとぎ話だった。


 どうしてこんなに悲しめるのか、わからない。きっとこの場の誰も、エードの涙にはぴんと来ていないだろう。私たちは死について何も知らなかった。誰一人経験したことがなかった。厭世家の、エード以外は。



 エードは声を震わせて泣き続け、やがて嗚咽とともに身を起こした。少し落ち着いたようだったけれど、涙は枯れていなかった。


 彼女はそっと手を伸ばし、ノームの半分開いたまぶたに指を乗せ、ゆっくりと閉じた。慈しむように、ノームの長い髪をなでる。バナナ色の髪は美しく輝いていた。エードの眼鏡は涙で曇り、目を隠した。彼女は辛そうに息を吐き、喉を詰まらせた。

「私が……運びます」


 エードは頬に涙を伝わせたまま、自分より背の高いノームを持ち上げた。彼女の揺るぎなき信仰心が天使を動かしたのだと、その場の誰もが知った。


「誰か……近くの『家』へ連絡してくださいますか」

 ぽかんとしていた私たちの中で、ガルがはっとしてうなずく。

「なんと伝えましょう?」

「ノームが亡くなったと、言ってください」

 曇った丸眼鏡の下から、涙は止めどなく流れ続けていた。

「それ以外は、何もわからない」

「すぐに」

 ガルは走った。守護者の家にはパソコンがあるはずだ。それに、電話も。


「きっとすぐに、他の天使がやってきますよ。そうしたら、きっとノーム様を癒してくださいます。私たちも祈りましょう」

 誰かが無責任な笑顔を浮かべて言った。エードは泣きながら歩きはじめた。人々が付き従い、何人かは手を組んで祈った。ぶつぶつと、神の名をつぶやいて。


 私はぽつんと一人、砂利の上に立ち尽くしていた。


 私も彼らについていくべきだ。愛があるなら。駆けつけてくれる天使やエードに、説明する責任がある。私がノームの最期を看取った証人なのだから。私だけが知っている。あの言葉を。ノームの言葉を。


 ぶるりと震えて、自分を抱きかかえた。


 ノームの手に掴まれたままの上着を思った。今の私は、ノースリーブの赤のシャツと、白いパンツスタイル。襟は広くあいていて、金色のボタンが並んでいる。我ながらいいデザインだ。でも、喪に服しているとはいえない。喪服というのは、どんなだったっけ。映画や本を思い出す限り、黒だ。そう、全身黒に着替えなくては。


 守護者の家に背を向け、歩き出した。異教の門をくぐり、ポケットに手を入れる。何かが入っている。引っ張り出した。紙だ。何かのチケット。


 星空の映画祭。


 あらかじめ用意されていた記憶がゆっくりと組み上げられていくように、ゆらゆらと思い出した。そう、星空の映画祭。今夜、山の中腹で開催される。ガルと行こうと言っていた。野外でスクリーンに映写して、ゆったりと座りながら毛布にくるまり、ハルマゲドンを生き残った厭世家たちの、復興の物語を観ようと言っていた。


 そうだった。

 映画を観に行かなくちゃ。


 ちょうどそこへ小さなバスが停まったので、それに乗ることにした。



 赤毛の運転手は優しげなたれ眉をしていて、どことなくおじいちゃんのような顔をしていた。きっと、歳はかなりいっているのだろう。見かけでは歳なんて分からないけれど、ときどき、なんとなくわかる気がする。


「星空の映画祭に行きたいんですけど」

 私が言うと、赤毛の運転手はにっこり笑った。

「うん、じゃあ、そっちも行くよ。何時までにつけばいい?」

「なるべく早くがいいです」

「わかった。危ないから、座っていてね」

「ありがとう」


 バスの中を見渡した。乗ってきたのは私だけだった。一番後ろに腰掛け、背もたれに寄りかかり、守護者の家を見た。木々がしんと立っていて、トリイが厳かに見えた。終わりの日の人々は、ここに祀られていた神を、本当に神だと思っていたのかな。偽物なのに。


 バスが動き出す。陸橋のトンネルに入って、窓に自分の姿が一瞬うつって見えた。赤と白の、派手な服。バスは家とは反対方向へ走り出したけれど、ここから少しでも離れるのならば、そもそも黒を着なくてもいい気がした。



 私の名前はカヤ。今年で27になる。だけど、年齢なんて誰も気にしない。せいぜい「若いね」と言われるくらいだ。そう言ってくる人は、見かけは私と同じくらい若いけれど、本当は50歳かもしれないし、500歳かもしれない。厭世家なら、1000歳は超えている。


 ハルマゲドンのあと、人から「老い」が消えて、「老人」や「老衰」という言葉は死語になった。今では、アートや創作物の中でしか耳にしない。年を取るうちにしわしわになって体が衰えていくなんて、昔の人々は、なんて苦しみを背負っていたのだろう。考えただけでぞっとする。


 信者たちは若く、いつまでも健康で、好きなことに時間を費やし、助け合う。ときどき怪我をしてしまう以外は、悲しいことやつらいことはほとんど起きない。


 食べ物はいつでもあちこちに実っているし、世界中に友達を作れる。私たちは兄弟姉妹で、初めて会う人だろうと、それは初めましての家族だ。どこへ行こうとあたたかく迎えてもらえるし、知らない人があらわれたらみんなでもてなす。


 空いている家は、勝手に住んでもかまわない。誰も所有していないからだ。車も自転車もバイクもバスも、地区の中央に行けばたいてい置いてある。誰かに確認をとることなく、それに乗って走り出す。いつまでに返さなきゃいけないなんて決まりはないけれど、必要がなくなったら返せばいい。エネルギー源は水だから、その辺の川や井戸で補給できる。


 新しい友達を作りたくなったら、掲示板に書き込む。終わりの日には、ほとんどの人が端末を持ち歩いていて、常にネットに接続した状態にあったらしいけれど、そんな不健全なことは誰もしていないし、したくない。


 私たちは家にあるパソコンで、一日に一度か二度、ネットに接続して面白いイベントはないかと探す。いつも誰かが何かを企画している。みんなで料理を作ったり、服を作ったり、スポーツをしたり、動物とたわむれたり、本について語り合ったり、絵を描いたり、漫画を貸し借りしたり、星を見たり、家を造ったり、パソコンを組み立てたり、映画を撮ったり、楽団を作ったり、劇や音楽ライブをしたり、お茶会をしたり、山をのぼったり、泳いだり、スキーをしたり、カードゲームをしたり。


 人生は彩りに満ちていて、なんでもできる。楽園に暮らす人々が、心身ともに健全で、愛にあふれていると確信しているから。だから、不安なことはなにもない。



 私が「働きたい」と言ったとき、姉たちは「え?」という顔をした。

「働くって……ずっと、って意味?」


 あれはまだ、成人する前だった。16歳くらいだったと思う。世界を転々としていた姉二人が帰省したとき、私は将来の夢を二人に告げた。その夢はしばらく前から考えていたことで、決してその場の思いつきではなかった。


「働くって……なんで?」

 二番目の姉が首をかしげて、ちょっと苦笑いしながら聞いた。


 私は少し考え込んだ。尊敬する姉たちに、適当な言葉を並べたくはなかったから。

「なにか、ひとつのことをきわめて、それで人の役に立てたらいいなと思ったの。終わりの日の人間は、みんな仕事をしていたんでしょ? だから、私でもできることがあるんじゃないかと思って」


「うーん。だけどそれなら、別に働かなくってもいいんじゃない?」

 一番目の姉がさとすように言った。それはまるで「大きくなったらお姫様になりたい」と言っている子どもを諭す、親のような言い方だった。


「お姫様になりたい」なんて言っている子どもがいたら、確かに危険だ。それはつまり、為政者になりたいという意味で、人間が為政者に向いていないことは、過去にさんざん証明されたことなのだから。


「確かに、終わりの日にはみんな働いていたけれど、それはみんな働かなければ生きていけないような、貧しい状況にあったからでしょう。愛がなくて、お金に頼るしかなかったから」

 一番目の姉が続けると、二番目の姉はそのとなりで「うんうん」とうなずいていた。私は心持ちしゅんと口をすぼめた。


「でも、今だって働いている人はいるわけでしょう」

「うーん、まあ、そうだけど」

 一番目の姉は困ったように頬に手を当てて、二番目の姉を見た。二番目の姉はずいと前に出てきて私と目を合わせた。

「でも、働くって大変なことなのよ? 責任もあるし、なんでも自分の好きにできるとは限らない。やーめたって放り出したら、他の人の迷惑になる。働くことができるのは、才能のある、ごく一部の人間なんだから」


「ごく一部の人間」という言葉を、二番目の姉はことさらに強調した。

「それこそ、厭世家のような人たちよ。彼らは守護者のもとで働いているけど、それは才能とか忍耐とか、いろいろ持ち合わせていて、信頼されているからなのよ」

「でも、私」

 私は言葉を切った。


「私、がんばるよ。私のブランドの服を作って、たくさんの人に着てもらいたいの。だって今は、みんな似たようなデザインの服を着たり、素敵な服なのに、この世に一着しかない誰かの手作りだったりするでしょう。私はいい服をたくさん作って、いろんな人に売り込みたいの」

「ちょっと待って。売り込む?」

 一番目の姉が眉をひそめた。


 しまった、と思った。

「そうじゃないの、ただ、言葉のあやで……」

「いいえ、カヤ。言葉は思考のもとよ。人間がエデンを追い出されて不完全になったのは、ヘビの嘘から始まった」

「ちがうの、そうじゃなくて」

 私は慌てて二番目の姉を見た。けれど彼女も、私を見て悲しげな顔をしていた。

「……ちょっと、危険な考え方ね」


 味方のいなくなった私はますますしゅんとして、目を落とした。姉の手が、励ますように私の肩に置かれたのを、今でも覚えている。どことなくぎこちなくて、知らない相手に対するような手つきだった。


「自分のセンスを人に認めてもらいたいのね、カヤ」

 一番目の姉が言った。そうじゃない、と反論したかった。でも、少し頭の中で考えて……そうなのだろうか? と、自分の心と向き合うはめになった。


「自分のブランド、か。あなたはまだ若いのね、カヤ。でも、もう少しすれば、他の人と同じように落ち着くわ。誰にでも、自尊心の高くなる時期はあるもの」

「そうよ、いくら完璧とは言ってもね。やっぱり、天使のようにはいかないもの」

 姉二人はお互いにうなずき合っていた。私を取り残して。


「カヤ、服を作る会に参加したらどう? 自分や家族や友達のために作るの。それで充分じゃない? 仕立て直す人だって必要だもの。ブログで募集してみたらどうかしら。お裁縫が好きなんでしょう、カヤ」

「そうね、まずは私たちのワンピースを作ってちょうだいよ。素敵だったら、それを着て旅をするから。気に入った人がいたら、教えてあげるわ」

「それがいいじゃない、カヤ! いいアイディアだわ。働くなんて言うと、ちょっと現実味がないけど、いろんなやり方があるんだから」

「ね、カヤ。まずはそうしましょ」


 私は考えた。一生懸命考えて、今この場で言うべき言葉を導き出した。それで私は、にっこり笑った。

「そうだね、ありがとう」

 私は成人すると、さっさと家を出た。未だに姉たちは会おうとメールをくれるけれど、何かにつけて断わった。

 悲しくはない。むしろせいせいする。



 バスはゆるやかな坂道を上りながら、ときどき停まり、人々を乗り降りさせて、安全運転を続けた。


 バスは誰かの手作りで、床は木材。ところどころのすき間から地面が見えた。椅子はひとつひとつデザインのちがうカバーがかけられている。パッチワークキルトや編み物、機織り機で織った布。私の座る席は、羊毛フェルトでキリンやゴリラやライオンが描かれている。草食動物と肉食動物が一緒に遊んでいる絵だ。


 エンジンやつり革、運転席のハンドル。どれもこれも、人々が自由に集まって、知恵を出し合い、わいわいしながら作ったんだろう。すべてのものがそうやって作られ、利用されていた。仕事じゃなくても、仕事にしなくても、楽しみながら世の中はうまく回っている。それは微笑ましく、完璧で、美しい。


 それはよくわかっているんだけれど。


「バスはこれより、星空の映画祭の会場へ向かいます」

 何度目かに停まってから、運転手が後ろを振り返ってにっこり言った。この運転手も、趣味で運転しているだけだ。明日は何か別のことをするだろう。誰かがどこかへ行きたいと思ったら、その人が中央からバスを借りてきて、親切で乗り降りさせる。毎日が誰かの善意で、うまく回っている。


 新しい三人の乗客が歓声を上げながら席についた。他の乗客も、嬉しそうに連れ合いと微笑み合っている。いつのまにか乗客が増えていたことに気がついた。


 日はかげりはじめ、夜が近づいている。この人たちは、みんな映画祭へ向かっているらしい。バスは寄り道しながら一時間ちかく走っていた。目的地へまっすぐ走れば三十分もしない道のりだけれど、誰も急いではいない。人生に急ぐ理由はない。


 ここにいる誰も、この地区の守護者が死んだことを知らないようだった。パソコンや電話を持ち歩く人なんていないから。でも、会場にはきっと電話がある。パソコンだってある。映画の上映は中止になるかもしれない。きっと大騒ぎになるから。


 そのあとは、どうしようかな。



 のどかな畑のあいだの一本道を走りすぎて、バスは森へ入った。まっすぐの道が左へカーブする。カーブの手前に小さなため池があって、ほとりに人が立っていた。池がぐんぐん近づく。カーブの手前でバスがスピードを落とす。池のほとりに立っていた男はバスを見ていた。通り過ぎる瞬間、その男と目が合った、気がした。


 バスが急ブレーキをかけ、悲鳴が響いた。前の座席に思いっきり鼻をぶつけて、涙目になりながら顔を上げる。


 バスの前に、信じられないほど太った男が、両手を広げて立っていた。ここから先は通さない、とでもいうように。カーブを曲がってすぐ。運転手が気付いてブレーキを踏まなければ、確実に轢いていた。


「やっべー。死ぬかと思ったー」

 太った男がケラケラ笑いながら額の汗をぬぐう。そのキンキン声は、バスの中にいる人たちの耳にもしっかり届いた。


「君、大丈夫か?」

 赤毛の運転手は立ち上がり、大声を出した。乗客は一人残らず太った男を心配していたけれど、男の方は声を立てて笑って、池に目を向けた。

「この人、おれの心配してくれてるよ。やっさしいなあ。さすが『信者』はちがうね。おれ、涙出そう」


 そのときになって初めて、乗客や赤毛の運転手は、太った男が一人ではないことに気がついた。でも、私ははじめから知っていた。ため池のほとりにいた男と、目が合ったから。バスの扉が外から開けられ、男が三人、足を踏み入れた。


 一人は、あの太った男。にこにこしていて、何を考えているのかわからない。二人目は、背の高い、スーツの男。紳士のように身ぎれいで、ステッキを持っている。肌は浅黒く、運転席の横によりかかって、監視するように人々を見つめた。


 三人目の男は――池のほとりで目が合った男は、その背に終わりの日の遺物を引っかけていた。その遺物を見て、誰もが息を飲み、凍りついた。男はバスの真ん中に立ち、ぐるりと見渡して、にっと笑った。いたずらを企んでいる、子どものような顔。


「さーて、このバスは、これより迷子たちの監視下に置かれまーす」

 人をおちょくるような声色でそう言った。悪意のある、楽しそうな、それでいて冷たい声。私はこんな話し方をする人間を、映像でしか見たことがない。終わりの日の、堕落した世界を切り取った、記録映像の中でしか。


 男は、ほかの二人に比べると小柄だった。黄色がかった肌、ぼさぼさの黒髪に黒い瞳、つり気味の目。すり切れたジーンズパンツを腰ではき、茶色の革ジャンには、丸いワッペンが胸と背中に貼ってある。白地に紺で、五芒星が刺繍されたワッペンだ。そして、バスにいた人たちを残らず恐怖におとしいれたものを、背中にかついでいる。それも、私は映像や写真でしか見たことがない。猟銃を。



 そんなもの、もう残っていないはずなのに。終わりの日が終わったときに……ハルマゲドンのときに、人を殺めるための武器は、残らず破壊されたはずだ。厭世家たちの手によって。


「さて皆さん。これから楽しいドライブとしゃれこみましょう」

 猟銃を背負った男は、にいっと笑った。


 そいつと目が合った。

 男がますます笑みを広げた、気がした。

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