*悪魔
アリトンが言うには、私には魂がないらしい。
それどころか、私には心も半分しかないそうだ。
たぶんアリトンは本当のことを言っている。アリトンは嘘をつく必要がないから。私はアリトンの成功作品で、彼女は私を愛しているから。
アリトンは私に綺麗な服をくれた。白くて、えり飾りのついた滑らかなドレスは、袖がなく、背中があいている。私の髪は白と金のあいだの色をしていて、まっすぐで、この世で一番美しい。瞳は、光の加減で色を変える虹色。この瞳を持つ人間は珍しくて、これも私を特別にしている。これらはアリトンが私のためにしつらえてくれたので、私はだれより美しい。
魂がないので、あなたはいつも人肌を求めてしまうのでしょうね、とアリトンは言った。それで、イトナはいつも私のそばにいてくれる。
彼はとても背が高く、骨張った肩と、えり足の短いたっぷりした黒髪と、暗闇のような瞳と、浅黒い肌を持っている。イトナの目尻は少し垂れ下がっていて、彼に睨まれるとたいていの人はすくんでしまう。イトナは賢くて、めったに喋らない。彼が話すときも、その口は決して開かない。なぜなら彼は耳が聞こえないから。
彼は私とお喋りするとき、手話を使います。手話とは終わりの日に存在していた言語形態のひとつで、ジェスチャーのみで会話を成立させてしまう。
たとえば、左手を寝かせて右手をたてに置き、すっとあげると「ありがとう」になる。たとえば、人差し指と親指を開いてあごに当て、ななめ前に出しながら指をつまむと「好き」になる。こういったジェスチャーは数えきれないほどあります。
イトナの表情はいつも変わらない。イトナは仏頂面で、きっと顔の筋肉が麻痺しているのだと思う。イトナの皮膚の下にはクモの巣がかかっているかもしれない。クモの巣を想像して私が笑うと、イトナはむすっとした。
私は人といるのが好き。そして私は人とセックスするのが好き。イトナは私がセックスしようと言うといつも黙って応じてくれる。だから私はイトナが好き。けど、一緒に暮らすガズラはちっとも応じてくれない。
ガズラはいつもにこにこしている。いつも食べ物のことしか考えていない。食べること以外は本当になんにも興味がないので、つまらない。だけどガズラはまだ理解できる。少なくとも、何かを食べるためには私とキスすることができないとわかるから。わけが分からないのは厭世家です。
ときどき、エデンから厭世家がやってくる。天使に付き従って、お高くとまっている。私たちに、えらそうにいろいろ言う。イトナは厭世家が来ると不機嫌になる。彼は一度、「あいつは彼女を言いくるめようとしている」と手話で示した。ここでいう「あいつ」とは厭世家のことで、「彼女」とはアリトンのことです。
イトナは厭世家がきらい。私も厭世家は好きじゃない。厭世家は私と一度もセックスしてくれないから。
エデンの外にはたくさん人が暮らしている。みんな、祈りもせずに、毎日一生懸命働いている。彼らは迷子と呼ばれていて、厭世家や天使がやってきては、彼らを迷いの道から正す。けど、私には、迷子たちが迷っているようには見えない。みんな目的を持って、毎日をこなしているように見える。
たとえば、イトナはいつもパソコンのキーボードを叩いている。それは彼の仕事。キーボードを叩いたりマウスを動かすだけで、人は働いたことになるらしい。たとえば、ガズラは運転ができるので、頼まれればどこへでも車やトラックやバスを運ぶ。働くとお金がもらえて、それを食べ物や雑貨と交換する。
今、お金の文化が残っているのはエデンの外だけです。文化が残っているのはいいことだねと言ったら、ガズラは、じゃあ石器も残さないとな、と言って笑った。意味はわからなかったけど、彼が笑っているので私も笑った。
私は迷子たちとセックスをします。すると彼らはお金をくれる。なので私は働かなくてもいいそうです。とてもラッキーだと思う。エデンの外で働いていないのは私だけだから。
迷子たちはいつも、たくさん働かなくてはいけない。けど、エデンでは、人々はあまり働かなくてもいいのだと厭世家は言った。みんなが助け合っているから、エデンは楽園だから、働く必要がないそうです。
イトナは、私が迷子たちとセックスするのが気に入らない。イトナは「だれ彼かまわず寝るな」と手話で示す。だけど私は寝ているわけではない。眠たいわけではないから。イトナは賢いけど、本当は馬鹿なのかもしれない。
イトナには厭世家の両親がいる。彼はもともとエデンに住んでいて、数えきれないほどの親戚がいる。けど、イトナ自身には一人も子どもがいない。不思議だと思う。イトナはかっこいいし頼りがいがあるのに、ずっと独身だった。もしかしたら、イトナには結婚した奥さんも子どもも孫も玄孫もいるかもしれない。いると思う。
けど、イトナは言う。終わりの日のあとに生まれた無垢な人間は、昔の人間とちがって、性欲をきちんとコントロールできるのだ、と。だから、馬鹿みたいにセックスしたくならないし、結婚していなくても平気なのだ、と。そして、性欲をコントロールできないお馬鹿さんはカエラだけだ、とも。
カエラというのは私の名前です。アリトンがつけてくれた。
厭世家は終わりの日のさなかに生まれたけど、「自身を抑制する天才」だから、やっぱり性欲はコントロールできるそうです。だから私がいくら誘ってみても、厭世家がなびくことはありません。
私が影から急に飛び出していってその首に腕を絡ませても、にっこり笑ってほおをすりよせても、首すじにキスしても、口の中に舌を入れても、厭世家は応じてくれませんでした。だから厭世家は嫌い。ガズラだって、お肉を食べながら私の頭をぽんぽんなでて、「イトナに相手してもらいな」と言ってくれるのに。
厭世家は私をギロリと冷たい目で見ます、そして一度はこう言った。
「娼婦め」
この言葉を私は知らなかった。イトナは知っていて、怒った。けど、アリトンはケラケラ笑って「私の娘だもの」と言った。それを聞いて、厭世家は「最低だな」と吐き捨てた。この言葉は私も知っていた。だから厭世家はアリトンが嫌いなのだと私にはわかった。
ガズラはとても太っている。ガズラの皮をはいで綺麗に広げたら、きっと他の人の4倍はあると思う。顔もお腹も腕も指もぱんぱんにふくれあがって、首の前にも後ろにも横に線が入っている。それは前なら「二重あご」と呼ぶらしいけれど、後ろの線に名前があるかは知らない、とガズラは笑って言った。
ガズラはいつも楽しそうに笑っている。きっと食べ物には、幸せになるための何かが少しずつ入っていて、普通の人はそれがちょっとしかないけど、たくさん食べているガズラにはいっぱいたまっているのだと思う。
彼は私を好きだと言う。食べ物の次に。なぜなら私は食べ物ではなくて、彼が噛み砕いてお腹の中に入れることはできないから。それで私は食べ物と同じ順位に入ることができない。
だけど、しようと思えば、彼は私を食べられると思う。たとえば、私の腕を切り落とすとか。おいしく味付けしてお皿に並べれば、他の肉と遜色ないと思います。だって私はきっとおいしい。
でも、ガズラは人間を食べるつもりはないと言った。私は人間じゃないから、食べられるはずだ、と反論した。そしたらガズラは笑って、それでもカエラを食べるつもりはない、と言った。もったいなくてとても食べられない、と。
それで、彼は私を食べてくれないことが確定した。つまりガズラはこれからも、私より食べ物が好きなままだということ。私は彼の一番になれないので、ガズラのことは嫌いです。嫌いだけど、ガズラのお腹をぽよぽよするのは好き。
厭世家はガズラを「デブ」と呼ぶ。デブとは太っている人への悪口です。厭世家は、デブは自己管理のできない馬鹿だと言った。私は、おいしいなら何を食べてもいいと思う。だってガズラはいつも幸せそうだから。少なくとも、厭世家よりも幸せそうだから。幸せそうなガズラを見ているのも、彼のお腹や腕を触っているのも好き。幸せならいいじゃないかと思う。
私はイトナとガズラの三人で暮らしています。アリトンは私たちの家を与えてくれたけど、いつも住んではいない。アリトンはときどき来て、ずっといたかと思うと、ふらりといなくなる。いつ戻るかはわからない。五分後かもしれないし、一ヶ月後かもしれない。
私を作ったとき、アリトンは、美しいものができた、と思ったらしい。確かに私は美しい。完璧だ、とアリトンは言った。けど、魂はない。それについて、イトナは眉間にしわを寄せてアリトンに抗議した。どうせなら、本物の人間にしてやってくれと手話で示した。
私は、どうすれば本物の人間になれて、どうして今は偽物なのか、よくわからない。けどたぶん、本物の人間というのは神様が作った人間のことで、私は神様ではなくアリトンが作ったので、偽物なんだと思う。すると、今からどうがんばっても、私は本物にはなれない。だからイトナが何を言っても、無駄だと思う。
しかし、イトナはアリトンに、魂をやってくれと頼んだ。カエラに人並みの魂を与えてやってほしい、それくらい、悪魔だろうとやってくれるべきだ、と。そしてこれはたとえ話ではありません。アリトンは悪魔だから。
アリトンは笑って言った、カエラに魂を与えてしまったら、せっかくの美しさが損なわれてしまう、と。イトナは怒っていたけど、彼はアリトンの最終決定をどうこうする気はありません。イトナにとっても、アリトンは生みの親だから。
エデンにいる人は私たちとはちがう。終わりの日のあと、人々は一人残らず完璧になりました。完璧だから、耳の聞こえない人はいないし、食べ過ぎて太る人もいないし、だれ彼かまわずセックスしたがるお馬鹿さんもいない。
私たち三人は完璧ではない。なぜなら神様の子どもではなく、アリトンの子どもだから、悪魔の子どもだから、呪われているのです。
私は誰ともセックスできない一日を想像して、寂しくて泣きそうになった。今度は一週間を想像した。本当に泣いてしまった。そして一ヶ月を想像して、体が震えたのでイトナのところへ走っていって、抱きついて声を上げて泣いた。するとイトナは背をかがめて私にキスをしてくれた。私たちは唇を重ねるだけじゃなくて、お互いの舌を入れっこするちゃんとしたキスをした。
性欲をコントロールして我慢することは、私にはできそうにありません。それは魂がないから、仕方がないとアリトンは私に教えた。そして彼女は笑った。
彼女は悪魔なので、私を見て笑うのです。
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