千年王国978年目、崩壊の前兆と愛について

みりあむ

第一章

◎愛

 愛ってなんだろう。


 家族とか、恋人とか、友達とか。「好き」っていう感情ならわかる。でも、愛って? 正直、よくわからない。


 毎日のようにそれを耳にする。

「ありがとう、愛してるよ」

「愛ある言葉だね、励まされるよ」


 愛、愛、愛。


 誰もが愛について語る。愛し合いましょう。親を、兄弟を、姉妹を、子どもを、友人を、隣人を、迷子でさえも、愛しましょう。



 なんてご立派。素晴らしすぎてため息が出る。



 私はハルマゲドンのあとに生まれた。過去の恐怖や憎しみを知ることなく、何不自由なく生きてきた。父と母と、二人の姉。そして親切な隣人たち。


 彼らは終わりの日の話をした。人間が堕落して、傷つけ合い、殺し合い、環境を壊し、病気が蔓延した日々のことを話した。愛がなければ、人々はこんなに苦しむ。しかし、今はちがう。


 世界は生まれ変わった。人間の政府は滅び、言語は統一された。病気や老いや死は過去のものとなり、人は自我をコントロールして欲望を健全なものにした。私たちは地上の楽園に生きている。人々が助け合い、愛し合う、素晴らしい世界で。だから私も幸せなのだ。愛にあふれているのだ、きっと。



 なのに私は今、愛について考えている。

 本当に私を救ってくれるものなのか、考えを働かせている。



 私は守護者の家の前に立っていた。あごの高さで切りそろえた金髪はゆるやかにうねり、風にゆれている。金のボタンをえりに並べた赤いシャツも、白のパンツも、ミシンを使わず自分でぬった。


 ガルは、私の服をいつも褒めてくれる。私も彼が恋人で誇らしい。彼はいろいろな言葉の意味を私に教えてくれる。今日は二人で、守護者の家に来た。やっとお互いの都合がついて、挨拶に行けることになったから。


 守護者の家は地区ごとに定められている。彼らは清く、美しい。私たちを正しい道へ導く手助けをしてくれる。怪我人を癒し、死者に祈りを捧げ、復活のために心を砕く。守護者は特別だ。なくてはならない存在。決して死ぬことのない存在。


 その守護者が、たった今、倒れ伏した。

 私の足元で、命を絶った。



 頭の中を冴えた冷たい血が流れていく。夏が終わり、空は高く晴れ渡っていた。遠くに見える山々はゆるやかに広がり、てっぺんが赤や黄に色づきはじめている。


 守護者の家は、かつてこの国に栄えた異教の神殿をそのまま使っていた。ここに祀られていた偽の神は、敵に負け、この湖がある辺境まで追い払われてしまったのだという。暴力に訴えて、あっけなく敗走を喫した異教の神。その話を教えてくれたガルは、にっこり笑って言った。「馬鹿馬鹿しいだろ?」


 長寿の樹がいくつも立っている。太い幹はまっすぐ天を目指して伸びていた。地面には砂利が敷きつめられていて、雑草は一本も生えていない。門はトリイと呼ばれていて、石でできている。終わりの日にこの島国で散見された宗教遺物だ。守護者の家に宗教遺物が残されているのは、過去の因習を忘れないため。


 守護者の家は湖が一望できる高台だ。私の家は湖のそば。半年前にガルを追って越してきた。本当なら、その日のうちに守護者に挨拶するべきだったのだ。なのに私はまだ、一度もここの守護者に会っていなかった。


 初めて会った彼は、私の耳元でささやいた。

「あなたを愛したせいだ」

 そして、死んだ。私の服をつかみ、くずおれて。



 愛ってなんだろう。

 そんなに大事なことなのかな。



 私はぼんやりと一歩あとずさり、服にからみついた守護者の指を引きはがそうとした。けれどそれは固く私の上着をつかんでいて、私は早々とあきらめ、服を脱ぎ捨てた。そしてもう一歩あとずさって、顔を横に向けて吐いた。


 ガルが慌てた様子でかけ寄り、私の背をさする。ものを吐いたのは二十年ぶりだ。子どものころは体調を崩すこともままある。そんなとき、両親が私を守護者の家へ連れて行ってくれた。守護者が祈ると吐き気が治まり、ゆっくりと快方に向かった。守護者は人々を安心させる笑顔で、また来なさいと言ってくれた。


 守護者は優しい。きっと誰よりも。なのに、この地区の守護者はもういない。


 ガルは心配そうに私をいたわり、倒れている美しい守護者に目をやった。

「ノーム様。大丈夫ですか?」

 そう、ここの守護者はノームという名前だっけ。「穏やかさ」という意味だと、言語の好きなガルが教えてくれたのを思い出す。みんなから愛されていた守護者だった。穏やかで、人々を愛し、相談にもよく答えたと聞く。


 ガルは様子がおかしいことに気付きはじめた。ノームが、いつまでたっても顔を上げない。返事もしない。私の上着をみにくくつかんだまま、砂利の上にうつ伏せに倒れている。私は震える指で、ガルの手をとった。

「行こう」

「え?」

「行こう」


 私はただ、はやくその場から離れたかった。怖かった。

「ノーム様、どうされたんですか?」

 ガルは私に手を引かれながらも、一歩も動かず守護者に呼びかけていた。返事はない。ガルは私の手を振り払い、ノームの身を助け起こそうとかがみ込んだ。


 なんでそうなるの。

 逃げたいのに。


 守護者の家から女性が一人、小走りに出てきた。ベリーショートの茶髪に、明るい灰色の目。小さな顔に似合う、丸い眼鏡をかけている。

「どうされましたか」

 女性は守護者の横にしゃがみ込んだ。

「ノーム、どうしたの」

「急に、倒れてしまわれたんです」

 私はガルを引きずっていってやりたかった。でも、無理だ。そんなまねをしたら、疑われてしまう。


 疑われる?


 自分の発想にぞっとした。疑われるって、なんのこと? 守護者を……ノームを、殺したかどで?


「ノーム。私よ。エードよ」

 女性とガルは、二人で一緒にノームを仰向けに転がした。ノームの体は、エードが触れるとボールのように向きを変えた。そして、だらりと口を開けて死んでいる守護者を、私たちは目撃した。


「ノー!」


 エードは古い言葉を叫んだ。NO、って確か「いいえ」という意味だ。それに「いやだ」とか「だめだ」の代わりでも使われる、と聞いたことがある。私は気付いた。エードは終わりの日を生きた、厭世家だ。


 ガルはまだ、何が起こったのか気付いていなかった。ノームの顔を見ても、すぐに「死」へつながっていなかった。当たり前だ。ガルも私も、「死」を見たことがない。なのにどうして私は、ノームが死んだとわかったのだろう。


 エードはその場に崩れ落ち、両手で顔をおおって嘆いた。人々が気付き、何があったのかとやってくる。彼らも、私たちも、エードでさえ、初めて目にしたものを前に動揺した。


 守護者が死ぬなんて、誰が想像した?

 守護者が――天使が、死ぬなんて?



 その日、天使が死んだ。

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