第8話 HARUとSORA
(そっか、ここ鎌倉・・・か)
Tシャツに着替えて、海に散歩に出る 登ってくる朝日を全身に浴びると何だか生きているって実感が湧いてくる、こんな気持ちになったのも彼女と出逢ったからだった。
波の音が心地いい 犬の散歩をしている人、ジョギングをしている人、朝が早いのに意外と人が多いのに驚いた。
30分ほど散歩をして、部屋に戻ってシャワーを浴びて出勤の準備をする、鎌倉からの初出勤、まだまだ暑い、 朝6時だというのに気温はもう28度。
(鎌倉駅まで歩くと約30分くらいか?)
この暑さで徒歩は早々に諦めて、長谷駅まで歩き江ノ電で鎌倉駅に向かう。
「なんだか、遠足に来ているみたいだな」
鎌倉駅までは由比ヶ浜、和田塚と約5分ほどで鎌倉駅に着く、通勤客がJRへ乗り継ぐ列に僕もついて行く。
ドラマティックな出来事など起こるはずもないそう思って、平凡に生きてきた僕が離婚して、こうしてひとり鎌倉住んで会社に通っていることが今でも信じられないでいた。
ホームに立って辺りを見回す、もしかして彼女が?そんな期待を抱きながら電車がホームに入ってくる。
彼女を追って、少し見慣れたこの車窓からの風景も、これから毎日続く通勤の風景にかわると思うと、なんだか不思議な感じがする。
またいつもの日常が戻ってきた。
「おはよう」
「おはようございます、堤さん いつものでいいですね!」
いつものようにコーヒーとBLTを持ってデスクに向かう、住む所は変わってもこれは変わらない。
朝のミーティングから戻ると10メートル先の彼女のデスクには新しい派遣の女性が座っていた。
柴咲亜美など最初から 存在しなかったかのような、そんな錯覚すらおぼえる。
でも少し前まで彼女は確かに10メートル先のデスクに座って、こちらを見て微笑んでいた。
そして僕はそんな 彼女に恋をした、それは間違いない真実だった。
だって僕は今、こうして鎌倉に住んでいるのだから。
僕はフェイスブックに書き込みを続けている。
それでも彼女からの返信はなかった。
返事がなくとも僕は募る想いをフェイスブックに綴っていく、いつかくる彼女からの返信を待って。
ため息ばかりついている日常が過ぎていく、それでもフェイスブックに書き込みは続く。
<札幌はだいぶ涼しくなりました・・・広島でのランチはお好み焼きでした写真送ります・・・旨そうでしょう?ヘ(゜▽、゜*)ノ、元気ですか?>
逢えなくても 返事がこなくても彼女のことを一日たりとも忘れることはなかった。
鎌倉での生活にも少しづつ慣れてきて、徒歩と電車で移動するのも少ししんどくなってきた。
「やっぱり、自転車いるよな?」
週末あの自転車屋に行ってみる、あの田村自転車店に。
「こんにちは」
「はい~いらっしゃい~」
「あの~」
そう言うと店主が驚いた顔で店から出てきた。
「あ~あなた・・・堤さん?ですよね」
「はい・・・」
「よかったよぉ あなたの買った自転車、店に届いてるよ」
「えっ?」
店主が奥からあの青いフレームの自転車を出して来てくれた。
「うちのシール貼ってあったから 誰か届けてくれてね」
「そう・・・ありがとう・・・ございます」
確かにあの時の・・・青いフレームの自転車が、お店の奥にひっそりと置かれていた。
「整備しておいたから、なんかあったらまた寄んなよ」
「はい、本当に・・・本当にありがとうございます」
自転車に跨って、駅に向かう、とめどなく涙が溢れてくる。
週末は、戻ってきた自転車で街を散策する、馴染みの八百屋も見つけた、おかみさんが同じ山形出身だったりして。
「このジャガイモ、食べて おまけね」
「いつも ありがとうございます」
「ちゃんと 食べてんの?ごはん」
「はい、何とか・・・」
そんな会話も日常になっていった。
時々買い物していると、彼女とばったり逢えたりして・・・そんな期待をしている自分がどこかにいた。
晴れた日は 鎌倉駅までは自転車で駆け下りる、電車に乗ってる時も彼女が乗ってるかもって、辺りを見渡たしたりして。
雨の日は 江ノ電で鎌倉駅まで向かう、そんな生活が僕の心を癒していく、でも見つからないパズルの欠片のように、自分の無力さを思い知る、僕の時計はあの時から止まったままだった。
休日は由比ヶ浜へ散歩に行くのが日課になっていた、海を眺めていると心が安らいだ、ある日犬を散歩している女の子とすれ違う。
(あっ秋田犬・・・)
その犬は、私の方へやってきて尻尾を振る、女の子は微笑んで 軽く会釈して立ち去った。
彼女からの返事がなくても、メッセージを送った。
<元気ですか?>
ひとりきりのフェイスブックに言葉を綴っていく。
<秋ですね・・・空が高くなりました>
季節は移り行く、 鎌倉と品川を往復する日々が過ぎて行き通勤にも慣れてきた、人ごみを歩いていてもふっと感じてしまう孤独 、(あっ、彼女?)朝 電車の中で彼女に似た人に出逢う。
(違った、なぜ?どうして?返事くれないんだろう)
どうしようもなく、切なくなる。
僕の心の声は彼女には届いているのだろうか?
なぜか仕事だけは順調で、満たされていないのに・・・彼女に僕が今鎌倉に住んでいることを伝えよう・・・
ためらいながら、それでも一歩踏み出そうと僕は決心する。
10月、彼女の誕生日が近づいていた。
<元気ですか? 変わりありませんか?あれから いろいろあって、僕も大好きになった、鎌倉に引っ越してきました。長谷寺の近く、毎朝 自転車で鎌倉駅まで通っています。鎌倉は本当にいい街ですね、いつか鎌倉の街 案内してください>
会社からの帰り道、花屋の前を通り掛る、きれいな花々が店先を飾っている。
「プレゼントですかぁ?」
立ち止まっている僕に若い店員が声をかけてくる。
「ぃいや・・・」
「どうぞ中に入って見てください」
半ば強引にお店の中に入れられる。
「近くでしたら、配達もしていますので」
「あっ、はい」
花のなんとも言えない、甘い匂いが店内に充満している、花屋など入るのは何十年ぶりだろうか?
(花の名前なんてバラとチューリップくらいしか知らないし)
そう思っていると、先ほどの若い店員が訊いてくる。
「なにか記念日とか、ですか?」
「誕生日・・・」
僕は小さな声でつぶやいた。
「でしたら、花束、ぜったい喜びますよ!」
その店員はそう言って花束を作り始めた。
「ぃいや、今日じゃなくて」
「じゃあ、日にち指定で 配達しましょうか?」
「配達? 花束、なんて・・・」
悩んでいる私にその店員は配達する伝票を持って来て手渡した。
「住所か?」私は彼女の家の正確な住所も電話番号すら知らなかった。
「市内ですか?どの辺?ですか?」
困っている僕に店員は優しく声をかける。
「由比ガ浜3丁目?だった、かな・・・」
「お届けする方のお名前は?」
「柴咲、柴咲亜美です・・・」
「柴咲さん あぁ知ってますよ、お届け日は? 由比ガ浜3丁目ですよね」
「10月・・・10月16日に、お願いします」
「わかりました、どんなお花に?ご希望とか?」
「ぃいや、特に・・・白い、白い花束に」
「はい、白を基調にですね、かしこまりました」
彼女はそう言って微笑んだ。
店を出る、送り主は空欄にしてもらった。
(なに、やってんだ?花束なんて・・・)
彼女からの連絡が途絶えてから5ヶ月が経とうとしていた。
なんだか未練がましい自分に、彼女を忘れることが出来ない自分に少し腹が立っていた。
それでもまだ、たとえばいつか 彼女から返信がきて、鎌倉の街で再会して、ふたりまた肩をならべて街を歩くそんな空想を広げたりする。
そんな日がいつか訪れるってまだ 信じている自分がいた、段葛の桜の葉が色づき始め、どこからかキンモクセイの香りが伝わってくる。
10月16日彼女の誕生日、彼女のウォールにメッセージを送る。
<誕生日 おめでとうCongratulations!!★(*^-゜)⌒☆...> <誕生日どうしていますか?美味しいケーキとか食べたりしていますか? 素敵な誕生日過ごしてください☆>
花束を送ったことなど書けなかった、その夜、ひとり彼女の誕生日を祝って部屋でワインを1本空ける。
信じられない 速さで 時は過ぎ去っていく、その後も 彼女からの返信はなかった。
今年も街はクリスマス色に染まり そして また新しい年を迎える、前の住所から転送されてきた年賀状が届いて、ひとり鶴岡八幡宮に初詣に出掛ける。
彼女と出逢って1年が過ぎ去ろうとしていた、参拝して段葛を歩いていると晴れ着姿の女性とすれ違う。(彼女も初詣、来てるのかな?)
一方的なフェイスブックは年が明けても続いていた。
<あけまして おめでとうございます♪ 鶴岡八幡宮に初詣に行ってきました、聞いていた通りすごい賑わいですね>
<鶴岡から 雑煮の食材が届いて、自分で作ってみました、写真送ります。 庄内の雑煮は丸餅で岩のりがたっぷり入ってるのが特徴です♪ 鎌倉の雑煮はどうですか?>
正月休み明け、今年もいつもと同じ毎日が始まろうとしていた。
会社の新年会があって、新しい年がスターとする、彼女の存在がどんどん失われていくような寂しさを覚える。
時は流れまた 春がやってきた、自転車で鎌倉駅に向かう途中の桜並木の蕾がふくらんできた。
先週やっとスマートフォンを購入した、いまいち使い方に不安があるが、通勤途中にアプリを検索する。
(彼女はあの時、スマートフォンで何を見ていたんだろう? )
あの日の・・・そんな彼女の姿を思い出す。
真新しいスマートフォンには昨年の誕生日 彼女からプレゼントされたブルーの エッフェル塔のストラップが揺れていた。
デスクでテイクアウトしたコーヒーを飲んでいると天谷がレポートを持って来た。
「部長 おはようございます!あれっ?そのストラップ・・・」
天谷が何かを言いかけて立ち去っていった。
(ん?何だ)社内では僕が離婚したことは何となく伝わっているらしかった。
皆 気を使ってるのか?そのことについては誰も触れようとしなかった。
今年も数十人の新入社員の研修が始まる、何も変らない日常、彼女が僕の前からいなくなったことを除けば。
4月6日金曜日 鹿児島からの出張帰り、鎌倉駅から歩いて段葛へ寄り道をする。
「キレイ」
暗闇の中に浮かぶ夜桜は息を呑むほどに美しかった。
「なんで、あの時、彼女の手・・・離してしまったんだろう」
ここにくると、あの時 彼女の手を離したことを今でも 後悔してしまう。
もし あの日 彼女の手を離さずに握っていれば、今は違っていたかも、ずっとそのことで自分を責め続けていた。
夜桜をぼんやり眺めながら歩く、目を閉じれば浮かんでくる、あの日のふたり。
(もう、二度と 逢えないのかな?)
駅まで戻って自転車で帰る、空には霞んだ月が浮かんでいた。
「ただいま」誰か返事をしてくれるはずもなく、真っ暗な玄関に入り下駄箱の上に部屋の鍵を置く。
出張先の鹿児島から買ってきた 有村屋のさつまあげと缶ビールのプルトップを開ける、窓を開けると春の海風が潮の香りと一緒に部屋に入ってくる。
さつま揚げを一口食べてビールを飲む「はぁ~うまいな」
スマートフォンでフェイスブックを開いてみる。
「えっ?え!返信?」
テーブルの缶ビールが倒れる。
「あっ、やばいっ、スマホ」
危うくこぼれたビールの上に落ちそうになる。
「うそ?だろ」
フェイスブックに待ちに待った書き込みがある・・・急に胸が苦しくなる。
湧き出る感情を出来るだけ抑えながらウォールを開いてみる、彼女からの書き込みだった。
精一杯の息を吸すって・・・「ふぅ~」吐き出す、そしてスマホに 顔を近づける。
<堤さん、逢いたいです>
そう ひと言だけ書かれていた。
逢いたい、逢いたいです、そう思っていたのは僕だけじゃなかったか。
待っていた彼女からの返信のはずが、すぐに言葉が見つからない。
(しっかりしろ・・・)
どうしようもなく、彼女に逢いたいはずなのに、新しいビールを持って部屋を出る。
歩いて由比ガ浜へ向かう、浜辺に座って新しい缶ビールのプルトップを開け一気に飲み干す。
「でもなんで?今まで?」
そんなことはもうどうでも良かった、もう一度スマホの画面を見る。
「 逢いたいです、か僕だって・・・逢いたい、逢いたいよ 」
今の僕には彼女との想い出以外何も残っていなかった、だから今度こそ、彼女と正面から向き合いたい、そう思っていた。
海の向こうに霞んだ月が見える、遥かな月日のわだかまりを潮騒がを洗い流してくれている。
浜辺でフェイスブックに返信する、彼女は僕が鎌倉に住んでいることを知っているはずだ。
<こんばんは、ご無沙汰しています>( 硬いな、削除)
<こんばんは、久しぶりですね ♪ 元気でしたか?返事なかったからすごく心配していました、僕も逢いたいです、逢って伝えたいこと、聞いてほしいことたくさんあります>
今の素直な気持ちを直接伝える。
部屋に戻り、ベッドに入るが眠れない、深夜1時過ぎスマホで届いた返信を読み返す。
結局 朝方まで眠れなかった、着替えて海岸を散歩する、今日もいい天気だ。
(あっ、この前の)
女の子が犬を連れてこちらへやって来る、またあの犬が僕を見て尻尾を振って嬉しそうに近づいてくる。
(ん?この犬どこかで?)
「おはようございます」
女の子が笑顔で挨拶してくる。
「おはよう、ございます」僕も挨拶を返して犬をよく見る。
(んっ?気のせいか?)
15分ほど散歩して部屋に帰り シャワーを浴びる。
いつものように自転車で鎌倉駅まで駆け下りる、今日は今までと景色の色が違って見える。
彼女に逢える、そう思うだけで僕の心はときめいて、彼女のことで胸がいっぱいになる。
「おはようございます あれ~ 堤さん、なんか良いことありました?」
店長が声を掛けてくる。
「いや・・・別に」
デスクでパソコンを開く、彼女からの返信かあった。
<4月11日 水曜日 午前10時 鎌倉駅改札口でいかがですか? お仕事大丈夫ですか?無理しないでください>
久しぶりのせいか?彼女の言葉が少しよそよそしい?(気のせいか?) すぐに返信する。
<大丈夫です11日 必ず行きます☆ >
逸る気持ちを抑えて用件のみを伝える。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう?不思議だった、あの日のことが すごく遠い日の出来事のようで、
でもつい昨日のように思い出される。
(こんなにも彼女のことを好きだったんだ)僕は10メートル先のデスクを見てそう思った。
言葉に出来ずに待ちわびて、やっと伝えられる喜びと、好きになればなるほど、大切な彼女を失ってしまうんじゃないかっていう不安をどこか感じていた。
日曜日、いい天気 何かしてないとと落ち着かない、ベットシーツ 枕カバーとついでにカーテンも、部屋にあるものを片っ端から 洗濯する。キッチン、トイレ、お風呂、家中をピカピカに磨き上げる。
ベランダで 真っ白なシーツが気持ちよさそうに 春風になびいている。
月曜日、冷たい雨、長谷駅から江ノ電で鎌倉駅に向かう、桜の花びらは冷たい雨に耐えて何とか踏ん張っていた。(水曜日、晴れたらいいな)車窓から桜の木を眺めながらそう願う。
待ち続けた彼女からの返信が本当に、現実だったのか?フェイスブックをまた開いてみる。
(あさって10時)
(明日、逢えるんだ)
火曜日の夜はなかなか寝付けないでいた、彼女に逢ったら何を伝えようか?
日曜日からそのことばかりを考えていた。
ただ 伝えたいのは あの時伝えることが出来なかった、叶うものなら君のことをこれから守っていきたいただそれだけだった。
たとえ運命が変わらなくても逢いに行って直接伝えなければ、そう思っていた。
水曜日は久しぶりに休暇を取っていた、いつものように朝5時30分に目が覚めて、ベッドでしばらくぼんやりする。
「彼女の声って?どんな声 だっただろう?」
いつか 彼女を強く抱きしめたい、そんな想いがめぐる。
いつもより熱めのシャワーを浴びて、そして、あの日と同じスーツに着替えて、お気に入りのネクタイを締める。
「よし大丈夫 問題ない」
そう自分に言い聞かせて 部屋を出る。
「あの日と同じ・・・」
鎌倉の空は澄み切った青空で、春の優しい光に包まれていた。
今年もまた鎌倉の街が桜色に染まっていく、時より吹く春風はふたりの再会を祝ってくれているようだった。
僕は 鎌倉駅に向かってゆっくりと歩き出す。
「彼女が僕の前から姿を消してから1年か」
僕は今の自分に後悔などまったくなかった、新しい道を歩めることにむしろ彼女に感謝していた。
緩やかな坂道を下り江ノ電の踏切を越える、この街で彼女を脚を引きずりながら歩いた交差点、冷たい雨に打たれながら駆け抜けた坂道、いろんな想いが幻のように浮かんでは消えていく。
鎌倉駅が見えてくる、いつもの駅とは違って見える。
9時18分・・・
(また早く着いてしまった)通勤時間帯ではないからか?スーツ姿は見渡す限り僕ひとり、スタバに入る「あれっ 堤さんこれからお仕事ですか?」
「あぁ、ホット ショートで」店長同士が知り合いで、ここのスタバもすっかり常連になっていた。
「ごゆっくり、どうぞ」
「ありがとう」
「確かあの日も彼女10分くらい遅刻してきて」
あの時のことが昨日のことのように思い出される。
お店の中がお花見客でにぎわってきた。
「ごちそうさま」
「いってらっしゃい」
待ち合わせの10時まであと10分 ・・・僕は前と同じように改札の前で柴咲亜美を待つ 。
鎌倉駅に電車が着くたびに お花見客と思しき人が改札から押し出される。
(また彼女どこからか見てるのかも?)そう思ってロータリーを見渡す。
(自転車でくるのかな?)10時を少し過ぎた時 左側から真っ白なワンピースを着た女性が走ってくるのが見える。(あっ?違った・・・)
改札の前で待つ、好きな人を待つことがこんなにも幸せなことなんだと、あらためて思う。
時計を見ると10時15分、その時 僕は不意に左肩を叩かれる。
(ん?)
「堤さん、ですか?」
さっき走ってきた白いワンピースの20歳くらいの女の子だった。
「あっ、はい、堤です」僕はそう答えて彼女を顔を見る。
(あっ、目元が彼女とそっくりだ )
「あ~よかったぁ」
そう言って彼女は微笑んだ。(笑った顔も彼女に、でも、誰? )
「あっ、すみません、私ばかり話しちゃって、 私 柴咲 遥っていいます」
彼女が真剣な面もちで挨拶をする。(柴咲?遥って、彼女の? )
困惑している僕の顔を見て彼女が続ける。
「 柴咲亜美の娘です、 母から聴いてませんでしたか?」
「確かあの時、高校2年の」
「そうです、9月に日本の大学に編入して 4月から大学2年です」
そう言ってまた微笑む目元が本当に彼女そっくりだった。
彼女を包んでいる空気もどことなく彼女(すなわち 柴咲亜美)と似ている。(娘さんか、でもどうして?)
「少し 歩きませんか?」
彼女は少し小声で、僕の顔を覗き込むようにしてそう言った。
「あっ、あぁ、そうだね・・・」
僕はまだ状況を理解できないまま、彼女の後について歩き出す。
(でも、なんで、娘さんが?)
それを訊けないまま、いや、訊くのが怖かったのかも知れない。
ふたりは 一言も言葉を交わさぬまま、駅のロータリーを半周して駅の交差点に差し掛かる。
彼女は時折空を見上げて、鶴岡八幡宮の方へゆっくりと歩いていく。
1年前、彼女の母親 柴咲 亜美とたどったのと同じ道、ホテル鎌倉の先に二の鳥居が見えてくる、
僕は思い切って声をかける。
「あのぉ」そう言いかけると。
「堤さんって、母から聴いていた、想像していたとおりの方でした、 母は来れないんです、来れないんです・・・」
消えそうな声でそう言うと小走りで段葛に上がって行った。
今まさに満開を迎えた桜並木をふたり肩を並べて歩いている、1年前と光景と重なり合う、ただ隣にいるのは、彼女ではなく彼女の愛する娘だった。
(来れない?)僕はその理由を訊けぬまま、彼女はその理由を告げぬまま、ふたりはしばらく桜並木の下を歩む、白いワンピースその姿は 彼女と錯覚してしまうほどだった、彼女は時折 桜並木の先の澄み切った青空を見上げる。
こぼれ落ちそうになる 涙を必死にこらえているように見えてならなかった。
三の鳥居をくぐり境内に入っていく。
「堤さんは母のこと、どう思っていたんですか?」
「・・・」
突然の質問で僕は何も答えられなかった。
「ごめんなさい、私、いきなり、変なこと訊いちゃって」
「・・・」
「今、鎌倉にお住まいなんですよね?」
「あぁ、去年の夏から」
「由比ガ浜とか、よくお散歩するんですか?」
「朝早く、あと週末はよく」
「・・・」
「あっ、犬、秋田犬?」
「覚えててくれました? 先週も」
「あぁ、あの時の」
「実は 私も、由比ガ浜でお逢いした時、驚いちゃって」
彼女はこぼれるような笑顔でこちらを見てそう言った。
これも彼女が起こしてくれた小さな奇跡なんじゃないかって、そう 思った。
「でも、『HARU』(はる)あっ、犬の名前ですけど、堤さんのこと見るとなんか?喜んじゃって、私が家を出た時、3年前にうちにやってきて、私が HARUKA だからHARUって、母が名づけ親ですよ。
どうしてだろう?他の人には ぜんぜん なつかないのにね、不思議でしょ?堤さんに 逢ったこともないのに」
「昔から、犬にはよく、好かれていたから、山形でも飼ってたし、秋田犬」
「えぇ~そうなんですかぁ、なんて名前だったんですか?」
「SORAそら・・・だいぶ前に逝っちゃったけど」
「SORAかぁ、いい名前ですね、HARUとSORA 」
そう言って彼女はまた笑った。
その笑顔は本当に彼女が隣にいるかのようだった。
「あっ、そのストラップ、母からの、つけててくださったんですね」
僕のスマートフォンに付いているエッフェル塔のストラップを見て、彼女はうれしそうに言った。
彼女は僕たちのことを何でも知っているようだった。
「ほら」
そう言って彼女はバックからスマートフォンを取り出した。
「あっ、それって」
彼女のiphoneにも僕と同じエッフェル塔が2つ並んで揺れていた。
「おそろい、ですね・・・」
「あぁ・・・」
それを見てふたりは顔を見合わせて笑った。
でも僕はなぜ?彼女のエッフェル塔のストラップがここにあるのか?訊けないでいた。
舞殿に向かって またゆっくりと 歩き始める。
『吉野山 みねのしら雪踏み分けて いりにし人の あとぞ悲しき』
「その歌・・・」
彼女は少し驚いた顔で私の方を振り向いた。
「そう、君のお母さんに教えてもらったんだ」
「堤さん、本当に母のことを・・・」
彼女はうれしそうに つぶやいた。
舞殿の横を通り抜け、彼女は 倒れた大銀杏の前で立ち止まる。
「母も きっと堤さんのこと大好き、大好きだったと思います」
そう言ったままうつむいた。
( 大好き、だった?)
彼女の今にも消えそうな声が僕を不安にさせた。
「母は、母は・・・昨年 亡くなりました」
「えっ?」
振り返ると、涙が彼女の頬を伝っていくのが見えた。
(そんな、はずない・・・ 亡くなった?ちがう、きっとちがう)
僕の心がそう叫ぶ。
( 彼女ともう、二度と逢えない?)
「うそ、だ」
そう呟いてまた振り返る。
彼女の 悲しみに包まれた涙顔を見て、それが真実だということを悟る。
大銀杏の前で立ち尽くす、ざわめく周囲の人込みの音が消える、息も出来ない、声が出ない。
「うそだ、きっと うそだ」
心の中でそう繰り返し呟く。
涙なんて出ない、焦点が定まらない瞳は 果てしなく遠くを見ていた。
「堤さん、堤さん、大丈夫?ですか 」
よほど ひどい顔をしていたのか?彼女が僕の顔を覗き込むようにして訊いてくる。
「ぁあぁ、大丈夫」
強がって、彼女に背を向けやっと 答える。
「母は いつも堤さんのこと、嬉しそうに話していました、堤さん、もしかして、母のために?ひとり鎌倉へ?」
「いや、ひとりになったのは、そうじゃない、そうじゃないんだ」
これ以上 言葉が見つからない。
(俺、なんのために、どうして?彼女を守ってやれなかった・・・)
僕は、自分の無力さを思い知る。
どのくらいの時間が経ったのだろう、彼女が私の顔を覗き込んで言った。
「堤さん、母に、母に 逢いに行きましょう」
「えっ?」
彼女は僕の左腕を掴んで、今来た境内を戻っていく。
彼女はどんどん歩いていく、段葛を抜けた先にある小さな花屋に入る。
そして小さな白い花のついた 花束を買った。
「行きましょう」花屋の前でタクシーを止めて行き先を告げた。
僕は何も話さず 黙ったまま、彼女について行く。
僕は窓から流れる風景をただひたすら、ぼんやり眺めていた、タクシーは高台を30分ほど上がったところで停まった。
「着きましたよ、堤さん 」
花束を持った彼女が先に降りる。
春霞の先に見える鎌倉の海が光って見える、彼女は無言のまま階段を登り 山門をくぐる。
そこには緑に囲まれ穏やかな春の日差しを浴びた墓地が広がっていた、少し歩いたところで彼女は立ち止まる。
「ここです 」
そう言って彼女はこちらを振り返る。
持っていた 花束をそっと置いて手を合わせる彼女、その姿を見てもまだ現実を受け入れられない。
柴咲と刻まれた文字、そのお墓の前で僕は、悲しみに立ちすくむ、どのくらい時間そうしていたのか? 彼女はそんな僕のそばでずっと見守ってくれていた。
「もう、逢えないんだ・・・」
彼女にもう逢うことも、手を握ることも、抱きしめることも叶わない、それを受け入れられないまま手を合わす。振り返ると目を真っ赤に腫らした彼女が微笑んで言った。
「母の大好きだった、花なんですよ、すずらん、誕生日の花束も・・・とても喜んでいました」
彼女の母が大好きだった鎌倉の街が霞んで見える。
「ありがとう」
そう言うと、彼女は小さく頷いた。
待たせていたタクシーで鎌倉駅に戻る、ふたりは黙ったまま窓の外を見ている。
(あっ)もう少しで鎌倉駅に着こうとした時、バックに入れてた彼女へのお土産のことを思い出す。
いつか、彼女にまた 逢ったら渡そうと思って、引越しの時も大事に自分で運んだ ストックホルムの一枚の絵とSnow Ball 。
「これ、お母さんに逢ったら、渡そうと思っていたお土産、荷物になっちゃうけど」
「いいえ、ありがとうございます、何だろう?」
そう言って彼女は微笑んだ。
「じゃあ」
「はい、あの・・・」
「ん?」
「いえ」
「それじゃあ」
鎌倉駅で彼女と別れて、行く当てもなく 鎌倉の街をひとりさまよう、日が暮れて、いつの間にか由比ガ浜に足が向いていた。
そして薄暗くなった 浜辺に腰を下ろす、どのくらいこうしていたのだろう?海に浮かぶ おぼろ月、涙が今になって涙が止め処なく溢れてくる。
抱えきれないほどの悲しみに、胸がつつまれる、涙が頬を伝いネクタイの色が変わっていく。
「なぜ?なぜ、彼女のそばにいてあげられなかったんだろう、彼女は最後に何を願ったのだろう?彼女のために、何もできなかった・・・」
そう自分を責める。
彼女を守ることができなかった、そして守るものをまた失ってしまった。
(えっ何?) 背中に何かがぶつかってきた、 ハァ ハァ ハァ・・・
「 犬? 」 見ると私の横に大きな犬が座って、尻尾を振っている。
「えっ、HARU? 」
そう言うと、その犬は僕の涙で濡れた頬を舐めて、悲しそうな 鳴き声を上げる。
「HARU?HARUなのか? 」
僕はHARUを強く抱きしめる・・・また涙がこぼれ落ちる。
「HARU~ダメじゃない 勝手に行っちゃ 」
柴咲 遥が HARUを追って走ってきた。
「すみません、堤さん 」
「いや・・・」
「きっと、ここじゃないかって、堤さん、なんだか心配で」
「ありがとう 」
彼女は僕の隣に腰を下ろす、ふたりは黙ったまま海を見ていた。
そして僕は気づく、この世界に ひとり取り残されて、 抱えきれないほどの悲しみにくれているのは、僕だけじゃないことを、隣にいる 彼女こそが一番の悲しみを背負っているに違いないことに。
「ありがとう、もう、大丈夫だから」
僕はいつの間にか、彼女の娘 柴咲遥 に救われていた。
「はい 」彼女も涙を拭いて、小さくうなづく。
「家まで、送るよ」
「ありがとうございます」
彼女はHARUの首輪にリードを付け 歩き始める。
彼女の家に行くのはこれで2度目、見覚えのある白壁の大きな家が見えてくる。
門を開けてHARUが庭に放される、HARUは僕に向かって大きな尻尾を振って別れを惜しむように 悲しげな声を上げた。
「じゃあ、これで、またな、HARU・・・」
「はい、ありがとうございました 」
振り向くと「あの~」彼女が呼び止める。
「ん? 」
「いえ」彼女は少し ためらって私に言った。
「堤さんは、堤さんは、母のこと大好きでしたか?」
僕は彼女の正面を向いて彼女に言った...
「あぁ、大好きだった、今でもね」
彼女は泣き顔で、でも零れるような笑顔で「はい」と返事をしてくれた。
桜の季節は終わり、鎌倉にも暑い夏がやってくる、鶴岡八幡宮の三の鳥居には七夕の飾りがはためいていた。
僕は彼女のいないこの鎌倉の街で新しい、でも空しい日々を送っていた。
あの日以来フェイスブックには全く触れていなかった、もう僕には必要なかったから。
今年一番の猛暑、熱帯夜、涼みに海に出かける もちろんビールを持って。
ビールを一口飲んで、スマートフォンを見ていると フェイスブックに友達リクエスト?が届く心当たりなどなかった。
「ん? 誰?だ」
「柴咲遥? 彼女の・・・」
それは彼女の娘 柴咲 遥からの友達リクエストだった。
<堤さん、お元気ですか? >
こうして僕たちのフェイスブックが始まった。
月日は光のような速さで過ぎていった、あっという間に鎌倉での3度目の春を迎えようとしていた。
僕はこの年の4月から Executiv Sales Manager に昇格していた。
また 鎌倉の街が桜色に染まっていく、あの日から僕は毎年4月になると彼女の墓参りに行っていた。
週末彼女の好きだった、すずらんの花束を持って海の見える彼女のお墓に参る。
(また、君の大好きな季節がやってきました、 早いもので娘さんも来年卒業を迎えます)
彼女のお墓に やさしい春の日差しが 降り注ぐ。
「来月だったよね?最終面接 」
「はい、でも、もう今から 緊張しちゃって 」
「君なら 大丈夫、 問題ない 」
「あ~ またいつもの 問題ない 」
そう言って彼女は笑った。
仕事はますます忙しくなっていった 、海外出張も年10回は行かなくてはならなかった。
来年採用の新卒 最終面接も僕の大事な役目だった。
もちろん彼女には僕が面接官とは言っていない。
「では、次ぎの方どうぞ お入りください」
「はい、柴咲 遥です、よろしくお願い致します」
彼女が僕を見て一瞬目が合った。
「では最初に、私どもの会社を選んだ理由をお聞かせください」
僕は彼女に質問する。
おわり
HARUとSORA 柴咲 遥 @haruka1029
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