私は朽ちていく疾走

ハギワラシンジ

このまま何も思わずに

 彼が疾走し、葬式が終わった後、宴会が盛大に催された。親戚一同が集まって彼の昔話をし、大声で騒いでいる。机には所狭しとご馳走が並び、遠縁の男たちがビール片手に腕相撲をしているその後ろでは子供たちがぎゃあぎゃあと力比べをする父親たちを無邪気にはやしたて、母親たちがそれを笑いながら諌めていた。

 私は机の端っこからその光景を眺めていた。すると彼のお母さんが少しふらつきながら私の隣に座った。「津久絵ちゃんはもういいの?」お義母さんは私の減ってないビールを見て言った。

「ええ、そうですね」少しグラスを傾け口に含む。そしてグラスに分からないように戻す。舌がわずかに痺れ、麦が押しつぶされた香りが鼻腔に抜ける。

「ビールはお嫌いかしら」お義母さんはすこし赤らんだ顔でほほえみ、口元をゆるませる。そして私のグラスを掴み、中身をぐいっと飲み干した。

「あまり悲しくならないことよ」彼女は唇をぬぐう。「そもそも、そんなに、悲しいことではないのだから」

「ええ」

 お義母さんは相変わらずとろけた輪郭で私を見つめてくる。彼女の微笑みには爬虫類のような生物的な危うさがあった。私は少し笑い返し「お手洗いに行ってきます」と軽く会釈をして席を立った。奥のほうでは叔父が子供たちと遊んでいる。男の子、女の子、かまわずにぐるぐる回ってはしゃいでいた。叔父はワイシャツを汗で濡らすほど動いていたがとても楽しそうだった。子供たちもきゃっきゃと彼に付いて回り、まるで小さな遊園地を見ているようだった。でも遊園地には子供しか入れない。ぐるぐる回っていいのは子供だけなんだ。

 トイレに行っても何も入れてないのだから何か出るはずもなく、私は何かをしなければと洗面台に向かい手を洗った。蛇口から水が勢いよく出て、水滴が手首に飛んだ。水の勢いで洗面台のそこにたまっていた空気が掻き出され、私の鼻に侵入してくる。こびりついた水垢、硬いカルキ、それとすえたアンモニアのにおいが私の身体を駆け巡る。疾駆するにおいは脈打つ何百もの血管を通り、私のつま先にまで達し、地面に突き刺さる。私はその場に深く打ち込まれた。動けなくなって立ちつくす。目の前の鏡には私が映っている。そこに私がいた。

「ぐるぐる」ぐーるぐる。と大きな声が聞こえる。叔父が子供のように子供と戯れる声だ。あの厳格だった叔父があんなに柔和してしまって。周りもそれを幸福に捉えている。私もぐるぐるになって加わりたかった。でも私の足は深く打ち込まれてしまって動かない。だから私はまず身体の奥底から、息のようなものを吐く。

 吐いたんだ。

 私は吐いていた、何もないと思っていた私の胃には何かあった。それは胃液がほとんどだったけどそれだけじゃなかった。だって少し身体が軽い。奥歯がきしきしする。胃液がまとわり付いている。私は吐いた。はいた。わたしはいた。

 私は私を部屋に戻す。みんな幸福そうだった。ハープを鳴らしたような多幸感があった。そして私のことを物分りの悪い愛らしい子供のように見る。この目も、その目も、あの目も、どの目も。わかる。みんな私を可愛らしく扱いたいんだ。私を自分たちの輪に入れない不器用で小柄な存在として。

「津久絵ちゃん」

 と惚けたお義母さんが近寄る。

「飲みなさい」

 ずい、とビールを勧めてくる。

「はい」

 私はほほえんで、それを全部飲み干した。

 私のその瞬間をみんなが見ていた。遠縁の男たちも、叔父もお義母さんも。みんな見ていた。子供が真顔になって叔父をきょとんと見上げて言う。「ぐるぐるおしまい?」

 私は言う。

「ううん」

 これからよ、そう私は言い、宴会を飛び出した。

 そう、私は彼に会わなくてはいけない。なんでだろう。彼は疾走してしまった。会社から、友達付き合いから、飲み会から、家から、社会から、社会性から、しがらみから、怒りや幸福、私から、私のいる場所から、私といる世界から、この世から、理から、断りもせずに、疾走した。すべてを置き去り、抜き去った。彼は笑顔をいつも絶やさなかった。きっと疾走しても笑顔なのだろう。私のことをいつも好きと言ってくれ、かわいいと言ってくれ、利己的ではなく、他者にやさしいお人好しだった。吐いた的で排他的な私とはぜんぜん違った。

 だから彼は疾走したんだ。

 私のせいなの、と聞いたら彼は違うというだろう。そんなことは分かりきっている。だからこそ、ちゃんと会いたいんだ。

 私は宴会を飛び出し、塀を飛び越えた。昼寝していた猫が飛び起き、私を威嚇した。でもそんなことは置き去りだ。私は行かなければ行けない。この限られた時間のうちに私は彼に会わなくてはいけない。

「そこの君とまりなさい」

 背後から警官の制止する声が聞こえる。それもすぐに後方に流れていく。車がどんどん私から離れていく。追随は不可能だった。私は迅い。私は彼に会わなくてはいけない。そのために私は切り捨てなければいけない。まずは自分の速さを、追い越さなくてはいけないの。

「発砲許可が出ている」

 私は疾走した。私の物理的疾走は多くの3次元を粉々にする。私があまりにもこの世から疾走するのでバックファイアがうまれる。それで火災が起きている。風圧で屋根が飛んでいる。竜巻もかき消している。特殊部隊みたいな人たちが私を制止しようと脅しのような言葉を言う。でもわからない。それが脅しだというにはあまりにも私はあなたたちから離れすぎている。

 私はアスファルトを駆ける。

 私の駆け足は首都高に地割れを起こす。

 私は海面を走る。魚たちが衝撃で気絶し、カモメが食らいに群れを成す。

 バッファローの群れをなぎ倒す。

 ツンドラを摩擦で火事にした。

 北極の氷が解けた。

 シベリアの永久凍土が砕けた。

 わたしは、わたしは、わたしはいた。

 私の後頭部に何か当たる。それは戦闘機の光る銀翼だった。いつのまにかアメリカの防空圏に入り込んでいたのだ。私は空を翔けている。パイロットの顔が見える。彼は必死に無線に何かを呼びかけ、私に追従する。彼の顔はマスクに覆われていて表情は分からない。もしかしたら笑っているかもしれない。風圧で私の髪の毛はきっとめちゃくちゃだろうから。そして私は疾走する。戦闘機を置き去りにする。

 いろんな銀翼が見えた。視界の端にとまった。でもそれはすぐに消え、また現れ消えていった。そしてその飛行機たちはやがてどんどん古いものになっていった。私はおかしく思い地上を走る。どこかの大きい大陸を駆ける。大きな音楽の祭典が催されていた。英語でウッドストックフェスティバルと書いてある。

「昔に来ちゃったな」

 そこは過去だった。私の疾走は時代を逆行したのだった。それをかなしく思う。だって彼なら過去に疾走することなんてないだろうから。

 でも私は疾走する。

 だって地球は丸い。私はここから離れたつもりは無い。ずっとぐるぐる回っていればそのうち会えるだろう。大丈夫。ぐるぐる。回るんだ。メリィゴウランドみたいに。全てを許されて、大人たちに見守られて。そういうところで彼と会いたいんだ。

 私は疾駆する。邪魔だ。全てが。彼以外の全てのものが不必要だ。それらは私にとって機能不全の原因なんだ。だから切り離す。そう、私には何もいらない。言葉も、思考も、限界という言葉すら。私は私の積み上げてきたものを全て叩き落としていく。私の目はとっくに乾いてしまっている。瞬きする時間すら惜しいんだ。涙が溢れる前に前に進んで、吹き飛ばす。涙をぬぐうのに、悠長に、手なんか使っていられないんだ。

 進め。

 吹き飛ばせ。

 私は、自分の身体が剥がれ落ちていく感覚が、この隼さの中で顕著になっていくことを感じていた。私は朽ちていく疾走。鱗がはがれていく。羽が落ちていく。落葉する。

 私ははやい。何よりも。今いる場所はどこだろう。ここは。雲がたくさんある。成層圏の辺りを駆けているのだろう。酸素が薄く息苦しかった。でもいいんだ。過呼吸にならなくてすむ。それに人がいると、酸素もちょうどいいのに、やたらと息苦しい。ここはそういうのがないからいい。私は疾走する。

 疾走して、疾走して、疾走した。私の身体はもうほとんどなくなっていた。もうほとんどない。胃液も無い。何も吐けない。そんな身体になってしまった。周りを見渡しても何もない。ここは粒子と粒子の距離がやたらと遠くて、空間が引き伸ばされていた。別にいいよ。それでも。私はいいんだ。空間が引き伸ばされても、時間がなくなっても、私は彼とは離れているわけじゃない。問題なのは距離とか、限界ではないんだ。私がどれだけ疾走したかなんだ。

 不意に寂しくなった。

 私は速度を落とした。

 すると眼球があった場所から涙が流れた。吹き飛ばすことは出来ない。いったん落ちたスピードはもう戻せない。私は手を使って泣いた。初めての人間のように泣いた。私は寂しくて嗚咽を漏らした。でも誰もそれを聞いてくれる人はいない。私を観測してくれる人はいない。だから私が本当にここにいるのか分からない。

 私はとぼとぼ歩いた。そして古ぼけた電話ボックスを見つけた。私はそこに入り、どうにか残っていたコインを入れダイヤルを回し、彼が電話に出るのを待つ。

「こんにちは」

 電話の向こうから彼の声がした。

「どこにいるの」

「ちょっとそこからは遠いかな」

 彼の声は弾んで聞こえた。

「あのね」私はうれしいけどそれをあまり声色に出さずに言う。「宴会抜け出してきた」

「ええ」と彼はびっくりする。「母さん怒らなかった?」

「ううん」と私は少し笑う。「ビールすすめられた」

「母さんはビール好きだからなぁ」と彼が受話器の向こうで笑う

「あのね」と私は言う。「迎えに来てほしい」

「そうかぁ」と彼は困ったように言う。「ちょっと遠いんだよなぁ」

「ううん」私は気を落とさないようにする。「いいの」

「ごめんね」

「だいじょうぶだよ」

 気にしないで、あいしてるよ、と言う前に電話が切れた。コイン一枚では時間が足りなかった。私がもっと時間を気にして考えればよかった。もっともっと、彼と話したかった。

 仕方ない、と私は思う。私が切り捨てたもの、取りこぼしたもの、考えないようにしてたもの、それが全部必要なことは分かっている。でも私はそうやって朽ちていく最中でしか自分の位置を把握できない。ごめんね。ありがとう。だから、がんばるから、見てて。

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