天窓に潜むもの

アンディ・アンダーソン

第1話

深夜、彼は不快感で目を覚ました。白のシャツが黄ばんでいるのではないかと思うくらい汗を吸い込んでいて、身体に張り付いていた。もう一度眠ろうと努めたが、身体はそのまま寝るのを望んでいなかった。


 部屋の電気は消して寝ていたので、天窓から差し込む月光だけが唯一の明かりだったが、目は暗闇に慣れていてタンスにたどり着くのは容易だった。臭いが漏れるシャツを脱ぎ捨て、新しいシャツを頭から着ながら部屋を出た。


 階段の電気を点けると、強烈な光が目に突き刺さって中で爆発し、一瞬後に暗闇に没した。徐々に暗闇の奥から光が戻り、完全に目を開けるようになったころには階段を降りきっていた。


 2階のリビングも3階にある彼の部屋同様に薄暗かったが、階段の電気が点いているためかすこしだけ明るかった。


 喉が渇いていた。


 冷蔵庫を開けると、心地よい冷気と共に茫然とした光がこぼれだした。彼はペットボトルのジュースを引っつかみ、ラッパ飲みで喉へ炭酸水を流し込んだ。一瞬身体が熱くなって咳き込みそうになったが喉は潤いを求めており、そのまま飲み干した。


 トイレに行くのに明かりは必要なかった。暗闇の目はあまり利く方ではないが、何も見えないほど暗いわけではなかったし、引っ越してきたばかりでもなかったので感覚だけで、しかし昼間歩くよりかなり遅いスピードで目的地にたどり着いた。トイレの電気のスイッチも探り当てて点け、用を足した。


 便器の水に自分の顔が映りそれがしばらく揺れた後、一気に消えていった。けたたましい音が家族を起こしてしまうのではないかと毎回心配していたが、そんなことはなかった。


 自室に戻るころにはもう目が覚めてしまっていた。さっき脱ぎ捨てたシャツが階段の光を受けてぼんやりと反射している。布団に入って何とか眠ろうとしたがうまくいかず、何度も向きを変えるだけだった。


 ふと仰向きになると、ちょうど頭の真上に位置する天窓から白い月が覗いていた。夜空が額縁に入れた絵になり、わずかに見える星たちが月を際立たせていた。天窓という額縁に入れた月は外に出て見るより何倍も大きかった。


 彼はもう何年もこの家に住んでいるが、天窓から夜空をじっくり見たことはあまりなかった。しかし天窓は夜、豆電球を点けなくてもちょうどよい暗さにしてくれるのと、朝、ゆっくりと陽を差し込んで優しく起こしてくれるということで、はっきりと意識したことはないが気に入っていた。


 あと幾らかの時間だけ、その景色は完全に彼だけのものだった。もしこのまま月が落ちてくるのであれば、落下地点は絶対にここだと思ったほどだった。


 月が見えなくなった頃、彼は再度眠ろうと努力したが、またもその場で転がりまわるだけでうまくいかなかった。


 どんっ、という音が真上でした。月が落ちてきたような大きな音でもなければ、小石が当たるような軽快な音でもなかった。続いて、カツカツという音。釘をハンマーで軽く打つ音のようでもあり、ヒールを履いた女性が控えめに歩くような音でもあった。彼はそのどちらをも想像して身震いした。こんな時間に大工は屋根に上らないし、ましてやそれがヒールを履いた女性であるはずはなかった。


 彼は気にせず眠ろうとしたが、今度こそ全く眠れる気がしなかった。何度も寝返りを繰り返すうちに何かに見られているような気がして、言い知れぬ恐怖に襲われたのだった。


 仰向けになって天窓を見た。何もいなかった。月の姿がなくなっているだけで、星たちもさっきと変わってはいなかった。


 しかし恐怖が去ることはなかった。何もいなかったはずなのに、誰かが天窓の角から覗いているというような想像が彼の頭から拭われることはなかった。眠るにはちょうどよい暗さの部屋が突然意味もなく不気味に思えてきていた。薄暗い部屋にも中に何かが潜んでいる気がしてならなかった。やがて寝返りをうつだけで全身の血液が一気に身体中を流れている感じがして、それすら怖くなり彼は寝返りをうつのさえ止めた。仰向きにはならず天窓は見ないようにした。カツカツという音はまだ続いていた。


 極力動かないまま、何度も眠ろうと努力したが、結局眠ることはできなかった。音が聞こえなくなって、起きだして部屋に明かりを点して何かをして気を紛らわせようかとも思ったが、何とか眠ってしまいたかったので止めた。それに動きたくはなかった。


光が闇を消していき、光の元が姿を現しきったころ、彼はようやく眠りに落ちた。


 目覚まし時計のけたたましい音が彼の耳を突き刺したのは三時間ほどしたころだった。いつもと変わらず天窓からは強烈な太陽光が幾分かマシになって布団に注がれていたが、さすがにその光だけで起きることは出来なかった。


 ふと、彼は天窓に何かが付着しているのを見つけた。わずかに見える、親指の腹ほどの大きさのものだった。眩しさに眼を細めながらも、凝らして見ると血液のようだった。光を吸い込んで薄紅色に変わって見えるが、確かに血液だった。やはり昨夜この上に何かが、あるいは誰かがいたのだ。あの音はそれが立てたのに違いない。


 襲いかかってくる睡魔と一日中闘い、夕闇に太陽が飲み込まれる手前の時間にようやく帰宅した。昨夜充分に眠れなかったせいか、普段より一日が長く感じられた。常に布団は敷きっぱなしで、部屋着に着替えるとそのまま布団に倒れこんだ。


夜が静寂と共に落ちてきて空を支配し始めたころには、彼の意識は空よりも暗い深淵に没していた。眠りに落ちる時でも、昨夜のことは心にこびり付いて剥がされることはなかった。


深夜、彼は不快感で目を覚ました。昨夜と同様に白いシャツは汗を吸い込んで濡れていたが、身体は冷え切っていた。シャツを脱ぎ捨てたが、昨夜のような嫌な臭いは全くしなかった。新しいシャツは冷たく、着たときには身震いした。


喉が渇いていたが、それ以上に尿意を催していた。昨夜のことが頭から離れない。電気を点けて階段から下を見ると、二階は闇に染まっていて何か得体の知れない恐怖を感じさせた。何かがいる極近くにいる感覚が常に付きまとっていた。彼はもはやその「何か」が怖いのか、暗闇そのものが怖いのか分からなくなっていた。


冷蔵庫を開けるとほぼ同時に冷気とぼんやりした光が顔を触った。昨日のように心地よいものではなく、しかもちょうど冷蔵庫が唸りだしたので彼は反射的にドアを閉めていた。渇きは潤いを求めていたが、何故かもう飲む気をなくしていた。


トイレに行くのに明かりが必要だった。リビングルームの明かりを煌々と点けたが、点いた瞬間に隠れている「何か」が姿を現すのではないかと怖れた。


用を足している間、彼は水に映った自分の顔を見ることはせず、敢えて思い切り水を流すことで少し気を紛らわせた。家族のことは頭になかった。


部屋に戻り、入り込んでくる雑念を振り払って寝床に就いたが、やはりその場で寝返りを繰り返すだけで寝付けなかった。


意識が半分落ちかけたときだった。


どんっという音が真上でした。しばらくして、またカツカツという音。得体の知れない音は半分寝ていた頭を覚醒させるには充分だった。


彼はもう完全に眠れなくなっていた。天窓に何かがいるのは間違いない、と思った。しかし、それが何ものであるのか確かめるのは怖かった。何度も寝返りを繰り返しては眠ろうと必死になった。


その間もカツカツという音は止まなかった。


彼は寝返りの最中、天窓を一瞥した。


何かがいた。


今度は仰向けになり、両目でしっかりと天窓を見入った。


青白く光る月を背に鴉が一羽止まっていた。夜を吸い込んだ鴉は闇と同化しながらもはっきりと存在感を示していた。カツカツと音を立てながら、時折こちらをじっと見つめるその瞳にさえも光は宿っておらず、不気味だった。


彼はふと思い立って部屋の明かりを点した。


外に向かって天窓から光が溢れ、鴉の闇が浮かび上がった。突然の光に驚いたのか鴉は一瞬飛び上がった後に何回かカツカツとやると月の方へ向かって羽ばたいて行った。白い大きな月に、漆黒の鴉が吸い込まれていった。


彼は音の正体が鴉であったことに安心した。そんなことに怯えていた自分を少々嘲りながら部屋の電気を消してすぐに眠った。とてつもなく暗い深淵に沈んでいく感覚は、気持ちがよかった。


彼はそのまま二度と目を覚まさなかった。

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天窓に潜むもの アンディ・アンダーソン @andyanderson13

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