第20話

 前回同様渚を受け止めての輝恵丸への乗船だが、今回は足場の悪い船上でもしっかりと踏みとどまり、転倒することはなかった。揺れる漁船を浮かした海面は穏やかに波打っていて、しっかり顔を出したこの日の日光を歪に写し出している。

 僕はハーフパンツにTシャツ姿、渚はショートパンツにTシャツ姿で、輝恵丸に乗ってすぐ長靴とビニールエプロンを装着すると、早速デッキブラシを持って掃除を始めた。


「さすがに暑いね」

「そうだな。せっかく渚の日焼けも落ちてきたのにな」

「まぁ、しょうがないよ」


 渚は日焼けに対して卑屈になった様子は見せず、清々しい表情で手を進めるのだが、その表情からは朝庭先であったことへの照れや気まずさはもう感じられない。


 作業を進めていると徐々に汗が滴り落ちてくるのだが、それは渚もあまり変わりはなくうっすらと額に汗を浮かべ、流している前髪が曲線を失い額に張り付いて目に掛かりそうだ。

 日光と、海面の反射光と、輝恵丸の窓に写る光がレフ板の役割を担うかの如く渚を照らし、その渚は長靴にビニールエプロンではあるものの、それがダサいとか野暮なことは思わせず、遠方に見える小さな島と漁港の海面を背景に、綺麗な被写体となって僕の瞳に写る。


「聞いてもいい?」

「遠慮して欲しいかな」

「ぶー」


 手を止めずに会話を続ける渚が僕に聞きたいこと、それには検討がつく。普段時折見せる渚の心配そうな表情。僕はクリッとした可愛らしいその渚の瞳を曇らせてしまうことが心苦しい。


「それでも聞くけどね」


 そう言いながらデッキブラシを前後に擦る渚。その表情を見る勇気が僕にはなく、黙って掃除を続けるのだが、渚の声色からもの寂しげな様子が伝わってきてデッキブラシを握る僕の手に力が入る。


「輝君って何か悲しそう。出会って半月だけどさ、そのくらいわかるよ。できることなら私が力になりたい」


 そんな言葉を向けられると胸が張り裂けそうになる。なぜそこまで僕に拘るのか、そんなことは考えなくてもわかっている。他人に言ったら自意識過剰だと言われるかもしれない。たったの半月、されど半月。それでもこの町で僕と渚は四六時中生活を共にし、そうすると半月という時間は十分で、特別な感情が芽生えることは何も不思議ではない。


 残すところ二週間。じいちゃんの家で生活をしながらこうしてこの町で渚と過ごすことができる期間だ。入島初日から動揺させてくれたその困惑は未だ衰えることを知らず、僕の胸の内で今も尚くすぶっている。

 消化できないあの子が僕の中に居続ける限り、僕は次へ進むという気になれないどころか、消化できないあの子を自分の中から消すつもりがない。渚との生活が楽しくて、終わりたくなくて、けれどどうしても怖いから拒絶しているのだ。


 僕は渚の質問に何も答えることができず、デッキブラシを擦り続けた。


 ◇


 部活がない日は真緒と一緒に登下校をするのはいつものことであるが、そのいつものことをより意識するようになった高校二年の秋の頃。僕に心配をかけないようにしているのか、真緒の表情はいつものとおり明るい。それでも心配が払拭できず僕は毎日真緒に聞いてしまうのだ。


「体調どう?」


 二年目ともなるとすっかり歩き慣れた通学路で、夕日に照らされた真緒は風に髪を靡かせながら、軽く腕を広げてひょいっと歩道の縁石から飛び降りた。重力に反するように一瞬残った真緒の綺麗な栗色の髪の隙間から、橙色の夕日が光柱を形成した。


「見てのとおり快調だよ」


 真緒は自然な笑顔を浮かべて答えるのでそれは嘘ではないとわかるのだが、僕が心配性なのだろうか。いつも気にしては、自分に何ができるかの自問自答を相変わらず繰り返している。しかしいくら自問したところで答えなど何も出ず、ただ僕はいつものように真緒の隣や斜め後ろを歩いているだけだ。


「はい」


 一度歩を止めると真緒が手を差し出して来たのだが、これは繋ぐことを意味するもので、けど僕は意地悪にも差し出された方とは反対の真緒の手を取った。


「ちょっと、鞄肩に掛けてる側じゃ歩きにくいよ」


 そんな真緒の言葉を無視して僕は真緒を反対側に誘導し、改めてしっかりと真緒の手を握った。


「車道側じゃ危ないじゃん」

「へぇぇぇ。テルが女子を気遣うようなことを言うなんて。惚れ直したぞ」


 真緒が揶揄かうように僕の顔を覗いてくるものだから、僕は恥ずかしくなって前言が口を吐いたことに一抹の後悔の念を抱いた。その表情を隠そうと真緒の手を引いて歩き始めたのだが、歩きながらも真緒は僕の顔を覗くことを止めず、そんな風だから僕は真緒の足元まで気をつけて前を向いて歩いたのだ。


「はぁ……」

「ん? どうしたの?」

「何でもない」


 僕の溜息に真緒が反応したので僕は平静を装ったが、溜息の真意とは、病気の真緒に対して今歩いているように、僕が前を向いて真緒を導いていけたらと思ったのである。それなのに何もできていない自分がもどかしく、思わず溜息が出てしまったのだが、弱気になっては真緒に面目が立たない僕は、とにかく強がることしかできない。


「テル?」

「ん?」

「あまり気にしないでね。私は今凄く幸せだよ。テルがいてくれるから何でも頑張れる気がする。絶対治すから」


 真緒の方が強い。僕なんかよりもずっと。僕は見透かされていた自分の感情が情けないと思いつつも、それでも真緒がそう言ってくれるのならずっと傍にいるし、この手を離さないと強く思う。すると真緒が言葉を続けるのだ。


「ずっと一緒にいようね」

「うん」

「おじいちゃんとおばあちゃんになってもずっと仲良くしてね」

「うん。……ん? それって……」

「えへへ」


 ずっと……真緒の声でその言葉が僕の耳から、そして僕の脳裏からこの後しばらく離れなかった。はにかんだ様子の真緒を隣に感じながら、僕は真緒の言う「ずっと」を噛み締めていたのだ。


 ブレザーを着ていれば寒さは感じないこの季節だが、風はやや冷たく僕の手の甲を冷やす。しかし手のひらは真緒と体温を分け合っていて、人の温もりに酔いしれるように僕は真緒の感触を愛おしんだ。ずっと、ずっと、こんな時間が流れればいい。真緒が健康で僕の隣にいてくれるのなら僕は他に何も求めない。


――それなのに……


 ◇


 ビニールエプロンをスポンジで擦り、水で流すと僕は収納に仕舞った。すると脇で渚が宿泊用の寝袋を引っ張り出すのが見えた。


「何してんの?」


 デッキブラシを既に掃除道具入れに片付け終わっていた渚は手を止めず、寝袋を広げて甲板の上に敷いたのだが、渚が何も答えないので僕は続けて質問を投げ掛けた。


「何すんの?」

「お昼寝」

「は?」


 今にも鼻歌でも聞こえてきそうな渚の表情は軽やかで、広げられた寝袋は布団ほどの広さがあり、紺色のそれは操舵室の影に隠れて同化している。


「夕飯の買出しまでまだ時間あるしさ、今なら操舵室の影になって気持ちよさそうだから」


 説明をしてくれた渚の笑顔はとても眩しく、渚は長靴を脱ぐと早速広げた寝袋の上で横になった。


「はぁぁぁ、気持ち良い」


 簡易的なビニールの布団の上でゴロゴロと体を転がす渚だが、クッション素材とは言えそれは薄く、硬い甲板を床にして痛くはないのかと心配をしてしまう。それにも関わらず渚は言葉のとおり気持ちよさそうに目を細めていて、そののんびりとした空気が実に羨ましく感じた。そしてそんな僕の表情を読み取ってか渚は僕を見上げて言った。


「輝君も時間あるでしょ? 良かったらお隣どうぞ?」

「……あ、うん」


 少し戸惑いを覚えるお誘いであったが、僕はそのお誘いに乗り、長靴を脱いで渚の隣に体を倒した。船体で仰向けになると視界に広がる空には大きな入道雲が浮かんでいて、形は違えども青い海に浮かぶこの輝恵丸を連想させる。


「輝君の腕取ぉった~」


 渚が元気にそう発すると同時に僕の腕は一度持ち上げられ、僕の肩に渚の頭が滑り込んできた。身内に甘えるかのように擦り寄ってくる様は実に可愛らしいのだが、身内なのか所謂他人なのか僕の中で複雑な葛藤があったので、何とも言えない感情が渦巻く。


「枕がないのが残念だったんだよ。これで落ち着く」

「汗臭いぞ?」


 今の感情を悟られないように言った言葉ではあるが、それは誤魔化し以外の何物でもなく、なぜいつも僕は易々と渚をここまで受け入れてしまうのだろうと自己嫌悪に陥る。


「げ……。気になる?」

「渚じゃなくて僕の方」

「なら問題なし。私は大丈夫?」

「うん。気にしない」

「何それ? 気にはしないけど、つまり臭ってはいるってこと?」


 それには何も答えず僕はクスクスと笑い、少しだけ肘を曲げて渚の肩に手を沿わせた。それが心地よかったのか、渚は大人しくなり、程なくして僕の肩の上で寝息を立て始めた。

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