第19話

 朝食を終えて、じいちゃんの下げ膳も終えると僕は庭へ出て、畑の水撒きを始めた。入島して二週間余りで雨が降ったのは一日ほどで、しっかり水を撒かなくてはせっかくの野菜が育たない。そんな気持ちを持って水を撒いていると野菜にも幾分の愛着が湧いてくる。


「よいしょっと」


 すると渚が縁側から洗濯籠を抱えて下りてきて、突っかけサンダルを鳴らしながら犬走りの物干し竿の前に立った。後頭部で髪を束ねている渚は朝食の時と装いが変わっており、強い日差しの下にして涼しげにも見える。また、ショートパンツにノースリーブのシャツという格好がその納涼感を助長する。

 かく言う僕もハーフパンツとTシャツにサンダルだから、風が吹けば肌に心地よく、涼しげな格好だと言える。弱く吹く風は潮の香りを運んでくれるが、数時間後にはカラッと乾くのであろう洗濯物はその乾き方ゆえに塩分を含ませない。


 先ほどの朝食の席での会話は僕の脳裏にまだ残っているが、渚は動揺した様子を見せず、鼻歌交じりに洗濯物を広げては干している。そんな渚を横目に確認しながらも僕はアクアガンの先から噴出されるシャワーに目を向けていた。


 程なくして満遍なく畑に水が撒けたかと思うと僕は蛇口の水を止め、畑の中に足を踏み入れた。ローラー式に野菜を見て回り、しっかり水が撒かれているかを確認するのだが、野菜から滴る水滴は日光を反射させ、小さなガラス玉のように見える。


「日焼け大分落ち着いたんじゃない?」


 渚の声に振り返ると渚が物干し竿の下で僕を見ていたのだが、その手に持つ洗濯物が目のやり場に困る。今は一緒に生活しているのだからこれにも慣れないといけないとはわかりつつも、更に言うと自宅に戻れば年頃の妹だっているのだから免疫があるはずだとわかりつつも、なかなか慣れないのはやはりどこか意識してしまっているからだろう。


「そうかな?」

「しっかり色が付いた感じ」


 日焼けは日に日に増している自覚があったので、渚の言葉が意外だと思っていたのだが、どうやら僕はその意図をはき違えていたようで、やはりしっかり日焼けはしているようだ。


「渚の方は大分色が落ちてきたね」

「本当? 輝君が外の仕事やってくれるおかげだね。嬉しい」


 言葉の通り嬉しそうな笑みを浮かべた渚は日に照らされ、その表情はとても眩しくずっと見ていたいとさえ思う。


 ◇


 真緒の病気の告白を聞いて、僕は何ができるのだろうと四六時中考えるようになった。現時点では良性で、日常生活にそれほど影響はない。もちろん治ることを切に願っていて、そのために何ができるかの考察の日々であるし、それに向かって真緒自身必死で病気と戦っている。

 しかし万が一悪性に変わったらと思うと不安に押し潰されそうになるが、それは真緒の方が大きいことは理解しているし、僕が弱気になるわけにはいかないと自分に言い聞かせる。


「今年の夏は一緒に花火を見に行きたい」

「うん。一緒に行こう」


 高校二年の夏休み前にはそんな話をして、実際に夏休み入れば一緒に花火を見に行った。真緒は浴衣姿で、元々歩調の遅い真緒がいつもにも増して歩幅が小さかったから、真緒の手を引く僕は、ゆっくり、ゆっくりと、人で混雑する通りを抜け真緒をエスコートした。


 淳の父方の実家から流れてくる街の川の河川敷で打ち上げられる花火を、真緒と一緒に土手の堤防に座って眺めた。

 僕は鳩尾を揺らす轟音を轟かせた花火よりも真緒の方が綺麗だと思っていたのだが、やはりこれは惚気だろうか、花火に照らされ髪を結った真緒の横顔を見ていた時間の方が長かったように思う。


「また見てる」


 僕の視線は当然ながら真緒に気づかれていて、しかしそれを指摘する真緒はどこか嬉しそうで、その先を言ってくれと言わんばかりの魅惑的な目を僕に向ける。けどそんなことがすぐに口を吐くほど僕の口は達者ではなく真緒に催促されてしまう。


「なんでそんなにジッと私の顔を見るの?」


 小首を傾げて問い掛ける真緒のその表情はより魅惑的になり悪戯に笑っており、僕の心がふわっとどこかに飛んで行ってしまったような感覚に陥る。真緒の願いはできる限り何でも実行してあげたいと思うようになったことと、そんな真緒に魅せられたことから、僕は勇気を出して目を泳がせながらも思いを口にした。


「浴衣似合ってる。髪型も可愛い」

「えへへ。嬉しい」


 はにかむように笑うと真緒が僕の肩に擦り寄ってきて頭を預けるものだから、僕はいつまでもこの幸せな時間が続けばいいなと、心から願った。


 ◇


 渚が手に持っていた洗濯物を干すと、籠にはまだ洗濯物が残っているにも関わらず物干し場脇の散水栓に移動した。そして蛇口を捻ると悪戯な笑みを満面に浮かべて僕が放ったアクアガンを手に持った。


「うわっ! 冷てっ!」


 なんと渚は事もあろうに畑にいた僕に向かってアクアガンからシャワーを発射させたのだ。僕は避けようにも左右に足を動かしては作物を踏んでしまう恐れがあるため、屈むだけが精一杯で渚にさせるがままであった。


「あはは。私のブラ、ガン見した罰」


 実に楽しそうに水を向ける渚だが、そんな恨み言を言われてもこの生活ではどうしようもなく、僕はとにかく渚の悪戯の手を止めさせようと躍起になり動いた。

 僕は足場を通って畑を出ようとしたのだが、それはシャワーの方向に向かうことを意味し、手を止めない渚の正面からの水を存分に浴びた。


「おい、こら」

「あはは。――きゃっ」


 手を顔の前で交差させながら、やっとの思いで犬走りまで到達した僕は渚の手首を掴むと、アクアガンを握っていた渚の手が開かれ水が止まった。するとその瞬間に渚が空いた方の手を僕の背中に回し正面から体を密着させた。


「私にも分けて」


 びしょびしょに濡れた僕の体から水分を吸収するかの如く渚が抱きついてくるので、僕の頭は真っ白になった。それでもこれを本能と言うのだろうか、僕は渚を抱きしめた。渚の体の柔らかさを正面で、更にすっぽり腕に収まる体を腕の中で感じた。それに呼応するように渚は地面にアクアガンを落としその手も僕の背中に回した。


 渚は僕が浴びてしまった水を納涼の目的で分けて欲しいと言ったのだろうか。いや、そんなことはない。わかっている。渚が何を分けて欲しいと思っているのかを。

 けど僕の心はまだ整理できるほどの域に達しておらず、戸惑うばかりで、なぜ今こうして渚を受け止めてしまったのか自己嫌悪に陥る。渚の頭から漂う髪の香りを鼻に感じながら僕は必死で自問自答をした。


『おう、仲いいな』


 その言葉にはっとなり僕と渚は咄嗟に離れた。声の方向を振り向くとそこには縁側にじいちゃんが立っており、手に持つ杖からトイレに立ったのだろうとわかる。どうやら縁側まで来て庭の様子を見に来たようで、それは見られては恥ずかしい場面を見られてことで僕と渚は俯いて頬を紅潮させてしまった。


「じいちゃん、そんな長い時間立ってて大丈夫なのかよ?」


 僕は恥ずかしさを紛らわすように若干拗ねたような目を向け、じいちゃんを案じた台詞を口にしたのだが、渚の方はまだ顔が上げられないようで、それどころか体も縁側に向けていない。


『大分良くなってきたわ。今月中には漁に復帰するぞ』

「無理しないでよ。今日にでもまた、甲板の掃除しておくよ」

『あぁ、頼むわ』


 満足げな笑みを浮かべてじいちゃんは縁側の上手に身を隠した。まだ心臓は落ち着かないものの、過剰な冷やかしを受けなかったことに胸を撫で下ろしたので僕は渚に目を向ける。


「ごめん。調子に乗っちゃって」


 俯いたまま恐縮そうに渚が言うものだから、僕は渚に頭に手をやり「気にするな」と一声掛けた。ポニーテールは僕好みの髪型ではあるのだが、その手が受ける感触は渚の指通りのいい髪を楽しませてはくれず、少しばかりの残念な気持ちを抱く。


「船の掃除行くなら私も一緒に行きたい」

「うん。じゃぁ、暑いけど午後から行こうか?」

「うん」


 ここでやっと渚は顔を上げ、声を弾ませたので、思わず僕の頬も綻ぶ。この日の午後の予定はこうして決まった。

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