第三章

第18話

 この地域では慌ただしく盛り上がるお盆を過ぎ、我が家にも日常が戻って来た。尤も、我が家と言っても一カ月の期間限定であり、じいちゃんと僕と渚の三人が生活する家であるのだが。墓での僕の行動もあれ以上渚に深く問い詰められることはなく、僕は安堵している。


「輝君ってさぁ」


 いつもの朝食の席で渚が咎めるような声を出すのだが、これももう慣れたもので、そして何より僕には咎められる心当たりがある。

 それは高校生の時、僕の隣にいつもいたあの子からよく指摘されたことで、僕にとってもう無自覚の癖ではなく自覚の域に達していた。だから指摘されるのは恥ずかしさが何とも辛く、できることなら流してほしいと願う。


「よく私の顔ガン見してるよね?」


 僕の不安は見事に的中していて、なるべく気づかれないようにいつも見てきたつもりであるのだが、どうやらそれは無駄な抵抗であったようで、しっかり渚には気づかれていたようだ。


「私の顔に何か付いてる?」

「いや、何も……」


 僕は慌ててご飯をかき込む。渚の料理の腕前は二週間以上経って食べ慣れた今でも感服させられ、白い米に至っても脇にあるおかずがその価値を底上げしてくれる。渚が正面にいることで、その味を噛みしめながら回想される青春時代の思い出が、甘く、酸っぱく、そして苦く、僕の口の中に広がる。


 何かと重なる渚とあの子。顔が直接似ているわけではない。二人とも細身ではあるもののスタイルも違う。それでも咎める時、褒める時などの所々の言動であるとか、膨れた時の表情、「えへへ」という笑い方、いつもは流している渚の前髪が真っ直ぐに下りている時の目元、これらが僕を動揺させる。

 正に今、前髪は真っ直ぐに下りていて僕が渚を凝視していた理由はそこにあるし、そして何より、出会ってすぐには打ち解けることが難しい僕の懐にこれほど深く入って来たこと、これが一番似つかわしく、本人の個性なので誰に対してもそうなのだろうという懸念があるものの、やはりどこか魅かれるものがある。

 そして魅かれるほどに何かを期待している自分が滑稽で、そうかと言って期待通りに事が進んだとしても僕に何ができるだろうかと自分の無力さに落胆する。心の重りが未だに取り外せない僕は、まだ前に進む勇気を持ち合わせていない。


 ◇


 自宅マンションの僕の部屋で床に敷いたクッションに腰を下ろすのは真緒で、学校の制服姿なのだが、この日は早退したはずである。時間は既に十九時半で、僕はもう夕食を済ませていて、それは真緒もどうやら同じで、うちに来るなり真っ先に僕の母親が確認していた。

 制服姿の真緒はどこかに行っていたのだろうか、帰っていないのだろうか、もし一度帰っていたとしても着替えるほどの余裕はなかったのだろうか、そんなことが読み取れる。


 もちろん真緒がここにいる理由は学校にいる時に送ってくれたメッセージの内容で、僕は緊張が隠せず、真緒からもその様子が見て取れる。ただ真緒は体調そのものが悪いようには見えず、それには安心するとともに、ではなぜ学校を早退したのかという疑問がより強くなる。


「あのね」

「うん……」


 真緒が俯き加減に切り出した。この時僕の部屋には二人の声以外音を発するものはないのだが、リビングから両親と妹の談笑の声は聞こえてくる。会話の内容まではわからないものの、それはマンションの前を走る幹線道路から轟く車の通過音に混じっていた。それでもそれらの音は微々たるもので、僕はしっかりと真緒の声に耳を傾けた。


「今まで黙っててごめん……」

「え……」


 ゾクッとした何かが僕の体中を駆け巡り、この先を聞きたくないという衝動に駆られるのだが、それでも聞かなければならないという使命感が勝り、真緒から目と耳が離せないでいた。


「私、病気なの」

「え……」


 今度は僕の体中を絶望が襲った。聞き間違いだろうか? 聞き間違いであってほしい。けど僕の聴覚と脳はそんな願望を許さず、現実を突き付けるかのように頭の中で真緒の言葉を反復させる。


――私、病気なの――


 どんな病気なのか? それは僕が聞いてわかるものなのか? 程度は? 治る見込みは? 真緒に対する質問が次々と頭に流れ込んでくるのだが、僕はそれをうまく口にするができず、真緒の方が先を繋いだ。


「テルとお付き合いしたかったのは私の我儘なの。これほどまでに大好きな人と一度でいいから恋人関係になりたくて。テルの気持ちにも気付いてた。本当はダメだとわかってた。テルを傷つけちゃ――」

「ちょっと待って!」


 一気に話を進めようとする真緒の言葉を僕は遮った。強めの口調で言ったのだが真緒はそれに動じた様子も見せず、終始俯いたままだ。僕はまだ頭を整理できないでいるのだが、それでもまず最初に確認しなくてはいけないことがあるとわかり、やっと声が出たのだ。


「なんで最後の思い出みたいな言い方をするの?」


 恐る恐るであった。これを聞くことは良くない現実を突き付けられるのではと怖かったから。それでも他に何と質問のしようがあるだろうか。

 真緒は柔らかい表情をしているが、その瞳の奥がとても寂しそうで僕の胸を締め付ける。苦しくて、苦しくて、逃げ出したくなるのだけど、それでも聞かなければならない使命感は去ってくれず、僕はその悲しそうな真緒の瞳から目が離せない。


「今は良性だよ。それを治すために治療をしてるし、通院もしてる。けどいつ悪性に変わるかわからないの。ずっと隠してきて本当にごめん。今日の早退がテルにバレてもう隠せないなって思った。いつかはバレるってわかってるのにバカだよね、私」


 容量を完全に超えてしまって固まっている僕の頭の中で真緒の言葉が響くのだが、言葉の意味を理解すればするほど拒否反応が強く、重い何かが僕に覆いかぶさる。


――今は良性……。つまり悪性に変わった場合の意味するところとは……?


「早退してる理由は時々体調が悪くなることがあるのと、経緯観察の通院なんだけど、今日は通院だったの」


 僕に今まで全く気付かせなかった真緒は一体どんな思いだったのだろう。胸の内にある苦しい真緒の思いを計り知ることができず、そんな自分が情けなく、僕は自分を責めることしかできなかった。


「僕が付いてるから」

「え……」


 これは考えもなしに出た言葉ではあったものの、いつになっても、この先どれだけ歳を取っても、ずっと誇れる言葉だ。絶望の中にいた僕から自然と出た本心であり、真緒を絶対に離さないという約束を守る言葉である。それにまだ悪性ではない。治る希望だってあるのだから真緒は治療をしているわけで、僕は真緒を支えていくと決心した。

 真緒はこの後僕の腕の中で泣いた。滅多に泣き顔や弱さを見せない真緒が声を出して泣いたのだ。不安だったのだろう。当たり前だ。病気にも、僕が離れていくことにも。信用されていないのかと野暮なことは考えない。これが初めて見せる真緒の弱さだったのだから。真緒は今までずっと怯えていたのだ。


 ◇


 夏にしては過ごしやすい気候の島ではあるが、やはり北側に位置する台所だけはどこか湿っとした空気を感じる。ただ渚とこの食卓を一緒に挟むことはもう慣れた事でもあり、そして自然な事にもなっていた。そんな食卓で渚が突然ドキッとする言葉を発した。


「輝君が言ってた大事な人ってもしかして恋人?」

「え?」


 渚が突然そんなことを聞くものだから僕の箸と咀嚼は止まり、渚を見つめた。渚は俯き加減で朝食を進めており、しかしその手はゆっくりと動いているからあまり食事が進むような心境を覗かせない。


「別に嫌な気はしてないの」

「何が?」

「ガン見されること」


 一気に脈が早くなる。期待をするなと言い聞かす。僕が期待をしたところで何も意味はなく、それはもし期待通りだったとしても何も返してあげることができず、今までと同じように迷走し、ただ戸惑うだけだ。


「けどね、時々その目が凄く寂しそうなの」


 渚のその言葉に僕は返す言葉が見つからず、視線を落としてしまった。そう言う渚も心なしか寂しそうな目をしており、視線は落ちたままである。そしてその表情は決定的だと僕に思わせる。


「ごめん。暗い話をしちゃって。私なんかおかしいや。憶測で何を言ってんだろうね。さ、食べよう?」


 無理に作った渚の笑顔が僕の心に痛く刺さり居た堪れなくなる。何故そんなに無理をした笑顔を僕に向けるのか、渚にとってそれだけ気に掛けるほどの価値が僕のどこにあるのか。

 自惚れとか自意識とかはどうでもよく、この年二十二歳にもなればそこまで無頓着でも鈍感でもないと自認する僕は、今はまだ整理できていない心の中を落ち着けることに終始し、卑怯にも渚から感じる想いから目を逸らした。

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