第17話

 脳が浮遊感を抱くような酔いが回り、しかし意識はなんとか保っている状態で僕は渚と並んで玄関まで良平を見送りに立った。鍵を掛けず網戸だけにしている玄関の引き戸からは鈴虫の声が入ってきて、カラッとした気候のこの地域ではストレスになるような蒸し暑さを感じない。


「酒と魚ありがとな」

「ううん。今度東京にも遊びに来いよ」

「うん」


 良平が床から段差のある玄関で靴を履き終わると僕と渚に振り向いたので、そのタイミングを見計らって渚が良平に謝意を伝えた。


「良平さん、本当にありがとう」

「いえいえ。……って言うか、2人ともそうして並ぶとお似合いだな。夫婦みたいだぞ」


 まったく良平は何のことを言っているのだろうか……とは心の中での反論であり、精一杯の抵抗だ。僕は耳まで熱くなるのがわかり、それを抑える術を知らない自分が何とも恨めしい。しかし良平はその様子を見て楽しんでいるようで、所々意地の悪い性格は弘志に似ているなと思わせる。


「2人して真っ赤にして。わかりやすいな」


 僕は良平のその言葉にはっとして渚を見たのだが、確かに渚も心なしか顔を赤くしていて、そして俯いている。そう言われてみて気づくのだが、良平の茶化した言葉に渚が何も言葉を返さなかったのだから、それに異変を感じなかった僕はあまり周りが見えていないようだ。


「じゃぁ、お幸せに」

「おやすみなさい」


 良平が後ろ手に手を振って最後まで茶化した台詞を吐いたのだが、それに渚が慌てたように見送りの言葉を投げ掛ける。僕はまだ恥ずかしさが拭えず何も言えなかったのだから、四歳年下の渚のメンタルをもう少し見習わなければならないようだ。


「さ、片付けしようっと」


 良平を見送るなりすぐ踵を返してスリッパを鳴らした渚だが、今はどのような心境なのだろうか。顔を赤くして俯いていた意味は何なのだろうか。興味もない相手と並んで茶化されて単純に困った意味での照れなのか、それとも……。

 そんな思考に戸惑うのは僕自信の心の方で、照れを見せた渚に何を期待しているのだろうか。しかし思い留まらせるのは過去の思い出であり、つまり僕の心にある深い傷はまだ癒えていない。


 ◇


 体育の授業中に見せてくれた真緒の笑顔が脳裏から離れず、僕はこの日普段はあまりしない行動に出た。昼休みの食後であったのだが、普段は僕も真緒もクラスで過ごすのに、この日は真緒と何でもいいから話がしたい一心で真緒のクラスに出向いた。


 この時間帯の校舎内は喧騒に満ちていて、気の緩んだ生徒達の雑談が教室内や廊下など至る所から聞こえてくる。一年生の時はまだ友達も多くはなくこの時期はまだよっぽど静かであったが、二年生の教室群はそんなこととは無縁でそれなりに賑やかである。

 廊下から真緒のクラスを覗いてみると、新クラスで真緒と親しくしているグループを発見したのだが、そこに真緒はいなかった。僕は教室にいないのだろうかと思いつつも、もう一回ぐるっと室内を見渡そうとしたその時だった。


「何やってんだ? 真緒か?」


 僕は背後からの声にはっとなって振り返った。そこには廊下に立つ淳がいたのだが、今までどこかに出ていてクラスまで戻って来たようだ。脇に立っている男子生徒が一人いるが、彼は淳と一緒に今まで行動をしていたのだろう。体育の授業で冷やかされた苦い記憶から敏感になっていたようだが、相手が淳ならと安堵し僕は素直に目的を認めた。


「まぁ、そんな感じ」

「真緒なら三限目が終わって早退したぞ」

「え?」


 淳から告げられた事実はあまりにも意外で、まったく何も知らずに四限目の授業と昼食を越した自分が何とも滑稽に感じられた。


「聞いてなかったのか?」

「何も……」

「別に珍しいことじゃないだろ。一年の途中からたまにあったし」


 会話に入ってきたのは淳の脇にいた男子生徒で、一年生の時も真緒と同じクラスだったことは知っている。

 その割って入った言葉に、拍子抜け、不安、何も知らせてもらえなかったことへの不満、色々な感情が僕の腹の内で渦巻いた。なぜ早退という事実は僕に告げてくれなかったのか。更にはそんなことが一年生の時から続いていたことさえも僕は知らなかった。


「早退の理由は?」

「体調不良じゃねぇの?」


 これも淳の脇にいる男子生徒が答えてくれたのだが、今まで真緒から体調不良で学校を早退したなどということを聞いたことがない。ただの一過性の風邪ならここまで気にすることもないのだが、一年生の時からたまにあるということが引っ掛かり、それを知らなかった自分が惨めだ。


「淳も何か聞いてないのか?」

「さぁ? 気づいたら荷物まとめて出てっちゃったから」


 結局目ぼしい情報を得ることができず、僕が落胆したことは言うまでもなく、胸に残るのは胸騒ぎと気持ちの悪いしこりだ。今まで元気で明るい笑顔を見せてくれていた真緒が、僕に何の連絡をくれることもなく早退したことに軽い理由はないと直感していた。

 今まで真緒とは登下校こそ頻繁に一緒にしていたが、校舎内ではお互いにクラスの生徒との時間を優先する意思からあまり会うことはなかった。僕は肩を落として教室に戻ることにしたのだが、たまたまのこの日の行動が僕の知らない真緒の一面を知らされ、それこそがこの落胆に繋がっている。


 しかし一人で考えてもどうにもならないのは明白で、僕は自分のクラスに戻るとすぐさまスマートフォンを取り出し真緒にメッセージを送った。もちろん内容は、早退したことを知って、身を案じているという内容だが、一年生の時からそれがたまにあったことはこの時はまだ触れないでおこうと思った。


 午後の授業中はずっと真緒のことが頭から離れず、授業の内容など意識の中に入ってくるはずもなく、真緒からの返事を待ち続けるだけだった。

 そしてやっと真緒からのメッセージでスマートフォンが通知を告げたのは終礼直後で、その内容を見て僕に緊張が走った。これまた直感ではあるが、軽い内容ではないとすぐに悟った。


――今日の夜、テルの部屋に行くね。話さなきゃいけないことがある――


 ◇


「片付け手伝うよ」

「あ、うん。じゃぁ、食器を台所に持って来てくれたら後は私がやるから」


 それだけ言うと渚は居間から台所に身を寄せた。その時の渚の様子がどことなくぎこちなく、目を合わせてくれなかったものだから、まださきほどの良平の茶化しを引きずっているのだと僕は予想する。いつもは食器洗いくらい一緒にやるのに、食器運びしか指示をしなかったことも根拠になる。

 結局なんとなく気まずいまま時間は過ぎ、僕も渚もこの日の家事を全て終わらせて風呂も済ませて居間で寛いでいた。気まずいとは思いつつもスマートフォンでゲームをして何とか気を紛らわそうとしていた僕に渚が話し掛けてきた。


「あのさ、お墓でのことなんだけどさ……」


 言いにくそうに切り出した渚だが、言いにくいことは納得のことで、僕自身、今日ないし遅くとも明日には聞かれるのであろうと覚悟はできていた。とは言っても、少し脳の浮遊感が抜けず、今は何でも話してしまいそうなのが恐ろしく、明日になって酔いが醒めれば話し過ぎて後悔にするのではと警戒してしまう。


「何やってたの?」

「供養かな……」


 僕は何とか頭の冷静さを呼び込むように短く答えたのだが、酔いとは集中力を乱し、渚の表情や、果ては外から聞こえてくる鈴虫の鳴き声や、縁側を抜けてくるじいちゃんの鼾にも意識が向いてしまう。


「誰の?」

「僕の大事な人」

「お墓の裏って、のう……」

「うん。納骨場」


 渚が言いづらそうにするので僕が言葉を繋いだのだが、これは単純に渚の口から出す単語にしては酷だと思っただけのことであり、そもそも僕に原因があるのだから優しさでもなんでもない。


「遺骨を入れてたの?」

「違うよ」

「そっか。わかった」

「え?」

「今日はもうこれ以上は聞かない」


 僕は呆気に取られてしまった。どこまで話すことになるのか、手探りだったのだから。そんな僕の様子を寂し気な目で一瞥すると渚は立ち上がり、今度は笑顔を向けて「おやすみ」と言って居間を出て行った。

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