第12話
浮き輪を脇で抱えるように海に浮かぶ渚から僕は目を離さず、肩ほどの深さがある水場で渚の浮き輪の紐をしっかり握っている。渚は近い方の手で僕の手首を握るものだから、足が届かないのであろうこの水深に一抹の不安を抱いていることと思う。
「気持ちいい」
それでも空を見上げてこんなことを言う渚は、鎖骨の前に下ろした両側のおさげを海水で濡らしていて、そこを滴る潮水が眩い光沢を発する。
僕は渚が視線を上に向けたタイミングで浮き輪に囲われた渚の胸や、透き通る海水から覗く渚の括れた腰を見るのだが、見惚れて油断していた時に視線を僕に向けた渚がそれを許してくれるわけもなく、この海のように冷ややかな視線を投げ掛ける。
「エッチ」
「違っ! 性的な意味じゃなくて、綺麗だなと思って」
言い訳以外の何物でもないのだが、僕は自分に言い聞かせるように強く言った。すると渚の表情が幾分穏やかになり満足そうではあるのだが、次に意地悪な質問を向けるのが彼女なのである。
「ほう。何が?」
「……」
「もう一声」
何も答えられずにいるとそんなその先の期待を込めたようなことを言うものだから、僕は天を仰いだ。入道雲が浮かぶ空は綺麗な水色をしていて、自分の前髪から垂れる海水の雫が眼前でチカチカする。
「海と空が。……うっ!」
海面の下で僕は鳩尾を蹴られてしまい、腰がくノ字に折れた反動でバランスを崩し、海の中に潜ってしまった。もちろん浮き輪からも手を離してしまい、その時に僕の手首を掴んでいたはずの渚の手も離れた。
「ぷはっ」
海中でスクワットをするように海面に再び顔を出した僕は、とにかく酸素を求めた。油断をしていると肺に留めてある酸素は微々たるもので、一瞬でも水中に潜れば苦しいことは当たり前だ。頭に浴びた海水が顔中を垂れていくのも気にせず僕は渚に言った。
「手、離しちゃったじゃん。その間に流されてたらどうすんの?」
「知らない」
浮き輪から手を離したことで渚を心配したようなことを言っているのだが、これは精一杯の抵抗であり、この一瞬の時間でそれほどの危険が及ぶわけもなく、それを察している渚はそっぽを向いてしまった。
◇
淳の祖父母宅で水着のトランクスに着替えた男子三人。涼しい気候ではあるものの夏に変わりはなく、大自然の晴れた空の下肌を晒すのは何とも言えない高揚感が沸いてくる。バーベキューテントに戻ってくると真緒がすかさず僕に寄ってきた。
「テル、私環菜と着替えてくるからこれお願い」
そう言って真緒から渡されたのは畳まれた浮き輪と空気入れで、膨らましておくようにと仰せつかったことがわかる。真緒はあまり泳ぎが得意ではなく、小中学校の時の水泳の授業では十数メートルが限界だった。高校の水泳の授業は選択制なのが幸いで、真緒は真っ先に水泳を選択から消去した。
僕は浮き輪に空気を入れるとそれを持って弘志と淳と一緒に広場を下り、川原に足を踏み入れた。足の裏から薄いビーチサンダル越しにごつごつした小石の感触が伝わってきて、足つぼを絶妙に刺激される。
「冷てっ!」
淳の張り上げた声が耳に届いたのでその方向を見てみると、淳が既に足首まで川に入っていた。広場から下りた位置にあるこの川原は緩やかなカーブになっていて、流れが静かで尖った石もない。水深も深くなく遊びやすそうな場所である。
ただしかし、対岸に目をやると山肌が削られたようになっていて、川の流れは少し速く砂が巻き上げられており、透明感があまり感じられない。どうやら水深も深そうである。
「うおっ!」
淳に倣って弘志もすかさず川に足を踏み入れ、その水の冷たさに驚いた声を上げた。僕もこの後すぐ川に入ったのだが、実際に水は冷たく足首だけなのに頭の天辺まで鳥肌が抜けたような感覚に陥った。
しばらく男子三人で冷たい川の水を掛け合ったりして遊んでいると、水着姿の女子二人が広場から石段を下りてきた。
真緒はスカートタイプのピンクのタンキニで髪を耳の下で二つに結んでいる。環菜はホルダーネックタイプの黒の水着でショートパンツを穿いている。いつものとおり髪型はポニーテールだ。僕は自分の彼女である真緒の露出が少ないことに安堵と落胆が入り混じった何とも言えない複雑な感情を抱いた。
「テル、ありがとう」
真緒は川原に置いてあった浮き輪を拾い上げると、環菜に付いて僕達男子がいる固まりに寄ってきたのだが、その瞬間、環菜と二人して悲鳴に近い声を上げた。
「きゃっ!」
「冷たっ!」
そこにすかさず水を掛けるのは弘志なのだが、環菜がお返しとばかりに大量の水を掛けるどころか、終には弘志を転ばせ、弘志は冷たい川の中に全身浸かってしまった。起き上がるなりぶるぶる震える弘志がなんとも貧相でおかしかった。
とは言ってもしばらく遊んでいると水の冷たさには慣れるもので、弘志、淳、環菜は対岸の方まで泳いで遊ぶものだから現金である。僕は浮き輪に腰を納めて座る真緒から離れず、流されないように浮き輪をしっかりと掴んでいた。
「冷たくて気持ちいいね」
「うん」
僕は腰ほどまで川に浸かっているのだが、真緒は腰と投げ出した足首と浮き輪の脇から下に伸ばす手だけしか水に浸けていない。水着の下から伸びる真緒の脚は細く、そして浮き輪に囲われた腰も細い。更に控えめな胸が真緒の華奢さを思わせるが、僕にとってはそれすらも愛おしい。
「どこ見てんの?」
真緒が冷たい視線を向けるので、僕は自分の視線を見抜かれたことに気づき慌てて目を逸らしたのだが、何とも罰が悪い。次に視界に捉えたのは真緒の手であるが、ちゃぱちゃぱと手で川の水を遊ぶその様は存分に納涼感を与えてくれる。
「いつまでもこうして五人で遊べたらいいね」
真緒が対岸の方で泳いでいる三人を見ながら言うので、僕は「だね」と同調したのだが、その時真緒は目を細めていて、どこか儚げに感じた。それでも今が楽しいという気持ちも読み取れたので、僕は真緒の視線に倣って三人に目を向けたのだ。
こうして高校一年の夏は終わりを向かえ、部活だけではない授業のある学校に戻っていった。
◇
「渚、そろそろ日も暮れそうだし上がろうか?」
「そうだね」
周囲の海水浴客は随分減っていて、夕方と言うにはまだ少し早い時間であるものの、時刻を確認できるものもないので僕達は海から上がることにした。
僕はしっかり渚の浮き輪の紐を握り、砂浜に向かって歩いて行くのだが、浮力によるものか渚が軽いと感じる。胸はあるものの、どちらかと言うと華奢な体系を思わせる渚は実際に軽い。
膝下ほどの水深の場所まで辿りつくと渚が屈んでいるように見えたので、僕は両手で渚の手を引き渚を起こした。渚が「よっ」と軽やかな声を出して立ち上がると、僕に向いて言葉を繋いだ。
「いかがでしたか? 水着JKとの海水浴デートは?」
「軽トラじゃなきゃ文句なしなんだけどな」
「あはは。確かに」
僕は浮き輪を拾い上げると歩を進め水際から出たのだが、その時に渚が隣に並んだかと思うと僕の手首を握ってきた。
「ごめん。浮遊感が抜けなくて。えへへ」
手首を握られた感触に一瞬脈打ったのだが、渚の説明で納得してしまい何だかもの寂しい気持ちにもなった。どうやら渚は足元がおぼつかないようなのだが、誤魔化すように笑った渚がはにかんでいたようにも感じた。
しかし僕の思い過ごし、いや、むしろ勘違いだとでも言っていいだろう。これほど可愛い女の子に何を期待しているのかと、自分が情けなくなってしまった。
それにやはり渚と一緒にいて時々感じる胸のざわつきには戸惑いを覚えるわけで、これほど容姿の整った子が自分の人生で二度も淡い時間を与えてくれるなんてありえないと自分に言い聞かす。
更に言うと、血縁はなくても強い縁のある家庭の娘である。じいちゃんは何かしらの期待を持っているようだが、やはり自分から事を起こそうなんて考えができない。そもそもそんなことができるほどの甲斐性が僕にはないのだ。
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