第二章

第10話

 入島して一週間ほど、雨が降る気配はないが厚い雲に覆われているこの日、長靴にハーツパンツとTシャツ姿の僕と渚は一隻の小さな漁船にやって来た。船舶名称は『輝恵丸きけいまる』なのだが、これは僕と僕の妹、めぐみから一文字ずつ取って名付けられた。

 そもそも僕と恵の名付け親はじいちゃんであり、つまりこの船はじいちゃんが所有する漁船で、恵が生まれてすぐの頃に買ったものである。


 空を覆った雲に海面の潮風は肌に心地よく、晴れた日ながらも幾分過ごしやすさを感じさせる。僕と渚がじいちゃんの船まで来た目的は、腰を痛めたじいちゃんに代わっての船掃除である。ただ僕たちは船舶免許など持っていないし、機器などには注意した上でできるだけの場所を掃除すると言った感じだ。

 僕は幼少期に一度だけこの船に乗せてもらったことがある。僕はその時の記憶を引きずり出し、ビットと輝恵丸を繋ぐ太く頑丈なロープを握ると、力いっぱい引き込んだ。ゆっくりと輝恵丸が陸に寄ってきて、コンクリートの海側の側面に垂直に取り付けられた古タイヤにぶつかった。


「よっ」


 僕は船の手すりを掴むと船首に取り付けられた足場に軽くジャンプして飛び乗った。揺れる船体では足元にしっかり気を持たなければ転んでしまいそうである。万が一落ちたらとも思うが、この漁港は幼少期に僕が遊泳をしていた場所なのであまり恐怖心はない。とは言っても、現在は遊泳禁止になっている。

 僕はそのまま操舵室に歩を進めようとしたのだが、背後からの声にその歩を止めた。


「ちょっと」


 そろそろ聞き慣れた渚の不満げな声。これは僕が何か気の利かないことをした時のことだと容易に想像ができる。僕は何をしたのか、いや、何をしなかったのかに頭を巡らせながら渚を向いた。


「一人で乗れないよ」


 渚はふんだんに膨れた表情をしていて、その言葉と表情で僕はやっと自分の気の利かなさに気付くのだから情けない。僕は自分でもわかるほどの苦い顔をして船首の足場に戻った。


「ごめん、ごめん」


 そう言って僕は左手で手すりを掴み渚に右手を差し出した。渚は表情を穏やかなものに戻してくれて左手で僕とは反対側の手すりを掴むと、右手で僕の手を取った。渚がしっかり握ったことを確認すると僕はグッと渚を引き込んだ。


「きゃっ」


 渚が小さく悲鳴を上げる。思ったよりも渚は軽かった。力加減を誤って勢いよく渚を引き込んだので、渚が僕に抱き付くように掴み掛ってきたのだ。しかしここは揺れる船上であるし、それでバランスを崩した僕は渚の腰にしっかり腕を回し背中から甲板に勢いよく倒れた。


「大丈夫?」


 背中に鈍い痛みは感じたものの、大したことはないとすぐにわかり、ギュッと瞑っていた目を開けた。すると僕の顔の両側で手を突っ張り、渚が心配そうに僕を覗き込んでいた。


「うん。大丈夫」

「ぷっ。あは、あはは」

「あははは」


 僕の言葉を聞いて渚が声を出して笑い出すものだから、それにつられてしまって僕も声を出して笑ってしまった。揺れる船体で雲に覆われた空の拡散日光を浴びて、二人は身体を倒したまま向かい合って笑ったのだ。


 ◇


 高校一年の夏休みも終盤。この年の僕達五人の団体行楽先は淳の父方の実家だった。ちょうど淳の父親が実家に帰るタイミングで、ミニバンに便乗させてもらったのである。

 良く晴れたこの日、僕たちが住む地域から更に内陸の方へ進んで行き、県境を超え、村をいくつか抜けて二時間以上かけて辿り着いた淳の祖父母宅の村。その淳の祖父母宅で車から降りて驚いたのが、日差しは強いものの蒸し暑さを感じさせない涼しさだった。

 周囲を山々に囲まれたその家は裏手には川が流れていて、家の畑と挟まれた場所に広場がある。今回の目的はここでバーベキューと川での水遊びだ。


「この川、俺達の街を流れてる川の源流なんだよ」


 荷物を下ろしながら淳の説明に「へー」と他の四人が頷く。広場から十数メートルほど離れた場所にある川の水面は透き通っていて、浅い川底の石がしっかりと確認できる。ここの水が僕たちの街を縦断する一級河川の源なのかと思うと趣深い。

 この広場は草場になっていて、足元の草はそれほど深くなく歩きやすい。川と広場の間が石積みの小さな崖になっているのだが、自然に囲まれた空気を存分に堪能させてくれる。


「真緒、あっちで食材広げてなよ」


 弘志が手際よく四脚固定のバーベキューテントを組み立てたので、僕は日陰になるテントの下を指して真緒を促した。そこは食材や荷物を置くためのテントである。


「うん。そうする」


 真緒はふわっとした笑顔を一度向けて、テントの下に移動した。今日の真緒は、ショートパンツにノースリーブのシャツを着ていて足元はサンダルだ。広つばの帽子を被っているものの、その下からつぶらな瞳と真っ直ぐ目元まで下りた前髪がしっかる見える。

 環菜はデニムのショートパンツにTシャツ姿で、男子三人はGパンにTシャツだ。淳だけ丈が七分タイプで、皆一様に足元はサンダルで夏を感じさせる格好である。


「テルはあっち手伝いなよ」


 僕は食材が入ったバッグを運ぶため真緒と一緒にテントの下に入ったのだが、すかさず環菜が寄ってきて、日陰を我が物顔で奪われてしまった。女子だから日陰を好むのは理解できるので仕方がない。僕は環菜に「あっち」と言われたバーベキューコンロに移動した。


「手伝うよ」


 あたかも自分からの手伝いを装って僕は火起こしをしていた淳に近づいたわけだが、淳は火起こしに一生懸命で僕に目もくれず「扇いで」とだけ返した。僕はその意味を理解し、淳の腰に刺さっていた団扇を抜き取ると、バーベキューコンロを横から扇いだ。

 視界の端に映る弘志はテントとコンロの間に位置する場所でテーブルを組み立てていたのだが、テントも含めて僕は弘志が一人で組み立てられることに感心していた。淳も弘志もアウトドアに慣れているようで、置いて行かれた僕は専ら彼らの補佐である。


「よしよし、来た」


 淳が楽しそうな声を発するのでバーベキューコンロを見てみると煙が上がっており、その煙はすぐに僕と淳を包んだ。肌には感じない緩やかな気流はあるので、煙で風向きを確認して僕は風上に避難する。

 風がなくても不快な暑さを感じないのは自然に囲まれたこの村の特長だろう。ただ村と言うだけあってやはり田舎で、遠くを見渡そうにも木々に視界を遮られ、民家は一つ二つくらいしか確認できない。他にある建物は倉庫くらいなのだが、畑の際にあるので農業用だとわかる。


「こっち準備いいよー」


 環菜の張り上げた声に反応してテントを向くと真緒と目が合ったのだが、その時に綺麗な川と自然を背景に微笑んでくれた真緒が、どこか額縁の芸術の中にいる少女のように思えて美しかった。


「こっちもオッケーだ。いつでも焼ける」


 淳が環菜に言葉を返すとその間にいた弘志がむくっと顔を上げ、声を発した。


「こっちもできた」


 どうやら弘志の作業も完了したようで、みんなが自然の中に据えられた焼き場に群がってきて、僕たちはバーベキューを始めたのである。


 ◇


 船上に立ってすぐに黒いビニールエプロンを身に着けた僕と渚はデッキブラシを使って船の床を磨いた。触れるところが少ないので専ら床掃除が主と言った感じではあるものの、お互いの身の上話などを交え、汗を掻きながらも終始和やかに作業を進め、滞りなく掃除は終った。


 掃除道具を船の掃除道具入れに片付けると、エプロンを脱いで僕は輝恵丸から陸に上がった。今度は渚を思いやることを忘れず、陸に足を付いた瞬間に渚を向いたのだが、その時に渚が納得の笑顔を向けてくれた。

 渚の髪が潮風になびくその様は、漁港ではあるものの綺麗な海を背景にして渚の笑顔がとても映えていた。僕が右手を差し出すと渚は勢いよく船からジャンプして思いっきり僕に抱き付いてきたのだが、二回目の僕は揺れない陸でしっかりと踏ん張り渚を受け止めた。胸で聞こえる渚の「へへん」と言う声に思わず僕の頬も綻ぶ。


 いつ振りだろうか。これほどまで心から笑えたのは。

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