第9話
朝食を食べ終わった僕は玄関からサンダルを拝借して外に出た。家屋をぐるっと回って出た先は敷地の南に位置する畑。畑と言っても家庭菜園くらいの規模で小ぢんまりとしていて、夏野菜が育てられている。
そしてその規模の畑には似つかわしくない一本の木。これは昔僕が給食で出た柿から取り除いた種を埋めてできた柿の木だ。
犬走はコンクリートで仕上げられていて、畑との境にブロックが並べられているのだが、そのブロックの継ぎ目と犬走には無残にも罅が入っている。劣化ももちろんあるのだろうが、一番の原因は地中にある柿の木の根だろう。僕は柿の種を畑の際に埋めてしまったのである。
「もしかして水やりやってくれるの?」
縁側から渚が全身を覗かせ、庭にいる僕に声を掛けてきた。開け放たれたサッシに手を掛け、少し身を乗り出すような体勢である。
「やれと言われればやるけど」
なんでこんな言い方をしてしまったのだろう。この家にいるうちはじいちゃんの世話の他、やれることはやるつもりでいるのに、もっと素直な言い方をすれば良かった。……と口を吐いた瞬間に思った。
「ぶー。じゃぁ、私もやるよ。こっち片付いたら後で一緒にやろ?」
案の定渚の気に障ったようだが、一緒に水やりをやれるのであればそれはそれで楽しそうだ。これを怪我の功名と言うのだろうか。渚は朝食の片づけの途中のようなので、僕は渚の手が空くのを、夏野菜を見ながら待つことにした。
トマトはまだ青みが残っているが、キュウリは程よく育っているように思う。弦のようなものも見えるが、もしかしてそれはスイカだろうか。あとでじいちゃんに聞いてみよう。
そんなただ眺めているだけの僕のもとに、程なくしてTシャツにショートパンツ姿でサンダルを履いた渚が来た。それから僕と渚はホースを引っ張り出し、散水栓に取り付けたのだ。
◇
七月にも入ると制服は夏服で、僕の朝練がない日、僕は真緒と一緒に登校していた。手を繋いで歩く、これはこの頃にはいつもの光景になっており、また、学年内での僕たちの関係は周知の事実となっていた。
「アツいなぁ~」
「ほんと、ほんと」
夏の木漏れ日が降り注ぐ歩道を歩く僕と真緒を、自転車で追い抜きざまに「暑い」と「熱い」を掛けて冷やかしてくる弘志と環菜。
「ったく。環菜が画策したんじゃん」
と口では毒吐くもののどう頑張っても僕の顔は締まらず、それをはっきりわかっている真緒は、はにかみながらもクスクスと笑う。
こうして人から背中を押されて恋人ができるのは、不甲斐ない気持ちがあれども感慨深い。ただそれはこの先もうないと思っていた。真緒以外の人と並んで歩くとか、ましてや真緒と離れることがあるなんて思っていなかったのだから。
「テル、今日一緒に帰ろう?」
「ん? 真緒、部活あるの?」
「ないけど待ってる」
「そっか。わかった」
当たり前になりつつあるこんな会話を楽しんでいると不定期に吹く強い風をこの時感じた。真緒と心が結ばれたあの場所で感じた山颪だろうか。それともこの一帯だけで吹いている突風だろうか。僕にその判断はできないが、こうして真緒と並んで歩いているとその風すらも愛おしく感じる。
程なくして学校に辿り着き、校舎に入ると僕と真緒はそれぞれ別れる。校舎内には廊下でいつまでも話している校内のカップルもいるが、僕と真緒は家も同じマンションだし、登下校も一緒の頻度が高いのでそこまでせず、クラスメイトとの時間を大切にしていた。
「今日もアツかったな~」
教室に入るなりそれが決め文句でもあるかの如く茶化してくるのはポニーテールを揺らした環菜だ。蕎麦目的で山登りをした五人、つまり僕がよく一緒に遊ぶ五人組の中で僕と環菜だけが同じクラスなのである。僕は環菜の茶化しに恥ずかしくなって頭を掻くのだが、環菜はそれすらも楽しむような目で僕を見てくる。
「えぇ~。櫛木さんと宇多村君は熱いって言うより、仲が良くて見てるだけで癒しだよね」
助け船のように庇護の言葉をくれたのは青木という生徒で、環菜がクラス内で親しくしている女子だ。
「あ、ありがとう」
僕は青木さんにそれだけ言うとそそくさと自分の席に着いた。それに付いて来るように移動する青木さんなのだが、彼女は僕の隣の席だ。前から二列目の僕と動作を合わせたように席に着く。するとすかさず環菜が青木さんの前の席を拝借して僕に向いた。
「弘志がさ、今日の部活後集合掛けるって言ってたよ?」
「ん? 目的は?」
弘志が僕達五人に集合を掛けることは然して珍しいことではない。環菜の言う「集合」だけで真緒と淳を含めた五人だとすぐにわかる。ただその目的まで悟れるほどではないので、これは僕からしたら当然の疑問である。
「夏休みの計画だって」
「ふーん」
確かにもう既に夏は感じているし、今月から夏休みに入る。中学の時まで夏休みは必ず一回は集まって何かしらのイベントを開催していた五人組だ。集合に納得ではあるものの、目前に控えた期末テストで完全に失念していた。
窓が開けられた教室に風と共に校庭からの運動部の掛け声が聞こえてくる。僕が所属するバレーボール部は体育館の割り当てがあるので朝練が毎日ではない。弘志と環菜が所属する剣道部は朝練を実施していない。もうすぐテスト週間に入るため部活は停止になる。
週の半分ほどは教室で客観的に朝練の声を聞くことになるのだが、この日は雲が出ているとは言え晴れている。つまりそれなりの炎天下だ。客観的になると酷だなと思いつつも、蒸し風呂のような体育館も然して差はないのかとすぐに納得する。
それよりも間近に迫った期末テストに向けて今日の英語の予習を見直しておこう。テスト前に慌てるとまた真緒に咎められてしまう。そう思って僕は一限目の科目である英語の教科書とノートを机に広げた。
◇
「行くよ」
渚の張り切った声が耳に届きその方向に目を向けると、渚が散水栓の蛇口を捻った。すると徐々に、僕が持つアクアガンに圧を感じたので僕はアクアガンを握った。途端にアクアガンの先からシャワーが噴出し、良く晴れたこの日、まき散らされた水道水は虹を写した。
「虹だ、虹だ」
自然にできた虹でもないのに渚が無邪気に笑って言うのだが、それが実に微笑ましく馬鹿にする気には更々なれなかった。腕を振って水やりを続ける僕の隣に渚が並ぶものだから、やっぱり二人もいらなかったなと無粋なことを思いつつ僕は作業を続けた。
まだ青みがかったトマトにシャワーを当てるとトマトが気持ち良さそうに水を弾き、それを見送ると僕は水を撒きながらキュウリのもとまで辿り着き、キュウリは身に沿って水を滴らせた。
「なぁ、渚?」
「ん?」
僕は水を当てているキュウリとは視線を違え、畑に伸びる弦を見ながら渚に聞いた。
「じいちゃんスイカまで育ててたんだな?」
僕が事前に気になっていた弦はやはりスイカで、近くで見た時に緑と黒の縞模様をしっかりと確認していた。
「うん。単純に食べたかったみたい」
「ふーん」
「ここの野菜は好きに食べていいって言われてるから夜にでも食べる?」
「それならもらおうかな」
そう僕が答えた瞬間、カリッという爽快な音が聞こえた。明らかに渚のいる場所から聞こえた音で、僕は手を止めずに渚を見た。
「食べてんのかよ」
「えへへ」
渚は頬の形を変えながら笑ったのだが、この時左手に一口齧られたキュウリを握っていた。そして僕が呆れたのは渚の右手に塩が握られていたことだ。何とも用意がいいことである。食卓から持って来たのだろうが、渚はそれを迷うことなくキュウリの断面に振りかける。するとそのキュウリの断面を僕に向けてきた。
「はい」
僕の口元に渚の歯型の付いたキュウリが向いている。僕は、右手はアクアガンを持っていたものの、左手は空いていたのだが、僕はそのキュウリにカリッと音を立てて齧りついた。
「あはは。間接キスだ」
渚の言葉を耳に受けて僕はキュウリの水分に混じった塩のしょっぱさを噛みしめた。
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