第7話
聞こえてくるのはヒキガエルの泣き声だろうか。冷んやりとクーラーの効いた居間でテレビとドライヤーの音に混じっている。
今でこそ浄化槽が埋め込まれトイレも水洗になったこの家だが、以前は汲み取り式であった。その名残で町の至る所に生活用排水路が駆け巡っている。そこにカエルが生息しているのだろう。
その水路は道路側溝なんて生易しいものではなく、幅が広く深さがありヘドロまみれで蓋のない水路だ。水深自体はないに等しいのだが、幼少期に一度そこに落ちたことがあって、異臭まみれで家に帰ったことは今でも忘れがたい僕の黒歴史だ。
もしこの家が汲み取り式のままの場合、一時的とは言えこうして年頃の女の子と過ごすのはいささか息が詰まってしまう。改築されているのは実に喜ばしいことである。
渚の髪が乾いたのでドライヤーの電源を切り、コードを抜いて丸めていると渚が振り返るのがわかった。
「ありがとう」
それほど大したことをしたわけでもないのに、渚のその一言に報われた感情を秘めて僕は渚を見た。渚は満面の笑みを向けてくれていたのだが、僕は金縛りにあったかの如く動けなくなった。何も渚の笑顔に落ちたわけではない。確かに魅力的な笑顔であるとは思うが、本質はそこではないのだ。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
僕の変化を渚に悟られてしまったようで、僕は慌ててドライヤーのコードをまとめると「はい」と言って渚に手渡した。渚は何事もなかったかのようにドライヤーを受け取ってくれたのだが、僕の方はまだ鼓動が落ち着かない。
◇
休憩用のベンチから立ち上がり再び歩き出そうとした僕と真緒。もうこの手を離すことはしないと心に誓い、立ち上がるなりすぐに真緒に手を差し出したのだ。真緒は嬉しそうににっこりと笑って僕の手を取った。その時正面に捉えた真緒は、チューリップハットで押された前髪がいつもより長く見え、長いまつ毛を通過していた。
再び歩き始めると真緒が肩を寄せてくるのだが、歩きにくいなどと野暮なことは考察の外に出し、真緒と触れる面積が増えたことを存分に喜んでいた。そして僕は早くなり過ぎないように注意しながら、真緒と歩を進めたのだ。
「みんなもう下りちゃったかな?」
「いや、さすがにまだだろ……とは言え、体力ゴリラばっかだからな」
クスクスと真緒が笑うと僕の肩にその振動が伝わってくる。淳は帰宅部ながらも校外の空手教室に通っていて体力はある。この五人の中で体力に自信のないのは真緒だけなのである。
「あのさ……」
「ん?」
ふと思い出したことがあり声を出すと、真緒が喉だけ鳴らして反応してくれた。僕の顔を見ながら僕が切り出すのを待っているようで、一方僕は足元をしっかり見ながら歩いた。下りはつい歩幅が大きくなりがちなので気を付けなくてはならない。
「去年の夏、お土産に買ったキーホルダー」
「あぁ、うん」
「通学鞄変わっても付けてくれてるんだ」
「そりゃ、テルからもらった物だからね」
登りとは反対に繋いだ左手が心なしか力む。そんな些細な一言がどれだけ僕の心に染みるか。真緒が意識して言っているのかはわからないが、僕は真緒の言葉を噛みしめていた。
所々完全に日が当たらなくなっている場所は、晴れた昼下がりの今でも暗い。左手の山肌からは何箇所か木の根っこが露わになっていて、その周りを苔が覆う。
夏の訪れを前に山の気温は幾分過ごしやすいが、この暗い場所は視覚から寒さを錯覚させ、加えて足元の視界を悪くする。目に毒なのでさっさと抜けたいが、やはりゆっくり歩かなくては危険だからそれがもどかしい。
「私も行ってみたいな。テルが生まれた島」
真緒が穏やかな声でそんなことを言う。既に真緒の視線は斜め前で、しっかりと自分の視界で歩を進めている。
「連れて行くよ」
「へへ。嬉しい。楽しみにしてる」
真緒とあのフェリーに乗る日を自然と想像する。時間が掛かるから飛行機や高速船の方がいいだろうか。いや、真緒とだったら数時間にも及ぶ航路も楽しそうだ。話していても、会話がなくても、真緒と一緒にいることはそれだけで癒されるのだから。真緒と海の景色を見ながらあの潮風を浴びたいと期待を抱く。
ふと頭上を見上げると木の枝の隙間から見える空は明るい。しかしこの場所まで光は届かない。それでももう目の先に木漏れ日が見えるので、この先少しは歩きやすくなるだろう。
「海が綺麗なんだよね?」
「うん」
真緒が僕の出生地の島についての質問を続けるので、興味があるのは間違いなさそうだと胸が弾む。こうなるともっと興味を持ってほしいと思ってしまうのが僕である。
「田舎ではあるけど、自然も、人も、味も、いいことだらけだよ」
「そっか。それは楽しみだな」
そうして話していると、木漏れ日の差し掛かる場所まで辿り着き、そこは実際に歩きやすいと感じる。更に体に温もりも感じるから、日陰と比較して気温は違うようだと納得する。
時々無言になるのだが、そんなことは苦にならない。いつも真緒の隣や斜め後ろを歩いてきた僕だから。この時はいつ真緒を島に連れて行ってあげられるかを妄想していた。夏休みだろうか。しかし、運動部の僕は部活があるから難しい。三年生になってからは受験だ。高校卒業後かな。そんなことを一人で考えながら楽しんでいた。
◇
八畳ほどの居間は北側の廊下を襖で、南向きの縁側を障子で仕切られている。直接の窓はないが、晴れた日の昼間は障子を越して日光が明るさを届けてくれる。更に押入れがあり、その脇が窪んだ間取りの板の間になっていて、そこにテレビが置かれている。僕は座椅子に座りながら、渚は畳にお姫様座りをしながらその画面を眺めていた。
「2人もいるとおじいちゃんのお世話が早く終わるから反ってやることなくなるね」
渚がテレビから目を離さず徐に口を開く。時刻は既に午後九時を過ぎていてじいちゃんは既に寝たと思われる。テレビ画面は連続ドラマを映していたが、あまり僕の頭には内容が入っておらず、それは渚も然して変わらないような印象を受ける。
「僕が来るまでは大変だった?」
「うーん……。そこまで大変ってことはないけど、おじいちゃんが寝るまでは時間に余裕ができるほどでもなかったかな」
僕が母から予め聞いていた話によると、寝たきり当初じいちゃんの世話は近所の人が交代で面倒を見てくれていたらしい。最初こそ頑固さを発揮して元気だと強がったじいちゃんだが、徐々に素直になり世話に応じたのだとか。
しかしそれは同時に遠慮も覚えさせ、日が経ってからとうとう僕の母に連絡を入れたという経緯だ。そしてその同じ連絡が渚の父親にも入って今渚もいるわけである。
「よく渚の親は渚がこっちに来ることを許してくれたな?」
これは渚が受験生であることを考慮しての質問である。尤も、渚を受験生だと思っているのは渚の親であって、渚自身は入学試験のない専門学校への進学を希望しているのだから受験生のつもりはない。
「一応、勉強道具一式持って来てるから」
「ふーん。つまり道具さえ持って来てれば勉強そのものが信用されてるわけだ?」
「そういうこと」
この日初対面だからお互いに知らないことは多々ある。それなのに初対面とは思えないほど打ち解けている。渚にとっては意に介すことでもないのだろうか。過去にこれほど自然な近しい距離を作ってくれた人物を僕は一人だけ知っている。
「そう言えば、輝君は彼女いるの?」
突然渚が僕を見たと思ったら目を輝かせてこんなことを聞いてきた。そもそもいつの間に「輝君」と呼ぶようになったのか、こそばゆい感じもするがあながち嫌ではない。そしてやはり年頃の女子高生だ。こういう話題が好きなのだろう。
ただ、微笑ましく渚に女子高生を感じることとは裏腹に僕は渚から目を逸らす。入浴前までは流していた前髪の形が今は変わっていて、直視できないことに戸惑いを感じる。
「いないよ。渚は?」
「残念ながら。いい人いなくて」
「そっか」
お互いに苦笑いを浮かべた。こうして自己紹介のような会話ばかりを続け、入島初日の夜は更けていった。
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