第6話
今ではボイラーが取り付けられ風呂に湯を溜めるのも苦労しなくなったこの家。僕が住んでいた幼少期は薪風呂であった。よくじいちゃんが薪を焚いていたものだ。
屋外に取り付けられた焚口に薪を組み風呂を沸かしていたのだが、昔はそこから伸びる細い煙突から、本当にサンタクロースが下りてくるものだと信じて疑っていなかった。よくよく考えれば煙突の下は焚口で屋外なのだからありえないのに。
「沸いたよ」
外は暗くなり、居間で寛いでいると渚が声を掛けてきた。どうやら風呂が沸いたようだ。じいちゃんの体はもう拭いてあげたので今日の世話は終わりだ。食器の片づけが終わっているのも確認している。僕は二階に当ててもらった自分の部屋に着替えを取りに行こうとしたのだが、ふと思い留まり動作を止めた。
「渚先に入りなよ」
「ん? いいの?」
フェリー埠頭まで迎えに来てもらったり、食事時の支度をしてくれたりと、今日は何かと渚にはお世話になった。女の子は髪を乾かすのに時間もかかるだろうし、一番湯くらい譲ってあげたい。そんな気持ちからだ。
「うん、先どうぞ」
「わかった。先に頂く」
そう言って渚は二階へと上がっていった。二階には個室が二室あるので僕と渚でそれぞれ分けている。僕はクーラーの効いた居間で座椅子に背中を預けながら、今まで見ていたバラエティ番組を引き続き視聴した。
やがて階段を下りる足音が聞こえて、その後音が止むとすぐに廊下から居間の襖が開かれた。もちろん襖を開いたのは渚で、手には寝巻を持っている。
「覗かないでよ」
それだけ言うとバタンと音を立てて襖は閉じられた。
僕は呆気に取られた。渚が魅力的な女の子だとは思うが、覗くつもりなんて毛頭ない。親戚筋とも言えるような女子高生を相手に迂闊なことができるはずもなく、万が一事を起こしたら親に合わせる顔がないのだ。
◇
山道を下りる僕と真緒の手はしっかりと握られていて肩を並べて歩いている。他の三人は例の如く先を進んでいる。登りの時よりも幾分空気は温かく、木々に遮られてか強い風も感じない。
すれ違う人はまばらだ。蕎麦屋を目当てに来る登山者が圧倒的多数だそうで、皆一様に昼食時を狙って登るため同じ方向に進む人ばかりである。人とすれ違えば挨拶を交わしたりもするのだが、そもそもすれ違う人が少ないためその回数も数えるほどである。
視界の先に山道脇の屋根付き休憩ベンチを見つけた。どのくらい歩いただろうか? ふとデジタル式の腕時計を確認してみると午後二時を少し過ぎたところだ。二十分は歩いたようだ。
「真緒、休憩しようか?」
「あ、うん。お願い」
体力に自信のない真緒だが、登りは休憩もせずによく頑張ったものだと思う。下りは時間が掛かってもいいから真緒に負担の掛からないペースで歩きたい。登山口のバスが停まる広場には、その外れに土産物屋があったことを記憶している。連れの三人はそこで時間を潰せるだろうしゆっくり待っていてもらう他ない。
程なくして僕と真緒はベンチまで辿り着き、肩を並べて座ったのだ。手を離すことはもの寂しいと思うが、僕は持っていた水のペットボトルのキャップを開けた。
「はい、真緒」
「ありがとう」
真緒は柔らかな笑顔を僕に向けてくれてペットボトルを受け取った。そのままペットボトルを口に運ぶと喉を上下させて水を飲んだのだが、僕はその姿から目が離せない。
「はい、テルも」
真緒がそう言って僕にペットボトルを返し、僕も喉を鳴らして水を飲んだ。喉が渇いていたとは感じていなかったが、喉を通る水の感触が何とも言えない爽快感を与えてくれる。
「ふぅ」
口からペットボトルを離すと声が漏れ、その様子を見ていた真緒が笑った。
「あはは。間接キスだ」
「何を今更」
もう僕たちの付き合いは長い。こんなことは日常茶飯事で今更気にする間柄でもないのだ。――と言うのは、展望台で抱いた淡い想いを棚に上げた甲斐性なしの都合のいい言いぐさである。
「今日はテルと久しぶりに手を繋いで歩けるから嬉しいな」
「そっか、それは良かった」
僕は右の手のひらでキャップを握ったまま頬をポリポリ掻いた。手を繋いで歩いたことが嬉しいのは間違いないのだが、直接そのことを耳にすると恥ずかしさや照れが拭えない。そんなことを感じていると真緒が突拍子もないことを言った。
「せっかくだから久しぶりにキスもしたいなぁ」
「は!?」
あまりに突然の言葉だったので僕は固まってしまい、強張った時の力みでペットボトルの水が揺れている。しかし、この後の真緒からの言葉で真緒にとっては突拍子もない発言ではないのだと理解する。
「こうして手を繋ぐのって小三の時以来でしょ? あの時はよく隠れてキスしてたじゃん」
僕は自分で赤面するのがわかる。あまりにも恥ずかしくて誰にも話したことがない思い出だ。お互いのファーストキスの相手がお互いである。この時真緒は僕の様子を探る様につばの下から見つめてきた。
「今なら誰も通ってないよ? 嫌?」
僕は言葉を発することができず、首を横に振るのが精いっぱいだった。確かにませた小学生時代だ。手を繋いで一緒に帰っては、近くの公園の物陰に隠れて真緒とはよくキスをしていた。僕はそれが好きだった。それも手を離すと同時期になくなったのだ。
真緒は真っ直ぐに僕を見ている。僕は真緒に顔を寄せた。手はペットボトルとキャップで塞がっているので真緒に触れられず、顔だけ寄せてキスをした。
「えへへ」
唇を離すと真緒がはにかんだ。その笑顔は落ち着かない僕の心臓を余計に暴れさせた。真緒のチューリップハットの感触が額に残るが、そのくすぐったさを気にする余裕もない。
「また手繋いだり、キスしたりしてくれる?」
「うん」
「私のわがまま。もう離さない?」
「うん」
僕は二度はっきりと真緒に答えた。わがままだなんてとんでもない。僕は全力で真緒を受け入れた。これが僕に初めて交際相手ができた瞬間だ。しかし、真緒の言う「わがまま」の意味を僕はこの時まだ知る由もなかった。
◇
渚の次に僕は風呂を済ませ、クーラーの効いた居間に入った。まだ夜の八時にもなっておらず、目は冴えている。しかしじいちゃんはあと一時間もすれば寝てしまうだろう。今は休養中とは言え、漁師の朝は早く寝るのも早い。それが体に染みついている。
「あれ?」
「ん?」
居間に入るなり姿を捉えた渚に僕は違和感を覚えた。テーブルの上にはドライヤーが置かれていて、僕の言葉に振り返った渚は肩にタオルを掛けた状態でお姫様座りをしている。視線の先はテレビだ。
「髪まだ乾かしてないじゃん?」
「あぁ、うん。テレビ見てたら集中しちゃって。音が聞こえないから」
「風邪ひくぞ?」
「この季節だから大丈夫だよ」
「まったく。貸して」
僕はテーブルの上に置いてあったドライヤーを掴むとコードが繋がっていることを確認して電源を入れた。この季節に風邪をひくと言うのは確かに大げさかもしれないが、せっかくの綺麗な髪が痛んでしまうという心配もある。
「え? まさか、やってくれるの?」
「うん」
「やった。人にやってもらうの好き」
「今日は色々お世話になったからそのお礼」
渚は大人しく僕に背中を向けた。ドライヤーの熱風を手に感じながら、指通りのいい渚の髪を撫でる。根元を念押してから毛先に流れるようにドライヤーを動かした。妹がまだ小学生の時はよくこうしてやってあげたなと思い出す。
「上手だね」
「そう?」
「うん。気持ちいい」
それは何よりの言葉である。やっている甲斐があるというものだ。僕はこのまま渚の髪が乾くまで、渚の髪の感触を手に楽しみながらドライヤーの風を受けた。
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