第5話

 一度水道の蛇口を捻って水を止めると、僕は玉ねぎの皮を剥き始めた。ツルッと滑らかな感触を手に楽しみながら渚との会話を続けた。


「逃げてきたってどういうこと?」

「夏期講習から。私ね、大学進学したくないんだ」


 渚は既に次の作業に移っていた。丁寧に魚の身を裂いている。近くの商店に行けば何かと新鮮な魚はどの季節でも買うことができる。この時渚は器用に歯鰹を捌いており、切り方から刺身にするのだと容易に想像ができた。


「慣れてんだな」

「ん? あぁ、包丁? 二年に一回来てるからね。おじいちゃんに教えてもらったの」


 じいちゃんはもう一人暮らしが長く、腰さえ悪くなければ炊事は自分でやる。そもそも漁師なのだから魚は容易に下ろせる。渚はそれを受け継いで、更にこの慣れた様子から自宅でもやっているのだろうと読み取れる。


「勉強できないのか?」

「失礼な。これでも成績は学年トップ10よ」


 渚の声が不満の色を示したので横目に見てみるとぷくっと頬を膨らませていた。その顔が実におかしいものの愛嬌すらも感じる。


「なんで受験から逃げてんだよ?」

「大学に行きたくないの」

「そうなの? じゃぁ就職?」

「ううん。専門学校」


 大学生の僕にとって専門学校は馴染みが薄く、イメージとしては早く資格やスキルを身に着けて、社会に出るための教育訓練を受けるところだというものだ。研究や人との交流も多い大学生と違って、就職のことを真っ直ぐ視野にいれた教育機関だと認識している。


「何がやりたいんだ?」

「インテリアコーディネーターになりたくて。それで建築の専門学校に行きたいの。けど親からは大学に行けって反対されてて」


 どうやら渚は進学のことで親と確執があるようだ。あまり深刻そうな表情はしていないが、それが反って譲る気はないという強い意思を感じさせる。しかし僕はそれを認識しながらも不躾な質問をした。ただ単純な疑問でもあった。


「大学の美術系やデザイン系じゃだめなのか?」

「うん。早く就職して、その仕事に就きたいから」


 納得の理由である。専門学校、恐らくだが二年制だろう。最短二十歳で社会に出られる。僕が抱くイメージと合致する。


 ◇


 座席の少ない店内から屋外に店主が運んできたのは月見蕎麦。三往復して僕たちが陣取ったテーブルに五人分の丼が置かれた。

 風に揺られる湯気に、嗅覚をくすぐる出汁の香り。その出汁に浮かぶように麺の上に乗った月見。そして月見の脇から顔を覗かせる鼠色の麺。食欲を十分にそそる。

 これが今回の山登りの目的であった。弘志は親戚と食べたこの蕎麦を僕たちにも食べさせたいと今回の遠出を企画したのだ。そしてここは秘境の蕎麦屋として有名な店である。


「いただきます」


 五人揃っての発声のもと、僕はすぐさま箸を付けた。出汁から麺を引き上げると途端に湯気で丼の表面が隠れるので、その湯気ごと麺に息を吹きかけて僕は一気に麺を啜った。

 絶品だった。濃厚な出汁の風味が口に広がり、コシと弾力のある麺が顎を刺激し、咀嚼中に唾液がとめどなく分泌される。そして付随してきた白身が絶妙なアクセントを与えてくれる。天然の綺麗な水で作られた蕎麦は僕を十分すぎるほど満足させた。


「おいしいね」

「うん」


 真緒の満足げな声に相槌を打ちながら僕は箸を進めた。横目に映る真緒の一度に口に運ぶ量は僕の半分ほどだが、真緒も実に美味しそうに食べている。僕の額にじんわり汗が噴き出てくるが、僕はそれを気にすることなく蕎麦を完食した。


「せっかくなんだからちょっとはお話しながら食べてもいいのに」


 黙々と食べた僕に真緒がまだ箸を進めながらも不満を口にした。心なしか膨れているようにも見えるのだが、その表情さえも愛嬌があり絵になるのだからあまり反省ができない。


 蕎麦を食べ終わった僕達五人は、小屋風の店の裏手にある小さな展望台に上った。山道よりも広場、その広場よりもこの展望台は強い風が抜ける。そして何よりもそこから見下ろす絶景である。

 緑の絨毯が敷かれた急斜面を下ると、僕たちの住む街が広がる。川が街を縦断し、高速道路が曲線を描き、そして建物は小さくその屋根や屋上が見える。航空写真を見ているように思うそのキャンパスは、生活感を近くに感じさせつつも、人を視界に捉えられないその景色はそれを遠くにも感じさせる。


「綺麗……」


 僕の隣で真緒が小さく感嘆の声を上げる。その声に反応して視線を向けると、風に遊ばれた真緒の髪が頬を露わにしてくれて、目を細めた真緒の横顔に見惚れる。できればそのチューリップハットを取って表情の全貌を崇めたいのだが、そんな甲斐性を僕は持ち合わせておらず、腕だけが幻の動作感に犯される。


「あれ、学校じゃない?」


 真緒が指差す方向を見てみるが真緒の言う学校がすぐには見つからない。しかし同調したいと思う僕は、線路らしき筋を確認したので、それを辿って学校最寄り駅を見繕ってから校舎と校庭を発見した。間違いなくここにいる五人の通う高校で、早く見つけられたことに胸を撫で下ろす。真緒の言葉からこの間数十秒だ。


「本当だ。あの校舎の形は学校だね」


 清閑な山に轟く鳥の囀りと、風が木々を揺らすさざめき。そしてこの場にいる幾人かの話し声。これを耳に感じながらも真緒の声には一番敏感なのだから、僕の聴覚は都合がいいものだとしみじみ感じる。


 僕たちの住む街は県の中央からやや内陸部にあり、山間部のすぐ手前という地形だ。だからバスで一時間も揺られれば山の中である。昔は山間部の途中まで鉄道も通っていたようだが現在は廃線になっており、公共交通機関は本数の少ないバスしか手段がない。

 そういう街に住んでいるから山から吹き下ろされる山颪は強く、マンションのベランダで干す洗濯物は飛ばされないように注意が必要だ。その風の源が、今僕たちが体に受けている風かと思うと感慨深いものがある。


「よぉし、そろそろ下りるか」


 景色を十分に堪能した昼下がり、展望台で弘志が大きめに声を上げた。僕と真緒は同時に弘志を向くと弘志は展望台の中央にいて、淳と環菜も弘志を向いたことが視界に入った。


「バスって本数あるのか?」


 弘志に近づきながら淳が問う。弘志は中央にある階段近くから動かず、四人が寄ってくるのを待ちながら答えた。


「夕方まではなんとか本数あるから大丈夫だ」


 弘志のその声と同時に一固まりを形成した僕たちはゆっくり展望台を下りた。


 ◇


 入島して最初の食事は渚の手料理だ。台所の食卓に並んだおかずは、肉じゃが、刺身、サラダ、しじみの味噌汁の他、小鉢が数点である。

 じいちゃんはベッドから出られないので自室での食事なのだが、先ほど渚が盆に乗せて配膳をした。じいちゃんの寝室に僕や渚が食事を取れるようなスペースはなく、僕達二人はこうして食卓で食事をしているわけだ。


 渚の手料理はとても美味しく会話も程々に箸が止まらない。これだけでもここに来て良かったと思えるほどである。

 肉じゃがは肉とジャガイモ両方に味がしみ込んでいて、ご飯のお共にこれ以上ないと思わせる。そして歯鰹の刺身である。切っただけだから料理とは言わないなんてことはとんでもない。筋を壊さないように丁寧に包丁を入れてある。それは僕にはできない芸当で、柔らかい肉質は一噛みで旨味が一気に口の中に広がる。


「ちょっと」

「ん?」


 渚が何やら不服そうな声を上げるものだから、僕は咀嚼しながら喉だけを鳴らして渚を見たのだが、右手の箸と左手の茶碗は下ろさない。当の渚はやはり膨れていた。


「がっついて食べてる様子は作り手として光栄だけど、言葉でも何か一言欲しいな」


 僕はそれを聞いてはっとなり、口の中のジャガイモを喉に通した。喉を熱が通過する様がはっきりとわかり、麦茶で熱を冷ましてから口を開いた。


「ごめん。めっちゃ美味しい」

「へへん。褒めてつかわす」


 渚が満足そうに僕の感想を受け入れた。美味しい料理を作ったのは渚なのだから褒めるのは僕の方であるような気もするのだが。それでもなんだかこの掛け合いに懐かしさを覚えるのは気のせいだろうか。そう感じつつも僕は箸を進めた。

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