第4話
少し緑色に濁ったようにも見えるじいちゃんの瞳。皺も増えたように感じるが、一番最近見た時と印象はあまり変わらない。一番最近見たのは中学三年の時の夏だからもう七年前である。
『おぉ、テルか。よく来たな』
僕を確認するなりじいちゃんがベッドから起き上がろうとするものだから、慌てて渚が駆け寄りじいちゃんを制した。耳に懐かしい方言がじいちゃんから発せられる。
「おじいちゃん。無理して起きなくていいから」
「うん。そのままでいいよ」
僕は渚に同調し、言葉でじいちゃんを制した。しかし強がるのが年寄り……というのは偏見だろうか、じいちゃんから見栄を張った言葉が返ってくる。
『なんの、これくらい』
凄んでは渚の制止を無視して起き上がろうとするじいちゃんだが、すぐに『う……痛てててて』と唸りベッドに逆戻りした。
「ほらもう……」
渚がじいちゃんを優しくベッドに寝かすと、足元で皺を形成していたタオルケットをじいちゃんに掛けた。
そろそろ日が傾き始める時刻だが、東南角部屋に当たるこのじいちゃんの寝室は強い日差しと無縁だ。屋外にも聞こえていたテレビの音は、心地よい風が吹き抜ける窓と動線を同じくして漏れていたのだとわかる。
まだ現役の漁師であるじいちゃんは漁に出た折、腰を痛めた。先月七月の話だ。それでこの寝たきり生活なのだが、そこで大学の夏休みに当たる八月いっぱい、僕はじいちゃんの面倒を見るようにと、母から言われてこの家に来たわけだ。
フェリー埠頭からここに来るまでの道中で渚に聞いた話だが、じいちゃんのことを知った渚も僕と同じ理由でこの家に来た。渚の方が到着は二日ほど早かったそうだ。
僕はそれを聞いて自分まで来る必要はなかったと思ったのだが、その考えは一瞬で消え去った。何かと男手があるに越したことはないし、渚の存在を予め知っていたら僕は出向くことを拒む。そう母は考えて渚の入島を僕に知らせなかったのだろう。
僕は母から直接そう聞いてはいないが、一人で深く納得してしまった。おかげでフェリー埠頭に渚が軽トラックで迎えに来た時は面食らったわけだが。更に僕の両親も渚の両親も共働きで、どうしても仕事が休めないからと、この家に僕と渚が揃った次第である。
そしてよくよくじいちゃんの容態を聞いてみると、トイレだけは杖を使ってなんとか一人でできるらしい。風呂には自力で入れないので体は拭いてあげなくてはならない。更に食事の世話といったところが主になるようだ。それだけ確認すると僕は荷物を置いて仏間に行き、ばあちゃんの遺影が飾られた仏壇に手を合わせた。
◇
山道に時折差し込む日光は夏の訪れを感じさせるが、山間部のこの地域は暑さを感じさせない。それよりも長い山道を歩いたことによる体温の上昇が暑さを感じさせる。そして真緒と握る手。温もりももちろんのことだが、胸が熱くなる。
「みんな見えなくなっちゃったね」
「そうだな」
他の三人はかなり前のほうを歩いているようで、とうとう背中が見えなくなっていた。一本道と言っても直線ではないので、一度見失うと姿を捉えることは叶わない。
「ごめんね」
真緒が恐縮そうに言うものだから、僕は優しくも少し強く真緒の手を引いた。すると真緒の肩が僕の腕に触れるので、更に体温が上がるのを感じる。
「気にするな。真緒とこうして歩けることが嬉しいから」
「えへへ。ありがとう」
はにかんでくれたのかな? そんな期待を抱かせる真緒の微笑みに僕の心臓は落ち着きがなくなっていた。これくらいのことで一喜一憂する自分が単純だと思いつつも、それでも楽しさとか嬉しさとか気持ちを上げる感情が抑えられない。
程なくすると先の山道脇に屋根付きのベンチを見つけた。中央の一本柱に支えられた方形屋根。その下に、一本柱を囲うように正方形のベンチが据えられている。
「少し休む?」
「どのくらい歩いたかな?」
「一時間ちょっとかな」
「じゃぁ、もうすぐだよね。頑張る」
僕は真緒の気丈な言葉に肯定の返事をし、このまま先を目指した。時折山道脇の背の高い草や小さな枝が揺れるのは、小動物だろうか。しかしあまり姿を見せてくれない。
左は柵があるものの崖地。右はそびえる山肌。しかしその右手の山肌の天辺はどんどん僕達の目線に近づいており、もうすぐ終着点だと実感させる。僕は真緒と繋がった右手に湿ったものを感じるが、この感覚さえも前向きに受け入れていて、自分から離すつもりは毛頭ない。
「たぶんもうすぐ着くよ」
「本当?」
「うん」
一言真緒を励まし一本緩やかなカーブを折れると、視界に広場が映った。その広場の端に暖簾の掛かった十坪くらいの平屋建ての小屋が建っており、その前には屋外用のベンチとテーブルが幾らか並べられていた。すぐにここが僕達の目指す終着点だとわかった。
「真緒ぉ、おつかれぇ」
広場に到着した僕達を見つけて真っ先に駆け寄って来たのは環菜だ。環菜の笑顔と労いに真緒の口角も上がる。疲労の色は隠せないが、真緒の表情は徐々に柔らかい笑顔で満たされていった。
「疲れたぁ」
真緒が正直な感想を口にすると環菜が「こっち」と言って、僕と真緒を確保した席に案内した。その時真緒の手が僕から離れしまい、僕が落胆したことは言うまでもない。それでも右手に残る感触と湿り気に、僕は何度も空いた手を握り締めた。
案内された席は最大六人が座れるようで、弘志と淳は既に腰掛けて待っていた。赤い布が敷かれた長椅子に座ると、予め用意されていたコップの水を淳が「ほい、お疲れ」と言って差し出してきた。僕はそれを受け取ると一気に飲み干した。冷水が喉を通る感触が心地よく、そして舌が喜ぶほど美味い水であった。
「おいしい」
その声は隣に座る真緒から聞こえてきた。真緒は両手でコップを包んでおり、僕と同様で既に水は空だった。それを確認した弘志がポットを握り、僕と真緒のコップに追加の水を注いでくれる。
「ここは水が綺麗なんだよ」
コップに注がれる水に目を配らせながら弘志が説明をしてくれたのだが、これほどに舌触りのいい水だから納得である。注がれた二杯目の水は僕も真緒もより味わって飲んだ。やはりこの水は特別美味い。
「月見蕎麦五つ」
「はいよ」
弘志は誰の注文も確認することなく、通りかかった店の主人らしき男に注文をした。その男は白い割烹着姿で手拭いを頭に巻いている。男は歩を止めることなく弘志の注文に返事をしてそそくさと小屋の中に消えた。この小屋は蕎麦屋である。
◇
「手伝うよ」
「ありがとう。じゃぁ、これお願い」
台所に立つ渚の隣に並ぶと、僕は網篭に入った野菜を受け取った。水で流して裁断することを仰せつかったのだとわかる。
「どう切ればいい?」
僕は野菜を水でゆすぎながら、鍋の様子を見ていた渚に指示を仰いだ。網篭の中にはちぎられたキャベツの葉にピーマン、ミニトマト、玉ねぎが入っている。渚は鍋から目と手を離すことなく指示をくれた。
「サラダにするからキャベツは千切りで。玉ねぎは薄く。ピーマンは一口サイズになるなら任せる」
僕は「了解」と答えると引き続き野菜を水で流した。渚の正面にある鍋がグツグツと音を鳴らし、食欲をくすぐる匂いを僕に届けてくれる。
「肉じゃが?」
「よくわかったね」
匂いだけで正解を導き出したことに満足をして、僕は話題を転換し渚に質問をした。
「渚は受験生じゃないの?」
「逃げてきた」
「は?」
返ってきたのは予想外の言葉だった。渚は特に変わった様子も見せず、炊事を進めている。僕は一度渚から視線を外すと流し台の正面にあるすりガラスを向いた。
北側に位置するこの台所には食卓もあり、居間とは廊下で分断されていて古い造りの間取りだとわかる。その窓は若干ながらも薄暗さを映していて、日が沈み始めたのだと僕に知らせた。
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