第2話

 カーナビはなくとも一応のエアコンはある古い型式の軽トラックだが、エアコンの風は何とも言えない臭いが狭い車内に充満する。だから窓を開けてエアコンは停止している。更に言うとこの軽トラックはミッション車である。


「免許オートマ限定じゃないんだ?」


 頬に受ける自然の風を感じながら僕は真っ直ぐ前を見据えて渚に質問をした。左右に広がる第二視野から渚が僕に顔を向けるのがわかる。


「うん。同級生の中では車校に通うのが早い方だったから最近まで知らなかったんだけど、女子では珍しいらしいね? 最近では男子でもオートマ限定が増えてるとか」

「そうだね。そこまでわかってるなら僕がどっちの免許か確認してから助手席に乗ってほしかったな」


 渚は僕のその意見には何も答えず、視線を正面斜め下に向けてクスクスと笑った。ミュールを脱いで、シートベルトを体で挟んで膝を抱えている。むろん横目に感じる彼女の様子だが。助手席の足元にはミュールの他に運転の際に履いていたのであろうスニーカーが置かれている。

 こうして助手席に誰かを乗せて運転していると思う。ドラマに出てくる運転シーンには矛盾があると。走行中に運転手は助手席の同乗者をしっかり見て会話なんてできない。尤も、これは運転をするようになってから気づいたことなので、高校生の時までは気にもしていなかった。


 ◇


「今日、私部活出るから一緒に帰ろう?」


 今朝僕は各々の教室に別れる時に真緒からこう言われていた。


 バレーボール部に所属する僕は夕方の部活を終えると、着替えて校門まで行ったのである。不定期で活動している文芸部の真緒はすでに校門で待っていた。門の片側に体を預ける様は映画や漫画のヒロインを彷彿とさせ、夕日に照らされたその少女はとても神秘的であった。

 真緒は僕に気づくと、いくらか不満の混じる優しい笑顔を向けた。


「テル。来てたんなら声掛けてよ」

「ごめん。お待たせ」


 見惚れて立ち尽くす僕に真緒が咎めるように言うものだから、僕はやっとのことで自我を取り戻し、声を絞り出したのだ。


「今日も部活お疲れ様」

「うん、真緒も」


 僕と並んで学校を後にした真緒は、後ろ手に組むように両手で通学鞄を提げている。その通学鞄には女子高生に似つかわしくない、厳つい様相の赤鬼風のキーホルダーがぶら下がっている。昨年の夏、父の帰省に付いて島に行った時に買ったお土産で、僕が真緒にあげたものである。


「それ――」

「今日、中間テストの順位出たでしょ? どうだった?」


 進学して通学鞄が変わった今もなお、付け替えてまでキーホルダーを大事にしてくれているのだと確かめたかったのだが、耳に心地いい真緒の声が僕の言葉を遮った。この声に遮られると僕は何も言えなくなる。この声を隣で聞いているのが好きなのだ。


「どうだったって……、聞くなら真緒が先に言いなよ」

「学年三位」


 はぁ……と、ため息が出る。確かに中学時代、志望校決定の時点で真緒は不安がなかった。だから入学最初の定期テストでこの結果には納得である。

 対して僕は人並みよりは受験勉強を頑張ったものだ。だから成績優秀の真緒に対して自身の結果を報告することに思わず口をつぐみたくなる。とは言え、今回の試験は真緒と一緒に勉強をして、真緒にはかなり助けられたのでそんなわけにはいかない。


「僕は……、真ん中よりは上かな」

「ほぉ、褒めてつかわす」


 納得の返事をくれる真緒だが、それが若干心苦しくもある。返ってきたテスト結果によると総合順位の総人数が偶数で、僕の順位はぎりぎり一人分だけ前半だったのだ。だから心苦しいわけだが、嘘は吐いていないと心の中で言い訳をする。

 横から当たる西日が暑さを感じさせるが、時折吹くそよ風が不快感を幾分和らげてくれる。横目にチラチラと真緒を見ることが癖なのだが、この時真緒は身長差二十センチの僕の影にうまく収まっていた。


 そうしていつもの癖を堪能していると、キキィィィ、と甲高いブレーキ音が周囲に響き、僕と真緒は二台の自転車に挟まれた。それほど広くはない歩道いっぱいに二人と二台が並ぶ。周りに人はいないようなので迷惑にはならないなと、ほんの少し胸を撫で下ろした。


「まぁお~」

「あ、環菜。びっくりしたよ。部活終わったんだね」


 真緒の側から声を掛けたのは村永環菜むらながかんな。ポニーテールの後ろ髪を後頭部で揺らし、自転車に跨ったままつま先を地面に着け、徒歩の僕達に速度を合わせている。切れ長の目が穏やかに真緒を見据えていた。

 僕の側にいるのは市谷弘志いちたにひろし。短髪の髪に整った顔の彼も、恵まれた体躯で自転車に跨り僕達に速度を合わせている。


 弘志がニヤニヤと締まりのない表情をしているのは、環菜と二人で挟んだことで僕と真緒を驚かせたかったのだろうと読み取れる。彼はそういうことに喜びを感じる性格だ。確かに少しだけ心臓が跳ねたので悔しいが、僕はそれを悟らせないように平静を装っている。


 弘志と環菜は男女合同練習の剣道部なので揃って下校というわけだ。二人とも肩に掛けた竹刀が背中を真っ直ぐ斜めに走っている。

 この二人も淳と同様、僕と真緒とは小学校から中学校を経てこの高校まで同じ学校の同級生だ。淳を含めた五人で小学生の時から親しくしている。


「テル、今度の日曜って部活か?」


 弘志はサドルから腰を前に移動しており、自転車に跨ったまま歩き始めた。その視線は前を向いた状態に変わっていて、体は今まで僕が受けていた西日を遮ってくれる。


「いや、オフ」


 僕は短くそう答えると弘志から視線を外した。同時に太陽の方向からも視線を外せたので、眉間に寄っていた皺が和らぐのを自分で感じる。


「じゃぁ、空けといてくれ。真緒もな。淳も呼んであるから。じゃぁ、環菜行くぞ」


 一気に捲し立てると弘志は颯爽と自転車を漕いで走り去った。環菜が「ちょっと!」と声を出し、慌ててペダルに足を掛けた。別れの挨拶もそこそこに、環菜は急いで弘志を追いかけた。


 ◇


 住んでいたのは幼少期だが、見覚えのある道路が続く。道路沿いから見えるとある池には河童の像が真ん中に立っている。居住当時、その河童は本当に生きている池の主だと信じて疑っていなかった。幼少期の自分の思考が滑稽であるものの懐かしくもある。


 やがて迎える急な上り坂。僕はシフトレバーを操作してギアを落とした。エンジンの回転音が響き、その回転が必死な様は座席の下から体にも直接語りかけてくれる。


「来る時もしここ通ってたら、エンストしないか冷や冷やだよ」

「確かにここでエンストしたら究極の坂道発進だな」


 窪んだ形状の道路なので、下り坂と上り坂が続く。だから行き帰りどちらの道程でも急な上り坂を避けては通れないのだ。そもそも渚はこの道を通っては来なかったのだが。


「て言うか、新しい道路せっかく教えてあげたのになんでわざわざ遠回りするのよ?」

「懐かしいから。それにこっちの道しか知らないし」


 僕は幼少期の記憶を頼りに渚の案内を無視して走っていた。ある意味無謀であると感じつつも、当時はなかったトンネルで繋がれた近道を走るより、懐かしい景色を堪能したかったのだ。


 しばらく走り、左の側壁が吹き抜けのトンネルを出ると左手に海が広がる。右手は山だ。加えてぽつりぽつりと民家があるだけである。両脇に見えたバス停の看板は錆びてしまっている。

 現在僕が住んでいる本土の県は一応の臨海県だが、沿岸部の都市から見える海はお世辞にも綺麗だとは言えない。しかし窓を開けた車内に潮風を運んでくれるこの海は、透き通っていて綺麗で、砂浜の白さをも際立たせている。


「綺麗……」


 思わず僕の口から漏れた。しっかり前を向いて運転しなくてはいけないとわかっているが、直線道路にかまけて渚越しに海を見ていたのだ。海と砂浜を背景に日に照らされた渚の横顔が神秘的で、懐かしくも儚い感情が突き上げてくる。


「だよね! けどおじいちゃんは最近汚いって言ってたよ?」


 僕の呟きに渚が興奮したように反応して勢いよくこちらを向いたものだから、僕はそれに合わせて再び前を向いたのだ。


「毎日見てる地元の人からしたら感覚が違うんだな」


 平坦な道に差し掛かったので、僕は左手をシフトレバーに添えただけで、一定のスピードで軽トラックを走らせた。

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