潮風と山颪

生島いつつ

第一章

第1話

 涙を枯らした高校三年のあの夏から四年、僕は大学四年生になった。当時は本当に涙が枯れるのではないかと思った。三日三晩泣き続けることは現実に可能なのだと、悲観とは裏腹に冷静に感じたものだ。


 見渡す限り海、そして点在する緑の島々。フェリーの甲板で海鳥の泣き声を耳に感じながら潮風を浴びる。大きくゆっくり揺れる足元から三半規管を刺激されるが、酔い止め薬は予め飲んだので問題ないだろう。


 八月最初の日。僕は今、本土の港から離島の港を目指している。この季節、こうして物思いに耽る時間があると、大切な人を失った四年前の夏を思い出す。加えて、数時間にも及ぶこの航路は、懐かしい思い出も悲しい思い出も、十分すぎるほど鮮明に頭の中で描写してくれる。


 ◇


「早く行くよ?」

「あぁ、もう少し」


 高校一年の僕の部屋にノックもせず無造作に入って来たのは、同じマンションに住む櫛木真緒くしきまお。玄関を開けたのは僕の母親だろう。真緒は学校のブレザーの制服姿だ。


「もう、なんでテルはいつも準備できてないのよ」

「そんな言うなよ。ちょっと待って」


 文句を言いながら待つ真緒を横目に、僕は急か急かと教材を通学鞄に詰める。真緒が口にしたテルとは僕への呼び名で、僕は宇多村輝久うたむらてるひさ。真緒の他、親しい友人からもテルと呼ばれている。

 窓から吹き込む緩い風が部屋の扉近くにいる真緒に向かう。真緒はその風を体で受けて、肩口で切り揃えた髪を揺らしている。栗色の綺麗な髪がやさしくなびくのに一瞬見惚れてから僕は窓を閉めた。


「準備できた?」

「うん」


 少しキーの高い真緒の声に反応して、僕は通学鞄を肩に掛けた。顔を上げると真緒は真っ直ぐ僕を見ているが、怒っている様子も呆れている様子もない。言葉とは裏腹につぶらな瞳で優しく僕を見て待ってくれていた。


 僕と真緒は同じ高校に通う同級生で、約二十分の道のりを徒歩通学だ。よく晴れたこの日、二人並んでマンションを出ると春の陽気が僕達を包む。日中、外は暑さすら感じるかもしれない。そろそろ高校最初の夏服への移行を予感させる。

 真緒は所々ある歩道の縁石に飛び乗り両手を広げて歩く。飛び乗る時の姿が実に軽やかで、一人だけ重力の違う空間にいるのではないかと錯覚させる。そんな真緒の隣や斜め後ろを僕はもう何年も歩いている。


 歩を進めること十数分。街路樹の緑の葉が頭上を生い茂る歩道で、木漏れ日に照らされた友人の後姿を発見した。少し猫背で、校則に違反しない程度に伸ばした髪が特徴の彼は田橋淳たはしじゅん。僕と真緒とは小学校からの同級生だ。


「おはよう」

「おっす」


 僕と真緒は猫背の背中に声を掛ける。振り返り、声の主が僕と真緒だと認識した淳は柔らかい表情になった。


「おっすぅ」


 わざと語尾を延ばして陽気に挨拶を返してくれる淳。地味な顔の少年ではあるが、好感の持てる笑顔を向けてくれる。そう思っていると途端に眉をハの字にした。


「古典の予習やったか?」


 淳のこの一言で彼が予習をサボったのだとわかる。しかし残念ながら僕のクラスは今日、古典の授業がない。だからあいにく僕は古典のノートを持ち合わせていない。それを淳に説明すると、悲壮感を満遍なく漂わせるものだから、真緒が救いの手を差し伸べた。


「もう、しょうがないな。はい、これ」


 真緒が差し出したのは今まで真緒の通学鞄に入っていた古典のノート。むろん真緒の持ち物だ。それを確認するなりパッと明るい表情を真緒に向ける淳。


「サンキュー。真緒のクラス、古典は何限目?」

「四限目」

「俺、三限目だから終わったらすぐ返すわ」


 そう言って淳は走って学校に向かった。その後姿が実に軽快だ。少し余裕のある今朝の時間と授業の合間でノートを書き写すのだろう。


 僕は小学生の時にこの街に引っ越してきた。引越しの理由は父親の転職だ。それまではここから遠く離れた離島に住んでいた。

 賃金低下と雇用悪化が進む島で父は本土に職を求めたわけだが、最初は単身で出稼ぎをしていた。やがてこの街での生活が落ち着き、今住んでいるマンションを購入することになったため、母と僕と妹を呼び寄せたわけだ。僕が小学二年の冬である。


 転校当初、僕は戸惑い以外の何も持ち合わせていなかった。二歳年下の妹は当時未就学児だったため、大きな苦労はなかったようだが。とにかく僕は訛りが強く、学校が言語の違う国のように思えていた。


 そんな常に肩から力が抜けない僕の懐に飛び込んで来たのは真緒だった。真緒は同じ小学校区内で今のマンションに引越しをしていたため転校生ではなかった。学校から自宅の方向は反対に変わったと言っていたが、それは然したる問題ではない。むしろ僕と同じ集団登校の班になったことが、今にして思えば僕の救いだった。

 僕は人懐っこい真緒に触れ、人見知りが解消される過程で友達が増えた。その友達の一人が今背中を向けて走っている淳である。


 ◇


 離島の港に到着するとフェリーから桟橋に足をかけた。揺れる狭い桟橋は心もとなく、直下には海面が揺れており不安を煽る。尤も落水したところで陸際のこの場所は、沖に比べれば波も立っていないので流されることはないだろう。


 ターミナルビルに入ると、先ほどまで浴びていた潮風が空調の風に変わり、肌を心地よい冷気が包んでくれる。また、コンクリート打ちっ放しで飾られた建物は視覚からも納涼を感じさせてくれる。

 視界に入った売店の壁に民芸品のキャラクターが飾られている。赤鬼を思わせるそのキャラクターは久しぶりに見ると愛嬌さえも感じる。


 僕は迷いなく待合ホールに向かった。ここに迎えの人物が来ると聞いている。その人が誰なのか、ましてや風貌、性別すらも聞いていない。今時携帯電話やスマートフォン、ましてやSNSまであるのだから、予め連絡先を教え合っていればいいものを、一方的に僕の風貌を教えたとだけ言われている。

 辺りを見渡して人という人に目を配るが、僕が迎えの人を認識できるわけがなく、仕方がないので待合ホールの長椅子に座った。券売カウンターを正面に見て一番後ろの席なので、背後で人の歩調を感じる。


「宇多村輝久君?」


 座ってから五分ほどだろうか、僕は斜め後ろから僕の名前を呼ぶ声に振り返った。そこにはショートパンツに身体のラインがわかるTシャツを着た少女が立っていた。高校生くらいだろうか。セミロングの髪に、あどけない笑顔を浮かべた可愛らしい少女だ。


「はい。そうです」


 僕は体と首を捻った状態で答えた。少女は目の上で流した前髪を気にしているのだろうか、しきりに触っている。その手を一度横髪に掛けると、真っ直ぐのセミロングの髪を全て背中に運んだ。


「お迎えだよ。私が渚」


 それを聞いて僕は少しだけ慌てて立ち上がった。まさか迎えの人物が少女だと思っていなかった。立ち上がると同時に肩掛けバッグを肩に掛けると、キャリーバッグの取っ手を引き上げた。


「さ、行こう?」


 高くも少し張りのある声に僕は従い、なぎさと名乗る少女に付いて歩くわけだが、腑に落ちないことがある。背中を向けて先導する渚は僕の様子に構うことなく歩を進め、ターミナルビルを出た。そして行き着いた場所は駐車場だった。


「荷物、荷台に乗せて」


 渚は一台の軽トラックの助手席側に立ち僕に指示をした。そう、迎えが来ると聞いていた。だから車で来るものだと思っていた。それ以外に目的地へ行くには本数の少ないバスを使うしかないのだから。ここまでは予想通りだ。

 しかし目の前にあるのは二人乗りの軽トラックである。そして迎えに来たのは高校生風の少女。とても運転免許を持っているような年齢には見えない。それが腑に落ちない理由であった。


「君が運転してきたの?」

「渚だよ? 自己紹介したでしょ?」


 渚は少し頬を膨らませて不満を口にする。僕は短く謝意を口にするが、まだ疑問は拭えない。それに人懐っこいと言えば聞こえはいいのだが、初対面の相手にタメ口である。それほど気にする性格ではないとは言え、明らかに僕より年下の少女なのだが。


「私が運転してきたよ。なんで?」

「えっと、歳いくつ?」

「あ、そういうこと」


 大きな黒目だけを上に向けて渚は僕の質問の意図を理解した。


「五月で十八歳になった高三だよ。誕生日来てからすぐ学校帰りに車校に通って免許取った」


 その説明に納得すると僕は荷台に荷物を上げた。走行中に暴れないようにフックも掛けたのだが、それを見届けて渚が言った。


「ナビはするから運転よろしく」


 その言葉の意味を認識した時、既に助手席の扉は音を立てて閉まっていた。僕は一度肩をすくめると運転席側の扉に回った。

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