【書籍2巻発売記念】すきなひと



 ひゅうっ、と何度も喉が鳴る。

 息を吸っても吐いても喉が鳴って痛みが走り、息苦しさばかりが強くなる。


 つい少し前、咳のしすぎで吐いた。その所為で口の中が気持ちが悪くて飲んだ水も全部吐き戻した。

 高熱の所為で頭は何日もずっと殴りつけられているようにガンガンと痛むし、暑くて堪らないのに寒くて、寒くて堪らないのに暑くて、もう自分が今どうなっているのかもわからなくて、ただただ「つらい」のひと言だ。


「公主様」

 遠くの方から声がする。

 熱で重たい瞼を押し上げて見れば、白磁の器を持った女官が枕元に膝をついてこちらを見ていた。

「公主様、薬湯をお持ち致しました。飲みましょう」

「――…ぃや……いや……」

 女官の言葉に、天麗てんれいは苦しい息の下から必死に首を振る。食欲など何日も一切なく、ただでさえ気分が悪いというのに、そんな不味いものを飲みたいわけがない。


 器を持っていた女官は困ったように眉尻を下げるが、溜め息ひとつ、他にいた女官達に声をかけた。

 集まって来た女官達は萎えた天麗の身体を抱え起こす。やめて、という力ない拒絶の言葉は聞こえていないかのように無視され、しっかりと押さえつけられた。

「お熱を下げて、吐き気を抑えるお薬です。お飲みになれば楽になりますから」

「いや……いや……さげて」

「そう仰ってお飲みにならないから、ずっとお熱が下がらないのですよ。さあ」

 女官が器を差し向けてくるが、天麗は首を振って嫌がった。

 だってそれは臭くて苦くてとても不味い。飲んだら逆に具合が悪くなりそうな汁だということは、よく知っている。


 必死に顔を背ける天麗に、背後にいた女官が「失礼致します」と囁いたかと思うと、顎を掴まれて上向かされた。

 押さえつけられて、薬湯を流し込まれる。

 なんて酷いことをするのだ。天麗の中に怒りが込み上げるが、高熱で思うように動かない弱った身体ではどうすることも出来ず、無礼な女官達にされるがままになるしかない。


 無理矢理ひと口は飲み込まされるが、それ以上は無理だった。噎せ込んで吐き出し、そのまましばらく咳が続く。

 咳が続けばまた胃の中のものがせり上がってくるが、もう何日も碌に食べていないし、少し前にも吐いたばかりだったので、出てきたのはもうほとんど胃液だった。

 苦くて酸っぱい味のする体液は、これを予見していた女官が素早く差し出した桶の中に入っていく。

 その小綺麗な顔にかかればよかったのに、と恨めしい心地を抱きながら、天麗は口からなにも出なくなるまで桶の中に顔を押さえつけられていた。


 咳のしすぎで痛む背中を摩ってくれるが、そんなもの気休めにもならないぐらいに身体中が痛い。咳をする度に、少しでも身体を動かす度に、その痛いのを我慢しなければならないのがまたつらい。

(どうして天麗ばかりこんなめにあわなければいけないの……)

 嘔吐えずきながら、悔しくて悲しくて、なによりも腹立たしくて、涙が溢れてきた。


 ようやく落ち着いて、口を漱ぐように、と差し出された水も力なく吐き出したあと、口の周りを丁寧に拭かれて寝かされた。

「結局飲まなかったわね」

 ぐったりとしていると、ごく小さな囁き声が耳に入った。

「飲まなきゃ治らないっていうのに」

「仕方ないじゃない。飲めないぐらいに弱ってるんだから」

「本当に具合が悪い分、うちの公主様はまだましよ。香燐こうりん公主様なんて仮病ばっかで大変だったって言うじゃない」

「あー、大変だったわよ。普段無駄に元気な方だったから、ご生母様も毎回半狂乱で大騒ぎするしね。それが面白いからって何度もお腹痛いー頭痛いーって」

「そうは言っても、こんなに頻繁に寝込まれてちゃ堪ったもんじゃないでしょう」

 ぴしっと言い放たれた言葉に、最初は諫めて宥めていた他の女官達も黙った。


 迷惑だと言わんばかりの口調で愚痴を囁き合っている小声に、天麗は高熱で朦朧と痛む意識の下で、悔しくて涙が出てきた。

(天麗がわるいわけじゃないわ。天麗だって、こんなのいやなのに)

 愚痴る女官達に腹が立つ。


 お前達になにがわかるというのだ。何日も高熱に魘されるつらさも、常に吐き気が込み上げて胸と胃に蟠る不快さも、咳込む度に背中や腹や身体の彼方此方が痛むことも、寝込んでいる故に萎えていく手足の怠さも、お前達にはわかるまい。

 腹が立って腹が立って、どんどん溢れてくる悔し涙に視界が歪んでいくが、この無礼な女官達に泣かされたのだと思うとそれがまた腹立たしくて、天麗は萎えた手で布団を頭まで引き上げた。

(どうして天麗ばかりこんなめにあわなければならないの……ひどいわ。天麗がなにをしたっていうの)

 朦朧とする頭の中で何度も罵る。嫌な態度の女官達も腹立たしいし、元気で駆け回っている他の兄姉達も恨めしいし、こんな弱い身体に生んだ母のことも呪わしかった。


「天麗公主様、額を冷やしましょう」

 すぐ傍で幼い声が告げる。

 力の入らない指先で布団を少し避けると、夕媛ゆうえんが小さな手で布を絞ってくれている。

「少しでも早く、お熱が下がりますように」

 そう言って、絞ったばかりの布を額に載せてくれた。

 載せられた一瞬だけはひんやりとして気持ちがよかったが、高熱の為にすぐに温くなって、じっとりと水気を含んで重たい布の載る不快さだけが残った。だが、その夕媛の気遣いが嬉しかった。

「……ぁりが、とぉ……きもち、いい……」

 なんとか礼の言葉を呟くと、夕媛はにっこりと微笑む。


 彼女は元々貧農の娘で、口減らしを兼ねて下働きとして王宮に買われてきたらしいのだが、天麗とは年が近いので遊び相手として召し上げられた。幸運な出世を遂げたのだ。

 体調がいいときは、あの嫌味な女官達の方が身のまわりの世話をしてくれて助かるのだが、弱っているときは夕媛の方がよく気が利くと思う。

 夕媛が傍にいてくれると、穏やかな心地になれた。苦しかった呼吸も少し楽になったような気がして、このまま少し眠れるかもしれない、とゆっくりと目を閉じる。


「夕媛、いますか?」

 せっかく意識を微睡みの沼に沈めようとしていたのに、唐突な声に引き戻される。

「姉さん!」

 僅かな苛立ちに薄目を開けると、夕媛が弾んだ声を上げて立ち上がった。

 引き止める間もなく、夕媛は戸口へと駆けて行く。呼びに来たのが夕媛の実の姉であることはその声でわかったが、そんなに嬉しそうに走って行かなくてもいいではないか、と天麗はムッとした。

「祝い膳をもらいに行って来たの。食べよう」

「わあっ! 美味しそう」

「あら、いいじゃない。先におあがりなさいな」

 姉妹の会話に女官の一人が交じる。そこへ他の女官達も加わった。

「私達もあとから順番に頂きに行くから、せっかくだし、あなた一番に行っていいわよ」

「いいんですか?」

「ええ。いつも時間合わなくて一緒に食べれないんでしょ? たまには姉妹で一緒におあがんなさい」

「ありがとうございます! 行って来ます!」

 弾んだ調子の夕媛の礼のあとに、走り出す足音が続く。それが徐々に遠ざかって行ったことで、彼女が局の外に行ってしまったのだとわかった。


(……あのこも、天麗をみすてるの)

 夕媛の声がすっかりと聞こえなくなってしまうと、腹立たしさと絶望感が心の奥を責めてきた。お前には誰も味方がいなのだと、気遣ってくれる人間などいないのだと、そう言うかのように。

 その気持ちに追い討ちをかけるかのように頭痛が増す。ひゅうひゅう鳴る喉が痛いし、熱もまた上がってきたような気さえもする。

 とにかくつらい。つらいという以外になんと呼べばいいのかわからないほど、つらくて堪らなかった。


 天麗はこんなにもつらいというのに、さっき夕媛の姉はなんと言っていたか――確か、祝い膳と言っていなかっただろうか。

 自分が仕えるべき主人が苦しんでいるというのに、祝い膳などを食べに行ったのだ。あまりにも薄情だし、心無いのではなかろうか。


 いったいなにを祝うつもりなのだ、と朦朧とする意識の片隅で考えていると、また誰かがやって来たようだ。

「お熱は下がられましたか?」

 穏やかな声が問いかけながら、額に載せられていた温くなった布を退かして手が触れてくる。その優しい触れ方に、天麗はほんの僅かに口許を緩めた。

「けいせい」

「はい、恵世けいせいでございますよ」

 やわらかな声音で応じてくれたのは、少し前まで天麗の面倒を見てくれていたとても優秀な女官だ。今は女官長という女官達の中で一番偉い役職についているらしい。

永清君えいしんくんがお見舞いにいらしておられますが、お会いになられますか?」

「しん兄様?」

「ええ。……お通ししてもよろしいですね?」

 天麗がほんの少しだけ笑みを浮かべると、恵世はすぐにその気持ちを汲んでくれた。この人のこういうところが好もしいのだ。


 だが、寝たままでお客様を迎えるだなんて、失礼ではないだろうか。

 少し不安になりながら、布団から顔を出しておく。寝間着を見られるのは少しだけ恥ずかしいので、首まではしっかり隠しておいた。


 ややして、恵世に案内された永清君が入室して来た。

「天麗。お加減は如何?」

 寝台の傍で立ち止まった永清君は、幼くとも女性の寝室だと気遣ってか、とばりの影から声をかけてくる。

「しん兄様」

 天麗が応じて手を伸ばすと、ようやく帳の影から顔を出し、女官が用意してくれた椅子に腰かけ、その手を握り返してくれた。


「何日も熱が下がらないと聞いたよ。まだつらそうだね」

 尋ねる声に、はい、と小さく頷く。

「でも、しん兄様がきてくださったら、すこしらくになりました」

「本当に?」

 疑わしげに尋ねられるのへ、天麗はしっかりと頷いた。

 嘘ではない。本当に、さっきまでのつらさがいくらか和らいで、呼吸も楽になっているのだ。もちろん熱は下がっていないし、頭ががんがんするのも変わらないが、会話をしても苦しくない程度には落ち着いた。

 気の持ちようともいうのだろうが、大好きな永清君に会えたことが嬉しくて、萎えていた気力が戻ってきたのだろう。


 永清君は握った天麗の手を撫でながら「よかった」と呟き、そっと笑みを浮かべた。

 その笑みを見れただけで天麗はもっと嬉しくなる。

 普段だったら、血色の悪い顔が真っ赤になってしまっていたかも知れないが、今は熱の所為で、多少火照ってもまったく変化がないだろう。いいのか悪いのかはわからないが、照れているのが丸見えにならないのは有難い。


「しん兄様、きょうは、いつもよりもすてきね」

 にこにこと見つめ合っていると、永清君がいつもよりもうんとおめかしをしていることに気づいた。普段から綺麗な着物を着てお洒落な人だが、今日はそれよりも手の込んだ刺繍が施されていたりして、盛装という感じだ。正装かも知れない。

 指摘を受けた永清君は自分の衣裳を見下ろして、僅かに苦笑する。

「さっきまで藍叡らんえい太子の即位式に参列していたんだ」

「そくい?」

「ああ、そうだよ。今日、藍叡太子が国王におなりだ」

 その言葉で、先程の祝い膳との繋がりがわかった。


 三月前に亡くなった父の跡を継ぎ、異母兄の一人が玉座に就いたのだ。その祝いのご馳走が、薪割りや水汲みなどをしている下働きの者達に至るまで振る舞われたということだ。

 つまり、天麗が何日も苦しんでいる部屋の外では、新王践祚に浮かれる人々がわんさかいるということなのだ。

 病弱で世間知らずな天麗だって、百日の喪が明けたら新王が即位することぐらいちゃんと知っている。百日経った頃で佳き日を占見で選び、準備を整えて儀式を行うのだが、それがたまたま今日になったのだろうということも理解出来る。


 理解出来るが、腹立たしいことには変わりない。

 どうりで母の見舞いもない筈だ。いつもなら、三日に一度ぐらいは顔を見に来るのに、今回は一度も来ていない。

 別に母に会いたいわけでもない。そんなに好きな人でもないし、寝込んでいると心配した振りをして嫌味を言うし、嫌そうな顔を隠しもしないような人なので、具合が悪いときにはあまり会いたくない。

 それでも、高熱で何日も寝込んでいる実の娘より、毛嫌いしていた側室の子の践祚の方を重要視しているのかと思うと、明らかに蔑ろにされていてとても嫌な気分だ。


 悶々とした気分を抱えていると、気を引くように手の甲を軽く叩かれた。

「お土産を持って来たのだよ」

「おみやげ?」

 ちょっとだけ首を傾げると、控えていた女官が籠を差し出した。

だいだいだよ。何日も食べれていないって恵世が言っていたから、果物なら食べられるかと思って持って来たんだ」

 籠の中には少し大振りな橙が十五個程入っている。


 けれど、橙は酸っぱい。もちろん甘いものもあるが、そのほとんどが酸味の強いものだと天麗は認識している。

 無意識に顔を顰めると、永清君は笑ってひとつ手に取った。

「酸いのは嫌い?」

「……はい」

「じゃあ、酸いか甘いか、確かめてあげようね」

 その丸みを確かめるようにくるりと撫で、少し窪んだところに両手の親指を突き立てた。

「永清君、そのようなことは私どもが……」

 手ずから皮を剥こうとする永清君の様子に、女官達は少し慌てたように口を挟んできた。貴人の手を煩わせるわけにはいかないし、素手でやっては汚れてしまう、と。

「気にしないで。わたしが天麗に食べさせたいんだ」

 そう言ってやんわりと断った永清君は、手際よく皮を割り、一房捥いで天麗に見えるように口に入れた。

「……うん、当たりだ。甘くて美味しいよ」

 ゆっくりと噛んで飲み下し、にっこりと微笑む。


 その一連の動作に、天麗はぼんやりと魅入ってしまっていた。

「ほら、お口を開けて」

 ぼんやりしていたので、そう言われて素直に口を開けてしまったのは仕方がないだろう。


 気がつくと、口の中に橙が一房入れられていたし、大好きな永清君の指先が唇をそっと撫でて離れた。

 そのことにドキドキと心臓が早鐘を打つのを感じながら、一生懸命に口を動かす。しばらくまともに食事をしていなかったので、噛むという動作はなかなかに重労働だ。

 口の中に広がった果汁は確かに甘く、薄皮も簡単に噛みきれるほど柔らかかった。


「どうだい? 美味しいかい?」

 もう一房捥ぎながら永清君が尋ねる。頷けば、新しい一房がまた口の中に入れられた。

 いくら普通より大振りといっても、小さな橙はあっというまになくなってしまう。けれど、ひとつでも食べきれたということに、控えていた女官達は静かに驚いていた。

「まだ少しは日持ちするだろうから、何度かに分けて、食べられるだけ食べるといいよ」

「はい、しん兄様。ありがとうぞんじます」

 少しでも食べられるものは天麗としても有難い。ここのところずっと、食べてもすぐに吐いてしまうし、お腹が空いているのに食べたくなくて、無理矢理食べればやっぱり吐いてしまって、どんどん体力がなくなっていっていたのだ。


「早く元気になるんだよ、天麗」

 満足して吐息を漏らすと、優しく額を撫でられる。その様子に天麗は笑みを向け、うっとりと頷き返した。

 王宮の外で暮らす永清君には滅多に会えない。両親の末の弟なので、なにかの行事の度に登城しては顔を見せに来てくれていたが、代替わりしてしまったので少し疎遠になるかも知れない、と以前女官達が言っていたのを聞いた。それは少し嫌だった。


 なので、今にも帰りそうな雰囲気の永清君を引き留めるように、その手を掴んだ。

「……どうか、またきてくださいね、しん兄様。天麗は、いつもねてばかりだし、さびしいのです」

 自然と目を潤ませながら言えば、永清君は微笑んで頷いてくれる。

「もちろんだとも。それにね、天麗。あなたが絵巻物を好んでいると聞いたから、腕利きの絵師に描かせているものがあるんだよ」

「わざわざ?」

「そうだよ。美しい恋物語なんだ」

 部屋からあまり出られない天麗の為に、書棚には小説がいくらでもあるが、恋物語など大人向けのものだと言われて、まだあまり読んだことはない。


「もうそろそろ完成するそうだから、それを届けに来るよ。だから、それまでに熱を下げて、元気になって、一緒に見よう」

 ね、と念を押すように言われ、天麗はすぐに頷いた。

「おやくそくですよ」

「ああ、約束するよ」

 はっきりと頷いてくれたことに安心して、天麗はそっと目を閉じる。もっとお話していたかったのに、疲れてしまったようだ。和らいでいた苦しさと怠さが強まってくる。

 天麗の様子に気づいた恵世が、永清君に退室を促す。彼も心得たもので、負担をかけてしまったようだ、と短い詫びの言葉を口にしてから静かに立ち去った。


 入れ替わるようにして、食事に行っていた夕媛が戻って来る。それに気づいた天麗はちょっとだけ腹立たしさを思い出したが、また数日中に永清君が訪ねてくれる楽しみのことを思い出せば、夕媛のことなど些細なことではないか。

 早く元気になる為には、またあの不味い薬湯を飲まなければいけなのだろう、と頭の片隅で思いつつも、永清君と会う為には頑張ろう、と心に決めて布団に潜り直した。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る