十一 王と王后(三)



 父だという男に、初めて対面した。

 遠目に何度か見かけてはいるので顔は知っていたが、こんなにも間近で見たことはなかったし、その歌うような柔らかな声音をはっきりと聞くのも初めてだった。


そう利星りせいでございます。拝謁賜り、恐悦至極に存じます」

 色の白い細面が自分とよく似ている男から発せられたまるで他人のような挨拶口上に、鈴雪りんせつもまた静かに頷き返す。


「父上――と、お呼びすべきでしょうか?」

 呼びかけの言葉に迷って尋ねると、利星は僅かに双眸を瞠って顔を上げるが、すぐに苦笑を浮かべて首を振った。

「そう呼ばれる必要はない。当家の末娘銀珠ぎんしゅは、手放したときに亡い者と致した。わたしのことを無理に親と思う必要もございません」

「では、利星殿と」

 姓で呼ぶのではあまりにも他人行儀過ぎると感じたので、名を呼ばせてもらおうと思うと、利星は微かに笑んで頷き返した。


「先日来より、不肖の息子がご迷惑をおかけしたことを、まずはお詫び申し上げる」

 申し訳程度に下げられた頭に、やはり知っていて放置していたのか、と少々呆れる。

「迷惑をかけているとわかっていたうえで、あの方の行動を黙認なさっていたと?」

「そうです」

「私の評判を落とす為ですか?」

「そうなればよいと思っていたのは事実です」

「私を王后から廃位させる為に?」

「最終的には、そう出来ればよいとは考えておりました」

 包み隠さず述べられる返答に、控えていた玉柚ぎょくゆうが思わず拳を握り締める。その様子に気づいた鈴雪は目配せでその場に押し留めさせ、小さく溜め息を零した。


 なんとなくそんなことだろうと思っていたのだ。しかしそれをはっきりと肯定されると、怒ればいいのか、呆れておけばいいのか、微妙な心地になる。

「世の中は、そんなにも簡単なものではないでしょうに……」

 そんな心中を小さな声で呟き零すと、利星は微かに双眸を眇め、同意を示したようだ。


「口を挟んで申し訳ございませんが、ひとつ、お聞かせ願いたく存じます」

 抑えさせたのに我慢が出来なくなったのか、玉柚が珍しく出しゃばった態度に出た。

 玉柚、と窘めるように呼ぶが、利星は気にしなかったようで、頷き返した。

「何故鈴雪様を不遇に追いやろうとなさるのです。亡い者としているとしても、血を分けた御息女ではございませんか」

 責める口調で問う玉柚の言葉に、その通りだ、と利星は頷く。

「長くこの方にお仕えしているお主ならば、わかるのではないか? 何故、王后の座から降ろさなければならぬのか」

 核心を伏せて語られる答えに、玉柚は言葉を詰まらせる。

 実の父親なのだから知っていて当然のことなのだが、自分達が他所に漏らすまいと秘して来たことが他人の口から語られると、どうにもおかしな緊張を感じてしまう。


 玉柚の強張った表情を見つめたあと、利星は微かに苦い笑みを浮かべた。

「どうせすぐに気づかれて、王后にするわけにはいかぬ、と――そう言われるのだろうと思っていたのです。呆れるほどの誤算でしたが」

 それはそうだろう、と鈴雪自身も思う。


 初めて後宮に連れて来られたとき、鈴雪はまだ幼かったが、自分の身体が異常であるということは理解していたので、触れられることを酷く嫌がった。世話を焼いてくれる女官達も、触るな、放っておいてくれ、と号泣する子供にほとほと手を焼いたのか、御廟に帰らせるという願い以外は、鈴雪の言うことをほとんどすべて諾として聞いてくれていた。奇しくもそれが鈴雪の秘密を覆い隠すこととなったのだ。

 それからすぐに後宮を出されて離宮に移されたので、秘密を知る利星達は安堵したし、鈴雪も自由が利くようになったので怯えることはなくなった。ある采女げじょにそのことを知られて酷い侮辱を受けたこともあるが、それ以外の不都合を感じるようなことはなかった。


 ふう、と利星は吐息をついた。

「……ご自分から、廃位を願うことはないのか?」

 利星達の請願は結論を保留にされたままだ。

 何故そのようなことを願うのか、と藍叡らんえいに問われ、彼にだけは本当の理由を話した。それだのにあの王は「構わぬ」とはっきりと言ったのだ。どのような身であれ、鈴雪が藍叡の王后であるという事実に変わりはないし、その程度のことを理由に廃するつもりはないということだ。利星にはその言が信じられなかった。

 藍叡がそのように考えているのならば、逆に鈴雪自らが廃位を願えばよい。それならばあの王でも拒むことは出来ぬだろう、と思っていたのだが――


 鈴雪は利星の言葉を反芻して考えたあと、いいえ、とはっきりと首を振った。

「先日、王様にもお伝え致しました。私が王后という地位にいることで王様のお役に立てることがあるのなら、お支えしていきたいと」

 その気持ちを告げたとき、そう思ってくれたことが嬉しい、と藍叡は言ってくれた。だから鈴雪は、そのように今後は生きようと考えたのだ。


 利星はもう一度静かに嘆息し、額に手を当てて眉根を寄せた。

「……は、王を害すると、恐ろしい託宣を受けた娘だ」

 苦しげに零された言葉に、鈴雪は双眸を瞠る。

 親子の縁はないとはっきりと言いきっていた男が、父親のような言葉を口にしている。つまりこれは、彼の本心なのだろう。不吉な託宣を下された娘が、王自らが望んだこととはいえ、王の傍らに在ることに不安を感じているのだ。

 そして、もし万が一王の身になにかが起こったときに、自分達にもその咎の類が及ぶことを懸念しているに違いない。


 鈴雪は静かに、ただ静かに、懊悩を見せる父を見つめ返した。

 生まれたばかりの赤子を遠く辺境の地に手放したことは、ひとえに自分の家族を、一族を守る為のことだった。それを鈴雪は少し悲しんだりもしたが、悩みもしなかったし、恨むようなこともなかった。幼いながらもそれが仕方のないことだと感じたからだ。

 けれどこの利星は、不吉な託宣を授かった宋銀珠という娘のことで、深く思い悩む日々を過ごしたのだろう。

 その苦悩の日々は未だ終えず、鈴雪が生きてこの場にいるからこそ、今もそうなのかも知れない。


「それでもお前は、主上のお傍に在りたいと思うのか」

 鈴雪が黙っていると、利星はもう一度尋ねる。王后で在りたいのか、と。

「はい」

 鈴雪は明瞭とした声で頷いた。

「王様にお約束致しました。そして王様も、私が王后で在ることを望んでくださいました」

 何処の誰から否定されようとも、強い決意の許で誓ったこの約束を違えるつもりは、今のところは一切ない。藍叡にもういらぬと言われるまで、彼を支える力となりたいのだ。


 王后としての地位を得てからもう少しで九年になる。その間、鈴雪は王后としての務めはなにも果たすことはなく、治めるべき後宮すら不在にしている状況だった。その間に王太后は懐妊した側室達に秘密裏に流産を促し、その娘である天麗てんれい公主は、身勝手な理由で罪のない幼子達の命を奪っていた。それは、鈴雪が王后として後宮に在れば、防げていたかも知れない凶事だったことだろう。

 この歳月の間に鈴雪が成したことといえば、神託に従って藍叡の許へ嫁いだことくらいだ。


「私は藍叡王の正室、王后の鈴雪です。世継ぎを生すことは出来ずとも、王様をお支えすることは出来ます」

 離宮で隠棲している間に多くのことを学んだ。妃嬪とはどういうものなのか、王后とはどのようなことを許され、触れてもいいものなのか、ということを身につけた。もちろん難しいことはまだわからないことが多い。それでも藍叡を支えると決め、彼もそれでよいと受け入れてくれた。


 これから鈴雪と藍叡は、お互いを支えて高め合う好敵手でいて戦友のような、そういう関係を築いていく筈だ。

 世の中の夫婦や、王と后という関係からは程遠いかも知れないが、これが二人にとっては最善なのだと思う。



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