十一 王と王后(二)



「――…私は、あなたのことが、大嫌いでした」


 静かに口を開き、微かに上擦る声が紡いだのは、そんな言葉だった。

 藍叡らんえいは僅かに双眸を瞠って顔を上げるが、なんともいえない笑みに顔を歪め、溜め息のように「そうか」と呟く。


「あなたは私になにも言わず、教えず、急に真っ暗な馬車に閉じ込めて、こんなところにまで連れて来た。そうして、幼かった私に、とても酷いことをした――それが、ずっと許せませんでした」

 鈴雪りんせつは言葉を続ける。今までずっとずっと言いたくて堪らなかった本心だ。


「……では、俺といることは、苦痛であろう?」

 切々と吐露した心情に、藍叡は静かに問い返す。鈴雪は藍叡を見つめ返した。

 この言葉に頷けば、彼はきっと鈴雪を、この絢爛で残酷な檻から解放してくれる。


 けれど、それではいけない――と鈴雪はわかっていた。藍叡の優しさに甘えるばかりではいけない。この先も彼の庇護から抜け出せなくなる。

「いいえ」

 緊張から乾いてくる唇を噛み締め、深く息を吸い込む。

「今は、あなたを……尊敬しています」

 十年近くもの間抱いていた嫌悪が綺麗に消えたわけではない。それでも、このひと月ほどの間、藍叡の近くに暮らしてその為人ひととなりを見て、対話を重ね、鈴雪の中にあった恐ろしい男の像を塗り替えることは出来た。


「私も、もう子供ではありません。なにもわからず、ただ泣いているだけではなく、自分の言葉で意志を伝えることも、状況を見て、多少は難しいことを考えることも出来ます」

 そっと手を伸ばし、卓の上でゆるく結ばれていた藍叡の拳に触れる。

「この身に与えられた王后という身分――それが、国王を支える為のものであるというのならば、私はあなたを支えたい」

 重ねた掌の下で、藍叡の拳がびくりと揺れる。

「後宮のことはおろか、宮中のことにも疎い私では、たいしたお力になどなれないとも思います。それでも、可能ならば、王様を支える手足のひとつになりたい」

 見つめ返してくる瞳が驚愕に揺らめいていた。

「あなたが私に王后としての立場を望むのならば、私は後宮の主として、妃嬪達の長となりましょう。先日のように朝議の場での意見を望まれるのならば、私は政を学びましょう」


 慣例と聞いていた朝議の場へ同席した際、護岸工事の普請について意見を求められたことがある。鈴雪は拙いながらも己の考えを伝えると、藍叡は楽しげな笑みを向け、その意見を採用してくれた。そのことが少し驚きであったと同時に、嬉しかったのだ。

 それからも何度か意見を求められたことがある。すべてが採用されたりなどはしなかったが、時には参考にしてくれ、時には対立意見として面白がってくれた。そうしたやり取りがとても嬉しく、はっきりと遣り甲斐を感じた。

 官吏の登用試験は女の身では受けられない。けれどこの王后という立場ならば、女の身でも政務の場で藍叡の助けになることが出来る。

 鈴雪はそういう者になりたかった。


 その鈴雪の言葉を聞いていた藍叡は、静かに目を閉じる。深く考え込むように息を吐き出し、改めて鈴雪を見つめた。

「それが、お前の、新しい望みか」

「はい」

「もう廟へ帰らせろとは言わぬのか?」

 少し揶揄からかうような口調で告げられる言葉に、鈴雪は苦笑を浮かべる。

「婚儀の席に引き出されたときに、すべてを諦めました」

 豪奢で重く、身動きの取れない婚礼衣装を着つけられたとき、もう戻れぬのだ、と鈴雪ははっきりと思った。だから、あの日以来、御廟に帰らせてくれ、と言ったことはない。ただ王から与えられた場所に留まり、静かにしていた。それが自分に与えられた役目なのだと理解したから。


 そう伝えると、藍叡は「そうか」と頷いた。強張っていた口許が微かに笑む。

「俺の妻としてではなく――よき友として、俺を支えたいと?」

 確かめるように返された言葉に、鈴雪はハッとする。

 彼はきっと、鈴雪に妻として、継嗣あとつぎを生むことを求めている。それをはっきりと言葉にも態度にも出さないのは、鈴雪を酷い目に遭わせたことを深く悔いているからだ。

 こちらに戻ってからも、何度か夜伽と称して呼び出され、夜更けに面会していた。いつも後宮での様子を報告したり、相談事などをしていたが、もしかすると彼は、そのうちの何度かは、鈴雪を抱こうと考えていたのかも知れない。それでもなにもしなかったのは、やはり彼の伝わりにくい優しさからなのだろう。


(言わなければ……)

 どくり、と心臓が大きく歪な鼓動を打つ。

 藍叡が鈴雪に妻としての身を望むのならば、黙っていることはもう出来ない。


「――…どうか、お許しください。王様」

 そう言って頭を下げると、突然の謝罪に藍叡は双眸を瞠る。

「許す? なにを?」

 怪訝そうな問い返しに、鈴雪は頷いて立ち上がった。

「お目汚しを、失礼致します」

 緊張から震える声で断りを入れ、長衣を脱ぎ落して帯を解く。

 驚いた様子で凝視して来る藍叡の目の前で、鈴雪は着ているものをすべて脱ぎ落した。


私です」

 顕わになったその肢体に、藍叡は言葉を失くす。


 雪の字を当てることを決めさせた白磁の肌は、緊張と羞恥からか薄紅色に染まって震えている。なだらかな曲線を描く肩の下、小振りながらも形よく丸みを抱いた乳房に、艶やかな黒髪が滝のように流れかかり、その肌の白さを一層際立たせて艶めかしい。


 見てくれ、と晒されたその肢体を確かめるように視線を辿らせて行き、肉づきの薄い腹を目にしたあと、藍叡は僅かに呻くような声を漏らした。

 その様子を見て、何処か悲しげな笑みを浮かべる。

「男でも女でもなく、男でも女でもある――それが私なのです」

 薄い腹から続く淡い茂みの下。骨と皮しかないような細い脚の間に、確かな陽のしるしが在った。女性には生来存在し得ないものだ。


「私は、子を生せません」

 言葉もなくこちらを凝視して来る藍叡に向かい、鈴雪は告白する。

「私のこの歪な身体は、孕むこともなければ、孕ませることも出来ぬのです」

 はっきりと確かめたことはない。けれど、月の障りもなければ、精を放つこともない。男女どちらの性も持っているのに、男性としても女性としても不完全だった。

 天麗てんれいは嫌悪も顕わに「化生バケモノ」と鈴雪を呼んだ。誰から聞いたことなのかは知らないが、彼女はこの身体のことを知っていたのだ。


「私の父親という方が、王后を廃位にしろと請願していると伺いました。この身体のことをご存知だからこそ、そう奏上されたのでしょう」

 歴代の王后の中で、子を産めなかった王后は一人もいない。死産や夭逝で継嗣になった子がない者はあっても、唯の一人も子を生さなかった者はいない。

 初めから子を生せぬとわかっている者を王后という地位に据えるのはよろしくない、と訴えるのは自然なことであり、廃位を願ってもなんら不思議はない。元々王后に迎えることに最後まで反対していたとも聞く。それとも、この歪な身体の事情を余人に報せぬ為の配慮か、と親心の有無を思いもするが、そういうわけではないだろう。


 黙ったままでいる藍叡の様子に、鈴雪は悲しげに微笑む。

 八年前の婚儀の夜、寝台に押さえつけたときに、すべてを見てくれていればよかったのだ。そうすれば彼は、一度として鈴雪を女として見ることはなく、そんな表情をすることもなかっただろう。


(なんだか、少し、すっきりした……)

 ずっとこのことが胸に痞えていた。早く伝えなければならないと思っていたのだけれど、伝える機会がなかったのだ。

 身の回りの世話をしてくれていた玉柚ぎょくゆうがとっくに伝えているものだと思っていたが、そうでもなさそうだ、と黙り込んだままの藍叡の様子に思う。



「――…お前は、俺になにを望む?」

 秋の気配の濃くなってきた夜気に素肌が冷やされ、思わず身震いしたとき、藍叡がぽつりと零す。


「逆に、俺はお前に、なにを望んでもよい?」

 その不思議な問いかけに首を傾げながら、脱ぎ落した長衣を拾い上げて羽織っていると、藍叡が立ち上がった。振り向いたときにはもう間際に来ていて、肩を掴まれて驚く。

「触れ合うことをを求めたら、お前は俺を拒むか?」

 遠回しで遠慮のある物言いに、鈴雪は僅かに頬を染める。

「お伝えしました通り、私は子を生せません。お世継ぎのことは、他の側室の方や、新しい方を迎えられて……」

「わかっていないな」

 そう言って微かに唇の端を上げ、今羽織直したばかりの長衣を肩から滑り落とさせる。


「お、王様……!?」

「肌を重ねるのは、子を生す為だけではない。心を確かめ合うものでもある」

 肩を撫でた指先が首筋に触れ、頬に触れたかと思うと、顎先を持ち上げた。擽ったさと共になにか他の感覚に背筋がぶるりと震えるが、それに顔を顰める間もなく、鼻先が触れ合う距離まで藍叡が顔を近づけて来た。

「俺はお前の心を確かめたい」

 藍叡の望んでいることをはっきりと理解した鈴雪は、今度こそ顔を顰めた。

 大罪を犯したとはいえ、何人もの人が刑に処された直後だ。盛るのは不謹慎ではないだろうか。


 それに、今までこういうことを求められたことがなかったので、藍叡が本気で言っていることなのか、その心中を測りかねる。

「――…子を生せぬ私に、女を求めるのですか?」

「嫌か? ならば、男と同じように抱いてやる」

「どういう――」

 問いかけた声は唇で塞がれてしまう。

 突然のことに驚いて身動ぎひとつ出来ずに硬直していると、藍叡はにやりと笑った。

「拒まぬな?」

「驚いたのです」

 即座に反論するが、それは聞かないことにしたのか、無視して鈴雪を引き寄せると、そのまま肩に担ぎ上げるようにして運ばれる。


 離宮から連れ戻されたときのようだ。あのときの腹立たしさを思い出してカッとなるが、寝台の上に降ろされたことに気づき、眉根を寄せた。

「……王様が、私にこういうことを望まれているとは、思いもよりませんでした」

「抱くつもりはずっとあった。だが、忌まわしい過去のことに怯え、嫌悪も顕わにしている者を手籠めにするほどには非道ではない」

 鈴雪の嫌味な物言いに答えながら帯を解き、着込んでいた官服を脱ぎ落す。

「お前はよき友として、俺を支える手足のひとつになりたいと言った。それはとても嬉しい。だが、お前は俺の妻だ、鈴雪。その事実だけは譲らぬ」

 肌着も脱いで素肌になると、黙って見上げてきている鈴雪を見下ろす。


「一度だけでいい。俺の妻となれ」


 随分と傲慢な言い様ではないか。鈴雪は僅かに眉を寄せて瞬いた。

「八年も離れていたのだ。証が欲しい」

 何故そんな懇願するような口調で告げるのだろう。王命だと言えば鈴雪は逆らわないし、力尽くで押さえ込んでしまえば拒むことは出来ないのだから、そうしてしまえばよいものを、と思うが、そうしないところが、彼の心根の優しさの所以だろう。


 鈴雪は静かに目を閉じ、力を抜いた。それが答えだ。


「寝所では、俺を藍叡と名で呼べ」

 首筋に優しく口づけながら、藍叡は囁いた。

「王后にだけ許す」

 頷くと、唇が肌の上を辿っていく。


「私の名も、呼んでください」

 やわらかく温かな優しい感触に思わず吐息を漏らしながら、鈴雪は囁いた。

「藍叡がつけてくださったこの名が、好きなのです」

 そうか、と頷いた藍叡の声が、とても優しく響いた。



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