十一 王と王后(一)
翌朝目覚めた
床に就く前までは普段と変わらない景色だったのに、今は庭や回廊に大輪の菊の花が溢れ、なんとも見事な光景だ。
皆が寝静まった深夜から早朝にかけて、園丁達が物音を立てないように細心の注意を払いながら、こうして王宮中を菊花で満たしていくのだという。
贅沢なことだ、と思いつつ、園丁達が負わされた苦労を偲ぶ。
鉢植えのひとつひとつはそう軽いものでもない。この広大な後宮中へ、そんなものを物音ひとつ立てぬように数百以上も運ばされ、どんなに大変だったことだろうか。
「
お礼と、少しでも労ってあげたい、という気持ちから、ついそんな言葉が口をついた。
玉柚は微笑み、大丈夫ですよ、と答えた。
「本日は休みを与えられ、主上から御酒と料理が振る舞われている筈です」
それならば安心だ。美味い食事に舌鼓を打ちながら、ゆっくりと休養を取ってもらいたい。そして英気を養ったら、美しい庭園の花々をまた守っていって欲しい。
着替えをしながら、
こんなに見事な菊の花を一人で眺めていても、少し寂しい。
「寧貴妃と
鈴雪のその意見に玉柚は少し驚いたが、さあ、と首を傾げて微笑んだ。
「ご提案なさってみますか?」
最近の二人の様子から考えると、誘っても断られることはなさそうだと玉柚は思う。
お願い、と頼まれたので、書簡を宛ててみては如何か、と
誰かに手紙を書くなど初めてのことだ。慣れないながらも、昨日の見舞いに対する礼を述べ、言われていたように朝になって驚いたことを綴り、もしよろしければ一緒に菊花を見ないか、と控えめな誘い文句で結んだ。
「お茶菓子とかお料理とか、急に言って用意してくれるかしら?」
手紙を届けてくれるように頼んだあと、鈴雪は不安になってしまう。材料などもいるだろうし、急に言っては厨番の者達に迷惑ではないだろうか、と。
大丈夫ですよ、と玉柚は笑った。
「食材などはすぐに都合をつけられますし、問題ありませんよ。今すぐということではなく、少し時間に余裕を与えてやれば、料理人達も嫌がったりしないでしょう」
「では、そのように」
「畏まりました」
頷いた玉柚は手早く指示を出し、茶話会の席を設けるのに丁度いい場所を用意させることも忘れない。まったくもって有能な侍女だ。
ふと、欠けた者の姿に思いを馳せる。
玉柚と同じように、的確な指示と判断で鈴雪の身のまわりを整えてくれていた
その恵世は玉柚の母の妹であり、元女官長という立場だ。その者が犯した大罪は親類縁者にも及ぶものと思われたが、恵世が斬首となることで赦されたのだと玉柚から聞いた。
実の叔母であり、女官としての先輩であり師でもあった恵世の死を、彼女はどう思っているのだろうか。普段と変わらぬ表情と態度からはなにも窺い知れなかった。
(これで、すべて終わったのよね……)
寧貴妃達からの茶会への同意の返事を受け取りながら、不意に不安になる。
子殺しの犯人は
それでもなにか、胸の奥に
「茶会をしたと?」
夜も更けて随分とした頃、昼から続いていた宴がようやく終わったのか、
「宮中での重陽節のことはよく存じ上げませんでしたので、御指南頂こうかと」
「懇意になったものだな」
意外に思っているような口調で言って笑った。
「寧貴妃も、黄賢妃も仰っていました。なにか、憑き物が落ちたかのような心地だ、と」
茶会のときに三人で話して同意していた言葉を伝えると、藍叡もなにかに気づいたような表情で瞬いた。
「憑き物……か」
長く後宮に巣食って子殺しを続けていた女達の妄執は、まさに魑魅魍魎の如くだ。言い得て妙だと感じたのだろう。
「ああ、そういえば、お前から進言のあった
「そうですか。一案になったのならば幸いです」
頷きながら藍叡の横顔を眺め、以前より随分と
一連の恐ろしい出来事を起こしていたのは亡くなった筈の末妹で、どう処罰を与えるかも議論は紛糾したことだろうし、彼女が玉座を与えようと考えた永清君の存在も看過出来ずになった。行方を眩ませた
そんなに疲れた様子だというのに、長々とした宴会に臨席していたのかと思うと、身体のことが心配になってしまう。大丈夫なのだろうか。
鈴雪の視線に気づいた藍叡は、茶を飲み干してしまうと、小さく咳払いをした。
「話があって来た」
そんなことはわかっている。彼が鈴雪の許を訪れるのも、彼の部屋に呼び出されるのも、話があるときだけだ。それ以外なにがあるというのだろうか。
改まった態度でいったいなんなのだ、と僅かに訝しんで見つめ返すと、藍叡はもう一度咳払いをする。
「――…お前は、俺の子を産むつもりはあるか?」
ややして向けられた言葉に、鈴雪は瞬く。
「俺はこれから、お前に、俺の妻として接していいものか?」
酷く言いづらそうに告げられる言葉に、鈴雪はもう一度瞬いた。
「八年――いや、もうすぐ九年だな。お前を、人攫いのようにして、都に連れて来たのは」
空になった茶碗に視線を落としながら、選ぶようにゆっくりと紡がれる言葉に、鈴雪は目の前の男の心中を推し測る。
幼い鈴雪を無理矢理王后に封じたことを、ずっと悔いている、という話を聞いたのは、こちらに連れ戻されてすぐのことだっただろうか。
なにを今更、そのようなことを改まって問うのだ、と少々腹立たしさを感じる。
御廟から連れ出された日から――鈴雪というこの名を与えられたときから、鈴雪は藍叡の妻なのだ。どう接しようとも、そんなことに確認を求める必要はない。
鈴雪に王后としての務めを果たせと、子を産めと、そう思っているのならば、婚儀の晩のときのように、力尽くで抑えつけてしまえばいいのだ。鈴雪ももうあのときのように、なにも知らない子供ではない。たとえ嫌でも、それがこの身に課せられた務めならば、黙って耐えよう。
腕っ節に覚えのあるわけでもない鈴雪が、武人としても才のある大柄な藍叡に、力で敵うわけがない。それでも、その力に訴えようとしないで、鈴雪の意思を確認しようというのは、長い間抱えていた後悔からくる良心なのだろう。
(この方は、優しい方なのだ)
優しすぎる故に、多くのものを失うことになってしまったのだろう。
聡い人であるだろうに、不器用な方だ――鈴雪は目の前の男を見つめながら、彼のことをそう評した。
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