十 顛末(四)


 ふと、先日桃を届けてくれたときのよう昭儀しょうぎの様子を思い出す。


 おっとりと優しげに微笑んだ丸顔を思い起こし、彼女の口から天麗てんれい公主の名を初めて耳にしたのだ、と気づいた。

 もしかしたら楊昭儀は、鈴雪りんせつになにか――注意か警告を与えてくれようとしていたのかも知れない。だからまったく関係のない、何年も前に身罷みまかった筈の公主の名を聞かせたのではないだろうか。


「桃を……頂いたのです。楊昭儀から」

 ぽつりと呟き零れた鈴雪の言葉に、ねい貴妃きひこう賢妃けんひは顔を上げる。


「とても美味しい、唐雲とううん県の、桃を」

 ああ、と黄賢妃が頷いた。

娘子じょうしがお食べになられた桃か。だが、毒は桃にではなく、手巾てふきに染み込ませてあったのだと聞いたが」

 鈴雪は茶碗や皮剥き用の小刀など、口に入れるものに触れるものを手拭い等で拭く癖がある。その癖を知っていた夕媛ゆうえんが、毒汁を手巾に染み込ませ、小刀と一緒に桃の傍へと置いておいたのだという。


 桃は関係がなかろう、と言われるが、なんとなく引っかかる。

「唐雲県にご親戚がお在りだと」

「楊家がですか? まさか。楊一族は東州の出で、一門は皆様そちらにおられる筈です。北州の唐雲県にはおられないと思いますけれど」

 官職を得る貴族階級の者は、移住する場合でも一族纏まってであるし、長が改易されれば一門すべてに及び移動する。婚姻関係を結ぶ場合でも、余程の事情がない限り同じ地方出身の者と縁談を取り決めることが普通だ。楊家は寧家、そう家などに比べればかなり家格は低いが、要職を得るような貴族ではある。この慣習に従っている筈だ。

 鈴雪が気にし過ぎているだけで、特に意味はないのだろうか。


 少し腑に落ちない心地になりながらも話を切り上げるが、不満を感じていたのが表情に出てしまっていたのか、玉柚ぎょくゆうが「主上にご報告しておきましょう」と言った。

「鈴雪様が気にかかると感じられることは、必ずなにかしら理由があることです。昔からそうではないですか。唐雲県が気にかかるのでしたら、それが楊昭儀の行方に繋がるかも知れませんね」

「そうだといいのですが……」

 確かに幼い頃から、妙に勘が働くときがある。特に失せ物を捜しているときなどは。

 しかし、今まで勘が働いていたのは小物に対してだけだ。行方知れずではあるが人間に対して感じたことはあまりない。それでもいい方向に行ってくれればいいのだが、と眉尻を下げると、玉柚が微かに笑みを浮かべる。

「ご自分の直感にもう少し自信を持たれてもいいと思いますよ。その直感に何度も助けて頂きましたもの」

 そう言われるとなんとなく気恥ずかしい。鈴雪は僅かに頬を染めて頷いた。

 玉柚は紅可こうかを呼び、こう侍従へ藍叡らんえいへの伝言を頼むように言伝た。


「娘子には占見うらないの力がおありか?」

 話を聞いていた黄賢妃が不思議そうに尋ねるので、鈴雪は慌てて首を振る。

「そんなに大層なものではないのです。失せ物を捜すときに勘が働くというか、気にかかるところを辿ると見つかりやすいという、その程度のものです」

 この直感も失せ物捜し以外にはあまり反応しない。

 どうせだったら未来視さきみでも出来ればよかったのに、と苦笑すると、そんなものがあればどんなにいいか、と黄賢妃と寧貴妃も笑った。


 場の空気が和やかに落ち着いた頃、寧貴妃が「そうだわ」と手を打った。

「娘子にお土産をお持ちしたのに、お渡しするのをすっかり忘れていましたわ」

 そう言って侍女の偲媚しびを呼び寄せる。

 差し出された小さな包みを受け取り、それを改めて鈴雪へと差し出す。

「どうぞ、娘子。菊花茶ですの」

 礼を言って受け取る。

 わざわざ手土産に持参してくれたくらいなのだから、特別なものなのだろうか、と美しい織りの包み布を見つめる。この布にも菊の花の刺繍がしてある。


 鈴雪が不思議そうに受け取った包みを見つめていると、二人の妃嬪達は小さく笑い声を零した。

「やはりお気づきになられておられぬようだ」

「そのようね」

「なにがですか?」

 本当にわからなかったので素直に尋ね返すと、寧貴妃が「明日はもう重陽節なのですよ」と答えてくれた。

 ぱちりと瞬き、急いで頭の中に日付を思い浮かべる。いろいろあって寝台でうつらうつらとしている日が続いていた為、そんなに日が過ぎていたとは思わなかった。


 重陽節には無病息災と長命を願い、菊の花を浸した御酒を飲む。しかし鈴雪は酒類を嗜まないので、菊花茶を用意してくれたらしい。

「お気遣いありがとうございます。明日、頂きます」

 改めて礼を告げると、寧貴妃は微笑んだ。それは鈴雪が今まで見て来た彼女の表情の中で、一番柔らかく感じられるものだった。

 ふと見てみると、お茶を啜っている黄賢妃の目許も柔らかく下がっている。

 二人のそんな様子が、鈴雪はなんだか嬉しかった。


 後宮に戻ってからいろいろとあった。湯殿で寧貴妃に嫌味を言われたり、黄賢妃からは氷菓に玻璃の欠片を入れられたり、あまり気分のいい初対面ではなかった。それでも二人は中毒で倒れた鈴雪の為に奔走してくれたり、こうして見舞いに来てくれたりしている。

 楊昭儀はもう戻らないかも知れない。戻っても、罪人として扱われることだろう。

 この二人の妃嬪が、鈴雪と共に藍叡に仕えることになるのだ。


 寧貴妃と黄賢妃はずっと仲が悪かったようなのだが、今はそこまで険悪ではないようだし、親しく付き合っていけるといい、と鈴雪は思う。

 この二人と藍叡の寵を争い合うというのは、なんとなく想像が出来ない。それは鈴雪が藍叡の子を生そうと思ってもいないし、寵を得ることに因って権力を強めようという意思もないからかも知れない。

 一連の恐ろしい出来事が解決した今となっては、ただこの場所で、静かに暮らしていければいい、と思う。

 それは叶わない願いかも知れない。けれど、少しでも穏やかに、例えばこの三人で偶には今のように歓談したり、時節に合わせて贈り物をし合ったり、問題があれば共に知恵を出し合ったり――そういう関係を築ければいいと願う。



「……娘子?」

 黙ってしまった鈴雪の様子に、寧貴妃が小首を傾げる。

 その呼び声に引き戻された鈴雪は、なんでもない、と慌てて首を振り、笑みを返した。


「私、王宮で過ごす重陽節は初めてです。なにか特別な行事などあるのでしょうか?」

 重陽節は宮中行事だったものが遠い昔に民間に伝わり、広く根づいたものだ。幼い頃に過ごした御廟でのやり方など、民草の間のものは知っているが、それとは違うものだろうか。

 離宮にいた頃は、健康を願って茱萸ぐみの実を集め、菊花酒を少し飲むだけだった。御廟詣ではしたが、それ以上のことはなにもしなかった。


「王宮でもそういうものですよ。殿方は朝議を終えるとそのまま酒宴に縺れ込んで、明け方まで騒いでおられるようですけれど」

「そうだな。主上は宮中廟に詣でられるようだが、我等も特に変わったことはせぬ。茱萸の飾り袋を身に着けて菊花酒を飲み、薬膳料理を食べるくらいだ」

「王太后様がご健在だった頃は、私達も昼間は集まって菊花観賞をしましたけれど、ここ数年は特になにも」

「そうなのですか」

「はい。菊花の鉢はそれぞれの部屋に配られますし、わざわざ出て行く必要はないのです」

 言われて、園丁達が汗水垂らしながら重たげな鉢を移動させたり、水を撒いていた姿を思い出す。あのたくさんの菊花の植わった鉢は、その為のものなのだ。


「でも、明日が初めてなら、きっと驚かれるのではないかしら」

 そう言って寧貴妃は面白そうに目を細める。その言葉を受けた黄賢妃も微笑んで頷いた。

 明日が楽しみね、と告げられるが、なにが起こるのか想像もつかない鈴雪は、曖昧に頷くのだった。





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