九 秘された仇花(四)
見つめ返すだけで手を出そうとしない
「ほら。こんなに御手が冷えていらっしゃる。どうぞ、このお茶を飲まれて、温まられてくださいまし」
「恵世……」
「どうぞ、冷めないうちに。今朝は珍しく随分と冷え込みましたからね」
お替わりもありますよ、とまだお茶が残っている急須を示した。温まるまで何杯でも飲めばいい、と微笑む。
「恵世……これに、なにを入れたのですか?」
持たされた茶碗から視線を外しながら、鈴雪は震える声で尋ねる。
問われた恵世は、同じようにお茶を注いだ茶碗を
先程空にした小瓶にきっちりと蓋をして懐に隠すと、もう一度「冷めないうちにどうぞ」と勧めてくる。
「恵世っ!」
問い詰めるように声を荒げると、恵世は小さく息を吐く。
「なにも案ずることはございませんのよ、鈴雪様。今までいろいろとご不便なことや、ご不都合なことが多々おありだったことでしょう。そういった煩わしさやご不快さを感じずに済むようになります」
恵世は昔から変わらぬ優しい声音で、幼かった鈴雪に懇々と諭したときと同じように、丁寧な口調で説明した。その姿が逆に得体の知れない不気味さを感じさせる。
ぶるりと身震いした鈴雪は、持たされていた茶碗を卓に戻す。恵世の言を信じるのならば、これは飲んではいけないものだ。
お茶を啜りながらそのやり取りを眺めていた天麗は、可笑しそうに笑う。
「恵世はお茶を淹れるのが上手いわね。とても美味しいわ」
「恐れ入ります」
「だからほら、お飲みなさいよ」
「そんなことを言われて、飲む
勧められるのをぴしゃりと断ると、まあ、と天麗は唇を尖らせる。
「
「困った方ですね、天麗公主様。あなた様に強請られると、恵世が嫌と言えないことを知っておられるでしょうに」
その言葉に、うふふ、と天麗は悪戯っ子のように微笑む。
「恵世、大好きよ」
「またそのような……」
困った方だ、と小さく呟き、恵世は鈴雪が置いた茶碗を持ち上げる。
「さあ、鈴雪様。天麗公主様がお望みです」
近づけられる茶碗から顔を背けると、恵世は困ったように小さく首を傾ける。
「どうなさったのですか? 鈴雪様のお好きな黄茶ですよ。なにを遠慮なさっておいでなのです?」
「やめてください、恵世……」
「震えておられますね。お寒いのでしょう。ならば、お茶を飲んで温まられるのがよろしいですよ」
「お願い、恵世! やめて!」
迫ってくる茶碗から身を引き、椅子から立ち上がる。その際によろけ、卓の角に手首を強かにぶつけた。その痛みに僅かに呻く。
「振る舞いに品がない。育ちの悪さはそういうところに顕著なの」
手首を押さえて蹲った鈴雪を見て、天麗は嘲笑った。
確かに不様だ。けれど、強張った身体は思うように動かず、いつもより何倍も鈍い。
そこへ、恵世の手が伸びてくる。
「さあ、鈴雪様」
顎と頬を押さえるように掴まれ、無理矢理口を開かされる。
恵世はもう随分と年嵩で、そろそろ六十を数えた頃かというところだというのに、この手の力は恐ろしいほどに強い。振り解こうとしても無理だし、引き剥がそうとして爪を立てるように掴んでもビクともしない。
青褪める鈴雪には構わず、恵世は先程の茶碗を持ち上げる。そうして、身動きの取れない鈴雪の唇へと押し当てようとした。
「――…なにをされているのですか、恵世様」
その咎める声に、恵世の手が一瞬緩む。その隙を見逃さず、鈴雪は手の甲に思いっきり爪を立て、皮膚を裂いた。
これにはさすがに恵世も悲鳴を上げ、堪らずに手を離してふらつく。そこを突き飛ばして身を引いた。
大きく仰け反った恵世の手を離れた茶碗は、その不穏な中身を撒き散らして床に落ち、砕けて割れた。
痛む頬と顎を押さえて振り返ると、戸口に
玉柚は這い蹲ったままの夕媛を見て、鈴雪を抑えつけていた恵世と、優雅にお茶を口に運ぶ天麗とを見つめ、最後に鈴雪へ視線を向けた。
「大事ございませんか、鈴雪様」
明らかに混乱と怯えに震えている鈴雪の許へ行くと、玉柚はそう尋ねた。
これは信じてもいいのだろうか――先程から続いている一連の出来事を振り返り、その心配そうな表情と声を信じて身を委ねていいのかどうか、疑ってかかってしまう。
「ああ、頬が赤くなっておられますね。痛くはないですか?」
掴まれた痕が赤くなっていることに気づいた玉柚は、やはり鈴雪の身を感じるような言葉を口にする。だから鈴雪は、探るようにゆっくりと、躊躇いがちに頷いた。
玉柚はそんな様子の鈴雪を困ったように見つめると、床の上に散っている茶碗の破片と、巻き散らかされた茶を見つめる。それだけでなにかを察したようだった。
「主人に無体を強いた理由、お聞かせ願えますね?」
居住まいを正して立ち上がった恵世を睨み、玉柚は凄味を利かせた声を響かせる。
そうして、お茶を飲み終えたらしい天麗を見つめた。
「
その呼びかけに天麗は微笑んだ。
「薄情なお前は気づいていないかと思ったのに、知っていたの?」
ええ、と玉柚は頷く。
「初めはまさかと思いましたけれど、我が主に危害を加えるようなことをなさらないのならば、傍観していようと思っておりました。しかし、このようなことをなさった。もう容赦は致しませぬ」
その言に天麗は不愉快そうな顔をした。
「容赦しない? 誰に向かってそのようなことを言っているの、無礼者」
「あなた様こそ立場を
玉柚はぴしゃりと言い放った。
天麗が表情を歪める。
「弁える? この天麗に、そのような下賤の民に跪けとでも?」
「ええ、そうです。あなた様は正二品の充媛安氏。正一品の王后様の前でその態度は、不敬にもほどがある」
はっきりと告げられた言葉に、天麗は頬を染めた。
「先王の子、そして当代の妹であるこの天麗に、なんということを……!」
怒りに語尾が震えたその反論に、玉柚は鈴雪を抱え起こしながら憐憫の目を向けた。
「天麗公主はもうおりません。五年前に身罷られたのだから」
後宮に身を置きながらそんなことも知らないのか、と言わんばかりの呆れた声音に、天麗はますます頬を染めた。
「無礼な……! 天麗はここにいる。私こそが天麗だ!」
「……お可哀想に」
心底憐れんだ声で呟く。
「ご自分を、天麗公主だと思い込まれておるようだ」
「なにを……っ」
「夕媛」
憤る天麗を無視して、玉柚は這い蹲ったまま身動き取れずにいる夕媛を呼んだ。
「衛士と御殿医をお呼びして。安充媛は心の病に侵されていらっしゃるようだ。王后様にも乱暴を働かれたようだし、拘束して頂かないと」
その言葉に弾かれたように顔を上げた夕媛は、潤む瞳で玉柚の横顔を見やったあと、すぐに立ち上がって身を翻した。
走り去る夕媛の足音を聞きながら、玉柚は震える鈴雪の方をしっかりと抱き締める。その手の力強さに、彼女のことは信じてよいのだと、鈴雪は感じ取った。
「玉柚、お前……」
天麗の命に背いた姪を取り押さえようと、恵世が掴みかかって来る。その手を躱しながら、玉柚は「
間髪入れずに窓が開かれ、桟を乗り越えて紅可が飛び込んで来て、その姿に驚いている間に、正面から駆け込んで来た小玉が恵世に飛びかかる。
掴み合いの乱闘にはならなかった。大柄な小玉に恵世はあっさりと抑え込まれ、天麗も紅可の手によって拘束された。
本当に一瞬の出来事だった。
「おのれ、玉柚!」
不様にも冷たい床に抑えつけられた天麗には、先程までの余裕は欠片もなくなっていた。
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