九 秘された仇花(三)



「――…だから、ですか?」

「ん?」

「だから、あなた様は、あん充媛じゅうえんとして生きることにされたのですか?」

 妃嬪の一人となり、後宮に影響力を残す為に、安充媛と入れ替わったのだろうか。


 しかし、その考えは外れだったらしい。天麗てんれいは口の端を歪めて「まさか」と吐き捨てるように否定した。

「兄上様の后になるつもりなんて欠片もなかったし、なりたいと思ったこともなかったわよ。お母様は望んでいらしたけれど」

「では……」

 何故、入れ替わったりしたのだろうか。

 この口振りだと、藍叡らんえいのことを好いていたようではない。そんな相手と同衾するような立場に入れ替わった意味がわからない。


「私はね、しん兄様の妻になりたかったの」

 その名を口にしたとき、天麗はうっとりと花のように微笑んだ。


「信兄様?」

「そう。愛しい私の維信いしん兄様」

 鈴雪りんせつは天麗が語る名前が誰のことなのかと必死に記憶を手繰り、ハッとする。


 かく維信いしん――またの名を、永清君えいしんくん


 歓待の宴の折、白鷺姫の舞いを披露しながら、永清君へ熱っぽい視線を投げかけていた彼女の姿を思い出す。

「私はね、公主だから、信兄様に嫁ぐことは出来ないと言われたの。兄上様にも、お母様にも、大臣達にも」

 藍叡に子がない今、玉座に最も近いのは、藍叡の弟である紫耀しよう太子と、年下の叔父である永清君の二人だ。

 その永清君に王妹が嫁いだとなると、王太后に追従する派閥の臣下が永清君寄りとなり、彼を玉座に座らせる為に再び内乱が起こるかも知れない。そういう危険性を生み出さない為に、永清君に後ろ盾となり得る存在を作らせるわけにはいかなかったのだろう。


「だから、私は公主をやめることにしたの」

 ふわりと微笑み、天麗は幸せそうな表情をする。


「子供の産めない側室などいらないでしょうし、でも、あの兄上様の性格からして、悪いようにはしないと思うの。だから私は、信兄様の許へ下賜してくださるように、お願いしているところなのよ」

 安充媛は夜伽の役目から外されている、と女官長から聞いてはいたが、そういうことか。

 側室を臣下に下賜することは古来からあることだが、王の子を孕んだままでは後々問題が起こる。それ故に、最低でも半年は間を置いて、身籠っていないことをしっかりと確認してから下賜することになっている。今はその期間なのだろう。


 安家には、こう家やねい家ほどの財産や血筋もなければ、よう家ほどの商才があるわけでもなく、ただ多産の家系というだけで後宮に迎えられた。安一族と繋がったとしても、永清君にはそれほどの後ろ盾になることもなく、政変を起こすほどの力を与えることはない。故に、安氏を下賜したとしても、それが大きな問題になるようなことはない。

 だから入れ替わったのだ。誰にも反対されることのない存在となり、愛しい男の許へ嫁げるようにと。


 もうすぐでその願いは叶うのだ、と目の前の女はなんとも美しく、恋をする女の顔で微笑んでいた。


「安充媛は……本物の、安充媛は、どうなさったのですか?」

 答えなどわかりきっている。けれど、問わずにはいられなかった。


「御廟の向こうのお山にいるわよ」

 天麗は不思議そうな顔をして首を傾げる。なにを当たり前のことを問うのか、と言わんばかりだ。


 やはりそうか、と鈴雪は胸の奥が締めつけられるような心地になる。

 五年前に、天麗公主の葬儀は執り行われているのだ。その棺に安琳嬉の遺体を納めて。


「あなたが……!」

 殺したのか。なんの罪科もない女性を。

 責めるように見つめると、天麗はひどく不愉快そうに眉根を寄せた。

「なあに? そんなに重要なこと? とうの昔の話ではないの」

 確かにそうだ。葬儀は五年も前に行われていて、今更なにを言ってもしようがない。そしておそらく、この恐ろしい事実を公表しても、きっとなにも変わらない。天麗公主は亡くなっていることのまま、目の前の女は安充媛として生きて行くだろう。


「いつまでそこに這い蹲っているの、夕媛ゆうえん

 静まりかえった部屋の中に、天麗の苛立たしげな声が響く。

「このうるさい女を早く黙らせなさい。せっかく気を逸らせてあげていたのに」

 名指しされた夕媛は大きく肩を揺らし、それから一層強く床に額を押しつける。

「おっ、お許しください、お許しください……。どうか、どうか、それだけは……っ」

 夕媛は最先から必死に許しを請うている。けれど、天麗はそれを一切認めない。


 なにか汚いものでも見つめるように夕媛を横目で見たあと、くるりと振り返った天麗は、そのままつかつかと歩み寄ると、鈴雪の前髪を掴んで乱暴に引き寄せた。

「あ……っ」

「お母様も仰っていたわ。目障りなものは、片付けてしまいなさいって」

 痛みに思わず顰めた目を開き、目の前の女の顔を見上げる。

 彼女は――微笑んでいた。

「この天麗が望んで叶わぬことはないの。そして、天麗はお前をいらぬと言った」

 艶やかな笑みが、鈴雪を責めるように告げる。お前はいらない存在であるというのに、何故、今ここにいるのか、と。

 鈴雪は髪を掴まれる痛みに僅かな腹立たしさを感じながら、今朝の具合の悪さからか、思うように手足が動かず、目の前の美しく残忍な女を見つめることしか出来なかった。


「ねえ。知っているのよ、私」

 鈴雪が身動き取れずにいる様子を面白そうに見下ろしながら、天麗は囁く。


「お前が化生バケモノだってこと」


 その言葉に鈴雪は双眸を見開く。思わず「何故」と震える声が口をついた。その表情に、初めて怯えのようなものが浮かぶ。


「化生が王の后だなんて、可笑しいわよね。そんな后を娶った王は、玉座には相応しくないわ」

 鈴雪を激しく動揺させたらしいことに気づくと、天麗は声を立てて笑った。

「王を害する娘――確かにその通りね。お前のような化生を娶り、兄上様の治世は終わることになる。きっとね。だって化生の王后なんて、重臣達が認めるわけがないではないの」


「やめて!」

 嘲笑を含んで追い詰めようとする女の声に抗い、鈴雪は悲鳴を上げた。


 髪を掴む手を無理矢理振り払った為に頭皮に痛みが走ったが、そんなものに構っているような余裕はない。一刻も早く、一分でも遠く、この恐ろしい女から離れなければ。


 腰かけていた寝台から転げ落ちるように床に降り、震えて鈍い手足を引き摺って、少しでも離れようと這っていると、目の前に誰かが立ち塞がった。

 気配もなく現れたその足に驚き、確かめる為に見上げると、それはお茶の支度を頼んでいた恵世けいせいだった。


 茶器の乗った盆を持った恵世は、目の前につくばる主人を静かに見下ろしている。

「――…けぃ、せい……」

 助けを求めるようにその名を呼ぶと、彼女はいつもの温かな笑みを浮かべてくれた。その笑みを向けられるといつも安らいだ心地を得ていたのに、今は背筋が寒くなるような違和感を抱いた。


「まだ終えられていなかったのですね」

 溜め息混じりに言って盆を卓の上に置くと、鈴雪に手を貸してくれた。

 恐る恐るその手を取ると立たせてくれ、そのまま茶器を置いた卓の傍にあった椅子の方へと導いてくれる。促されるままに腰を下ろすと、恵世は慣れた手つきでお茶を注いでくれた。


「夕媛がいけないのよ。ずっとそこで震えているだけなんだもの」

 天麗は呆れたような口調で呟くと唇を尖らせた。その言葉を受けた夕媛は震え上がり、更に小さく身を縮めて「お許しください」と悲鳴じみた声で繰り返した。

「そればっかり」

 夕媛の声を聞いて鬱陶しそうに眉を寄せると、大きく息を吐き出した。その様子に、恵世は小さく笑う。

「だからこちらの方が簡単だと、ご進言致しましたではないですか」

 盆の上に乗っていた細身の小壜を持ち上げると、それを淹れたばかりのお茶の中に注ぎ落した。


 その茶碗を、鈴雪の前に差し出す。

「どうぞ、鈴雪様」

 恵世はいつもと変わらない笑みで、いつもと変わらない口調で、いつもと同じようにお茶を勧めてくれる。けれど鈴雪は、その茶碗を受け取ることが出来なかった。双眸を大きく瞠り、茶碗と、それを差し出す恵世とを交互に見つめた。


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