九 秘された仇花(一)



 いけません、と上げかけた制止の声は間に合わなかった。


 藍叡らんえいが投げつけた白磁の茶碗が、ねい大臣の額に当たって砕ける。その様子を見送ることしか出来なかった竣祥しゅんしょうは、寧大臣が受けただろう痛みを想像して小さく身を竦めた。

「寧殿!」

伯黎はくれい様、血が……」

 額を押さえて身を傾けた寧のまわりに、同じく奏上を述べていた者達が集まって来る。そうして、寧のことをそんな目に遭わせた玉座の王へと、非難を含んだ目を一様に向けたのだった。

 対する藍叡は、茶碗を投げつけた手を握り締め、抑えきれない怒りの為にぶるぶると震わせている。怒鳴り散らしそうになった声を堪えるので精一杯だった。


 寧は額の血を拭い、藍叡へ改めて視線を向けて「主上」と呼びかける。

「まだ言うか!」

「ええ、申し上げます。それが臣たる我等が務め故」

 憤懣に染まる王の言葉へ寧は静かに返す。

 それは確かにそうだ、と竣祥は心の内で頷く。王になにか間違えがあれば、それを正したり諫めたりするのは臣下の役目であり、それを疎かにすれば国は舵を失う。そんなことは藍叡自身もよくわかっているだろう。だが、普段の藍叡にならまだしも、今の状態にはそういう言葉は通じないと思われる。


 どちらを止めるべきか――まだまだ年若い宰相は、王と老練な大臣達に目を向け、どう場を治めるのが最善かを素早く判じようとする。

 竣祥が迷った隙に、藍叡は平静さを取り戻した。時に激昂しやすくはあるが、それがどれだけ己や国政に不利益を齎すかはよくわかっているので、その判断を誤ることはない。その切り替えの速さこそが、藍叡が旬国の王を務めて来れた要因でもある。


 大きく息を吐き、玉座に座り直して姿勢を正すと、藍叡は寧大臣以下、奏上の為に並んだ廷臣達を睥睨した。

 藍叡の様子が変わったことを感じ取った寧大臣も姿勢を正し、もう一度口を開く。


「主上、改めて申し上げます。――どうぞ、王后様の廃位をご検討くださいませ」


 発言を終えると頭を深々と下げるのに続き、他の重臣達も復唱して同じく平伏した。

 再び藍叡が激昂するのではないか、と竣祥ははらはらと様子を窺うが、それは幸いにも杞憂に終わる。玉座から平伏した重臣達を見下ろす藍叡の目つきは憤りを覗かせてはいたが、落ち着いていた。


「――…それは、其方の考えではあるまい。発起人は誰だ?」

 この国の議会は、宰相を中立の立場である進行役として置き、他の大臣達から奏上させて裁定を下す。王室に関わる審議については、首席大臣を奏上の代表者に置いて議事を進行させるのが基本だ。それ故に、この話は寧大臣が奏上してはいるが、彼一人の考えであるという可能性は低い。

 寧大臣を見下ろしながら尋ねるが、顔を上げない大臣は僅かに躊躇しているようにも感じられる。その様子に、藍叡はすぐに奏上の首謀者を察した。


そう利星りせい

 一列下がったところに平伏している大臣の一人を呼ぶ。

 はい、と頷いた男は色の白い顔を上げるが、目線は伏せたままだ。その物静かで心の内を読ませないような表情が、藍叡の王后である鈴雪りんせつによく似ている。


「王后の廃位の件、其方の案であろう。違うか?」

 今朝方、意識を取り戻したばかりの鈴雪の顔を思い出しながら、利星に問う。


 利星は静かに目を上げ、変わらずに感情の読めない硬い表情のままではあったが、はっきりと「はい」と頷いた。

 その答えに藍叡は苛立ちを強める。

「何故だ、宋大臣。王后は其方の娘ではないか……。それを、位から引き摺り下ろそうなどと……」

 降格または位の剥奪を受けた後ろ盾のない妃嬪ひひんがどのような余生を過ごすことになるか、長く宮廷に身を置く利星が知らない筈がない。それなのにこの男は、自分の娘を不遇な目に遭わせることを願うというのだ。


 大抵の貴族は、自分の娘を後宮に入れることを望む。そして、王の寵を得て、子を身籠れば重畳と思っている者が大半だ。

 しかし、この宋利星という男だけは、娘が王の正室という立場で入宮が決まっていたというのに、最後まで頑として首を縦に振ろうとしなかった。

 理由はわかっている。その娘が生まれたときに『王を害するだろう』という不吉な託宣を授かったからだ。それ故に、彼等は鈴雪を手放した。

 宋家では、銀珠ぎんしゅという娘はもう亡い者として扱っていたので、鈴雪を王后に迎えるに際して話を通す必要はなかったのだが、さすがにそこは然るべき筋を通すのが道理と判断した藍叡が、父親である利星にきちんと話を伝えたのだが、やはりいい顔をしなかった。王の要望だと伝えても断り続けていた。それでも再三の説得と、宮中廟の神官達による神託を伝えて更に説得し、渋々鈴雪の立后を承諾したという状況だった。

 九年前のその一連のことを、藍叡ははっきりと覚えている。居並ぶ廷臣達も同じだろう。

 罪人の如く扱われてきた娘が、王の正室となるなどと、恩赦を受けるよりも僥倖なことではないか、と誰もが思っていた。それ故に、頑なに入宮を認めない宋家の態度は、かなり奇異なものとして思われていたのだ。

 そんな王后がようやく宮中に戻って来たというところに、今度は廃位を願う嘆願ときた。


 いったい利星はなにを考えているのだろうか。鈴雪によく似た面差しの男の顔を見下ろしながら、藍叡はその心中の機微を推し測る。

 王の視線を静かに受け止めていた利星は、一度目線を伏せ、やはり静かにもう一度頭を下げた。

「王后様は、その地位に相応しくはない――ただそれだけの理由でございます」

 その答えに藍叡は表情を歪める。

「……嘘偽りなく、まことにそれだけが理由か?」

 重ねて問いかけると、利星は平伏したまま是と頷いた。

「皆、その曖昧且つ要点を得ていない理由に納得して、ここに揃っている――相違ないか?」

 同じく頭を下げている廷臣達に問いかけると、僅かに間が空きはしたが、一様に是という答えが返った。


 藍叡は思わず掌で目許を覆い、すべてのものを遮断する。大きく溜め息が零れた。

「鈴雪が王后であることのなにが不服か、今一度申してみよ」

 ややして零れたのは、そんな言葉だった。


 藍叡の妃嬪に対する淡白さは誰もが知っている。その中で一番の寵を得ているのが寧貴妃きひであり、それ故に寧家に連なる者は揃って高位の官職と、権力を手にしている。それは当然の見返りであり、古来からの暗黙の慣例ともいえた。

 その寧家の者が、貴妃である菖香しょうこうよりも高位にある鈴雪を邪魔に思うのはわかるし、引き摺り下ろしたいと思っていても不思議ではない。こう家、よう家、あん家の者も同様だ。それでも、ただ『不適格である』という言いがかりにしか思えないものに同意を示すなど、愚かしいにもほどがある。


 その問いかけに寧が改めて顔を上げた。

「厳密に申し上げれば、少々差異がございます。私見ではございますが、よろしいでしょうか?」

「申せ」

「はい。わたくし、寧伯黎が王后様を相応ではないと判じます理由は、二つございます。まず第一に、王后様の授かった託宣にございます。王を害する――それは今の、御子様の夭逝が続いていることを指しているのではないか、と思っております」

「其方も、王后の呪いとやらを信じた口か」

「滅相もございません。そのような世迷言を信ずるほどには耄碌しておりませぬし、信心深くもございません。しかし、託宣は別物と考えております」

 しゅん国の民で占見うらないを蔑ろにする者はほぼいない。生まれたときには必ず御廟で託宣を授かり、人生の岐路に際しては占者の意見を頼る。


継嗣よつぎが不在の現状は『王を害する』との文言に因るものと判断するのが妥当と思われます。よって、王后様を王宮より遠ざけることを推奨致したく、宋大臣の奏上を可とした所存にございます」

 寧のその言葉には、他の大臣達も同意を示した。


「第二に、王后様のご体調のことでございます。王后様が立后されてから既に八年が過ぎましたが、その間、王后様は肺を病まれてご療養されておられました。そのような虚弱な方に、国母という立場は重荷になられるのではないか、と思いました」

 それは鈴雪を後宮から出す為の方便だ。彼女自身の健康にはなんの問題もない。

 しかし、それを告げればまた別の問題が提起されるだけだ。今度は恐らく、虚偽の病で謀り、王后という責務を放棄した――と責め立てられるのだろう。結局は鈴雪が王后に相応しくはないという理由に応じることになってしまう。


「以上の二点の理由を持ちまして、王后様はその地位に相応ではない、とわたくしは判断致しました」

 伺いを立てるような目を向け、寧は言葉を区切る。

 藍叡は居並ぶ廷臣達を静かに見渡した。彼等も一様にこちらへ目を向け、寧の言葉に同調しているようだった。

「――…相わかった。検討する故に、暫し待て」

「御意」


 中立であり相談役でもある竣祥に目を向けると、心得た、とばかりに頷きを返される。それでようやく一息つけたので、藍叡は寧大臣に声をかけた。

「額の傷、悪かったな。あとで殿医に診てもらえ」

「有難う存じます。然れど、この傷は、己の戒めと致しましょう。先程のわたくしは、主上のご不興を買って当たり前のことを致しました。重ねて謝罪を申し上げます」

「いや。余も抑えが利かなんだ。以後留意する」

 この言葉で、広間に満ちていた緊張感が僅かに緩む。誰からともなくホッとしたような空気を漂わせた。


 唯一人、鈴雪の父である宋利星を除いては。


 その様子を見て取った藍叡は、朝議を閉会させる前に、利星に少し残るように指示を出した。まだ話し足りないようだと思ったからだ。

 相変わらず感情の読めない利星は、静かに「御意」と返事をすると、またいつものように視線を僅かに伏せた。



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