八 毒の痕跡(四)


 しばらくすると女官長達は仕事を終えたらしく、断りを入れて引き上げて行った。


 辺りがざわざわと落ち着かない様子なのは、鈴雪りんせつのことが伝わったからなのだろうか。わざわざこちらまで様子を窺いに来る気配はないが、なんだか不安を煽られる。


 落ち着かない気分にさせられた鈴雪は、卓の位置を調整している夕媛ゆうえんを見やる。

玉柚ぎょくゆう達の様子を見て来てくれない?」

 そう頼むと、夕媛は少し困ったような顔をする。ここを任されているからだろう。

「もうそろそろこちらに来ると思うの。でも、あとどれくらいかかるのかと思って」

「……わかりました。すぐに戻りますから」

「はい、頼みました」

 気にしながら出て行く夕媛を見送り、鈴雪は起き上がる。


 いつもならそろそろ朝餉ちょうしょくの時間だろう。けれど、誰も食事の支度をしてくれる気配がないので、それどころではないのかも知れない。

 それもそうか、と一人で納得しながら、部屋の中の様子を確認する。

 広さは鈴雪が使っている部屋の半分ほどだろうか。小ぢんまりとした感じだが、寝起きをする分にはまったく問題ない。

 療養をしろ、ということだが、この部屋には何日ほどいればいいのだろうか。眩暈のような感じもほとんどなくなってきたし、身体が怠いことを除けば、あとは普段と変わらないと思うのだが。


 溜め息を零していると、戸を叩く者があった。入室を許可すると、見慣れた薬膳処勤めの女官が入って来た。

「御医師から、朝餉の前にお持ちするようにと仰せつかりまして」

「ありがとう」

 差し出された盆ごと受け取り、器を手に取る。

 先程、おかしなものを口にしなかったか、と散々確認されたこともあるので、一応中身を確認してみる。薬湯の見た目はいつもと変わりない茶褐色で、匂いを嗅いでみても変化は感じられない。

 こういう場合はどう警戒すればいいのだろう、と首を捻りながらも飲み干す。いつも通りに苦みと草の臭いが混じる不思議な不味さだ。

 差し出された手拭いで口許を拭い、礼を言って器を戻す。女官は頷いて下がって行った。

 朝餉の前に飲むように、という指示ならば、そろそろ朝餉が運ばれて来るのだろう。いつもは薄めに炊いてもらった粥と菜物を頂いているのだが、今日も同じ内容だと助かる。いつも以上に今日は食欲がないのだ。


 寝ている気分でもなくなったので、窓際の椅子へと移動してみる。庭に面したそこは、鈴雪の部屋と向きが違う所為で、まだ日陰だ。今の時季涼しいのはいい。

「まあ、鈴雪様。そんな薄着で」

 丁度心地よい気温に目を細めていると、ようやく玉柚が戻って来た。

 仕えてくれている女官達はそれぞれに荷物を抱え、それを素早く定位置となっている場所へと並べていく。その様子を眺めていると、恵世けいせいが替えの寝間着を持ってやって来た。

「お胸許のあたりが汚れていらっしゃいます。お休みになるにしても、お召し替えしておかれませんと」

 言われて胸許を見下ろしてみると、確かに少し染みのようなものが広がっている。僅かに湿り気も帯びていた。意識を失っている間になにか汚すようなことをしたのだろう。


 衝立の向こうに行って帯を解くと、恵世が素早く新しいものを着せかけてくれる。

「あとでお湯をお持ちしますね。身体を拭いた方が、すっきりと寝られると思いますよ」

 体調を気遣い、湯殿まで出向くのは無理だと思ったのだろう。鈴雪は礼を言った。

 髪を結い直してもらっている間に、部屋の中には見慣れた小物や調度品がすっかりと配置されている。まったく知らない場所だったこの部屋が、少し居心地のよい環境へと塗り替わって行く。


 寝台に戻ると、寝具も新しいものに変えられていた。手早い。

「そろそろ朝餉の用意が整う頃合いかと思いますけれど、如何なさいます? 食欲の方はありますか?」

 忙しなく行き来していた玉柚は、鈴雪が戻って来たことを確認してから尋ねる。育った御廟では食事のほとんどが粥と少しの煮物だった所為か、鈴雪はあまり多くのものを食べない。そんな食生活を改善させ、以前よりは食べるようにはなっているのだが、少し体調を崩すと、一日や二日ほとんど食べ物を口にしなくなる。

「いつもと同じお粥なら、少し頂きたいです」

「わかりました。では、いつもより少し控えめの量で頂いて来ますね」

 頷いて丁花ていかを振り返る。鈴雪の食事を運ぶのは彼女の役目となっているのだ。


 運ばれて来たのはいつも通りの粥と菜物、漬物だったので、食べられるだけ口に運び、申し訳ないが少しだけ残させてもらった。

「朝議が終えられたら、主上がいらっしゃるそうです」

 食後のお茶を飲んで寝台に腰を下ろすと、伝言を受け取った紅可こうかが伝えに来た。

 そう、と頷き、横になる。朝議が終わる頃となると、まだまだ先のことだ。横になって待っている方が楽である。


 傍らに恵世が見守るように座ってくれている。その様子が幼い頃のことを思い出させ、思わず笑みが零れた。

「そこへついていてくれるなら、楽にしていてください、恵世。そちらの方が私も気兼ねしなくていいです」

 恵世は頷き、椅子を持って来て腰を下ろした。


 目を閉じていると、遠くからいくつも食器の擦れる音が聞こえてくる。どの房でも朝餉が終わり、その片付けの時間になっているのだろう。

 後宮の一日が明けたな、と思いながら、鈴雪はゆるい微睡みへと身を沈めていく。


 そのまま、どのくらい眠っていたのだろうか――女官達の話し声で目を覚ます。

 瞬いて傍らを見やると、恵世はまだそこにいてくれた。

「……なにかあったのでしょうか?」

 余暇の雑談とは違う調子の話し声に、鈴雪は首を傾げる。

「お客様みたいですね」

 そう言って微笑み、恵世は立ち上がる。


 藍叡らんえいだろうか、と思うが、恐らく違う人物だろう。藍叡だったら、止めることなくすぐに通される筈だ。

 では、ねい貴妃きひこう賢妃けんひが訪ねて来てくれたのだろうか。

 二人は鈴雪が倒れた原因を捜して、鈴雪の居室に出向いてくれていたようだし、もしかすると、そのことでなにかあったのだろうかと思う。


「鈴雪様、お目覚めでいらっしゃいますか?」

 恵世に頼んで羽織り物を取ってもらっていると、小玉しょうぎょくがやって来て尋ねる。

「大丈夫です。どなたがいらしたの?」

「はい。あん充媛じゅうえんがお出でです」

 告げられた名前はちょっと意外だった。

 如何なさいますか、と尋ねられるが、断る理由は特にない。

 先日の宴で見かけたあの表情のことで、永清君えいしんくんをどう思っているのかなど、聞いてみたいことはあったのだ。そのうち話してみようと思っていた矢先のことなので、丁度いい。


 部屋に招き入れるように告げると、程なくして、安充媛がやって来た。

「体調を崩されたと朝から噂を耳にしまして、お見舞いに来ましたの」

 丁寧ながらも可愛らしさを滲ませる仕種で拝跪した安充媛は、やはり可愛らしく上目遣いに微笑んだ。

「お気遣いありがとう。こちらに座られて」

 用意してもらった椅子を示し、付き添ってくれていた恵世には茶器の支度を頼んだ。


「朝から後宮中が大騒ぎですわ」

 腰を下ろした安充媛は大袈裟な身振りで騒ぎの様子を示し、とても心配したんです、と悲しげな表情を作った。

「ありがとう。でも、もう大丈夫です」

 安心させるように鈴雪が微笑むと、安充媛は「なにがあったのですか?」と重ねて問いかけてきた。その表情は興味津々といった様子だが、きっと彼女には悪気はないのだろう。

 なにか悪いものを食べてしまったようだ、と濁して答えると、安充媛は気の毒そうに溜め息を零した。

「ご出自が卑しい方は、しぶとくていらっしゃるのね」


 微笑みながら告げられた言葉に、鈴雪は思わず我が耳を疑う。

 安充媛がなにを言ったのかわからなかった。聞き間違えかとも思い、そのにこにこと微笑んだ若々しい顔をまじまじと見つめた。


「――…安充媛?」

 名前を呼ぶ声が喉の奥に張りついたようになり、上擦って震える。

 はい、と安充媛は花のように微笑んだ。

「今、なんと……」

「はい、娘子じょうし。卑しい方はしぶとくて困る、と申し上げましたわ」


 鈴雪は今度こそ言葉を失った。


「もう少し上手くやらなければ駄目よ、夕媛ゆうえん

 鈴雪が茫然としていると、安充媛は笑みを崩さぬまま、控えていた女官に告げる。夕媛はさっと青褪め、震えながら膝をつき、その場に深々と叩頭した。

「お、お許しください!」

「駄目よ。許さない」

 安充媛は先程からの可愛らしい笑みを崩さぬまま、まるで天気の話をするかのような口調で、断罪の言葉を口にする。


「お前も、青燕せいえんも、本当に駄目。私の望みを叶えるのがお前達の役目。それなのに、なにも出来ていない――なんて無能なの」

 おっとりとした口調で言いながら、夕媛を振り返る。

「無能者はいらないわ」


 ひっ、と夕媛は息を飲み、更に床へ額を擦りつけながら、命乞いの嘆願を口にした。


「どうかお許しください、……!」




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