八 毒の痕跡(三)
大股に歩みを進めて行く
そうこうしているうちに実直な衛士の守る境界門を抜け、妃嬪達の住まう房が連なる回廊へと辿り着く。
本来なら、ほぼ満室状態で運用される筈の後宮だが、藍叡の妃嬪達はたったの五人しかいない為、部屋はほとんど使われていない。それでも全室共に最低限の掃除はされているので、今の居室以外を使おうと思っても問題はない。
境界門に近い部屋は、本来ならばあまり身分の高くない側室に与えられる場所だが、医局や薬膳処も近くなるので都合はいい。藍叡はその部屋に
「王様、私、自分のお部屋に……」
東寄りにあるこの部屋は、狭くはあるが風通しもよくて雰囲気はいい。それでも慣れない部屋になんだか居心地が悪くて困惑する。
「寝台で横になれぬくせに、莫迦を申すな。安静にしておれ」
先程から変わらぬ少し怒ったような口調で言い、鈴雪の頭を寝具に押しつける。このまま横になっていろ、ということだろう。
最低限の調度品しか置かれておらず、がらんとした寂しげな部屋の様子を見回していると、幾人かの足音が近づいて来ることに気づいた。
起き上がろうとして肘をつくと、もう一度額を押され、寝台の上へと戻される。
なにをするのだ、とそんなことをしてくる藍叡を見上げていると、扉を開けた女性が「失礼致します」と声をかけてから入って来た。
「女官長、しばらくこの部屋を王后の居室とする。そのように手配せよ」
「はい、主上。仰せのままに」
女官長は藍叡からの指示をすぐに承諾し、引き連れて来た部下の女官達にそのように指示を出した。
ばたばたと女官達が部屋の中を行き交い始め、丁度の具合などを確認し、埃がないかなどを点検し始める。そこへ
「鈴雪様!」
入室の断りを入れてから部屋の中を見渡した玉柚は、寝台に横たわっている鈴雪の様子を見て声を上げる。さっと顔色を変え、慌てて駆け寄って来た。
「お姿が見えずにお捜ししておりましたら……いったいなにがあったのですか?」
「毒を盛られた」
何事もなかったのだろうか、と不安げに確認しているところへ、藍叡はぴしゃりと言い放つ。
その言葉に、室内を行き交っていた女官達も皆手を止め、驚いたように寝台の方へ視線を向けた。
玉柚は青褪めた顔を藍叡へ向ける。
「毒を……っ?」
「幸いにもすぐに対処し得た。今は経過を診ているところだ」
淡々とした口調で説明している間に、先程別れた御殿医達が再び薬箱を抱えてやって来た。
鈴雪の診察をすると言うので避けるが、玉柚は僅かに憮然とした表情を見せる。その目つきは藍叡を責めているようにも見えた。
「なにかおかしなものが見えるというようなことはございませんか?」
脈を確認しながら医師は尋ねる。いいえ、と鈴雪は首を振った。
「少し目が霞みます」
「然様でございますか。では、少々失礼致します」
断りを入れてから鈴雪の瞼を指先で押し開き、瞳孔の様子を探る。少し散大気味なことを確認したあと、目覚めたときに確認したのと同じように、指を振ったり立てたりして、その瞳の動きを確認した。
「すぐに薬湯をお持ち致します。それで落ち着かれる筈です」
鈴雪を安心させるように笑みを浮かべ、医師は藍叡を外へと呼び出した。
部屋を出て行った二人の様子を見送りながら、玉柚は鈴雪に振り返る。
「いったいいつ抜け出されたのですか? それに毒とは……」
表情は心配げではあるが、口調は詰問するようだ。鈴雪は申し訳なくなって僅かに頭を下げる。
「ちょっと用があって……」
それ以上詳しいことは言葉に出来なかった。
藍叡に頼まれて、今までの子殺しの犯人を捜したり、妃嬪達の様子を探ったりしていることは、玉柚達には言っていない。すべてこの胸の内に留め、さり気なく噂を集めているところだった。
口ごもった鈴雪の様子に、玉柚は僅かに眉を寄せるが、それ以上を追及するつもりはなかったのか、溜め息を零して肩を落とした。
「なにか、この玉柚にさえも内緒にしておきたいことがあったとしても、せめて書置きのひとつ残してくださいませんと。とてもとても心配致しましたのですよ」
「ごめんなさい。気をつけます」
素直に謝罪すると、玉柚は苦笑した。
「こちらでしばらくお過ごしになられるとお聞きしました。すぐに御身のまわりのお品をお持ち致しますね」
「ありがとう。迷惑をかけてごめんなさい」
「迷惑だなんて思っておりませんよ。
はい、と頷くと、玉柚は安心したように微笑み、立ち上がった。
「女官長、私共はお部屋からお荷物を纏めて参りますので」
「わかりました。片づけはしておこう」
「お願い致します」
きびきびとした動きで換気などを行っているのは、女官長の直属の部下である女官達だ。あまり見慣れない顔触れを寝台の中から眺めていると、夕媛が白湯を持って来てくれた。
「起きられますか?」
「ありがとう。大丈夫です」
支えられながら起き上がり、白湯の入った湯呑みを受け取る。
ひと口頂こうと思って唇を触れさせかけるが、ふと、
(――…まさか、ね……)
この茶碗を持って来たのは、離宮時代から含めて五年も傍に仕えてくれている夕媛だ。毒入りの飲み物を用意して来ただなんて疑いたくもなかった。
それでも、気になってしまうと、どうも口をつけにくい。少し躊躇った結果、そっと茶碗を下ろした。
「ごめんなさい、夕媛。あまり喉は渇いていないみたい。欲しくないの」
「それは失礼を致しました」
夕媛は特になにか気にした様子もなく、鈴雪から茶碗を受け取り、卓の上へと避けた。
「なにか欲しいものはございませんか?」
気に入りの花茶とか、果物とか、と指折り挙げてくれるが、鈴雪は首を振った。
「いいえ、大丈夫。少し横になっています」
目が覚めたときから疲労感のようなものが
横になった鈴雪の上へ布団を被せ、夕媛は少し考えたあと、付き添いは特に必要ではないと考えたのか、部屋の中を整えている女官長達に合流した。
すぐ傍に控えていた人の気配が遠退いたことに少々ホッとし、鈴雪は静かに瞼を閉じる。
そう広くもない部屋故に、いつもより足音や衣擦れの音が大きく聞こえる。その音を注意深く探りながら聞いていると、ややして、すぐ傍で誰かが立ち止まる気配が届く。覗き込まれているような視線を感じて目を開けると、夕媛と目が合った。
「どうかした?」
ちょっと驚きつつも、そんな気はしていたので平静を装って首を傾げて見せると、夕媛は困ったように頷く。
「お顔の色がよろしくないようなので、お熱はないかとお確かめしたかったのですが」
玉柚から付き添っているように指示されているので、女官長達と部屋の片づけをしているのは落ち着かなかったのだろう。
鈴雪は苦笑して困惑気な表情の女官を見上げた。
「熱はないと思うけど。どうぞ、確かめて」
「はい、失礼致します」
額に触れてきた夕媛の手は僅かに湿り気を帯びて冷たかった。
まだ陽が昇ったばかりで気温が然程高くなっていないとはいえ、この時期に随分と冷えた指先だ。鈴雪は少しだけ怪訝に思いながら、額から体温を確かめている夕媛を見上げた。
「大丈夫でしょう?」
「はい。大変失礼致しました」
納得したのか、夕媛は頷いて下がった。
鈴雪も安心して頷き、静かに天蓋を見上げる。身体は怠いのだが、眠るような気分ではないのが残念だ。
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