八 毒の痕跡(二)



「参ったな……」

 思わず弱音が零れる。

 女官達の誰かが子殺しに手を染めているのかも知れない、という可能性が浮上していた矢先に、今度は鈴雪りんせつに危害を加えようとしている輩がいることまでわかってしまった。そしてそれは、彼女付きの女官達の中の誰かかも知れない可能性が大きい。


 まだ顔色は悪いが、呼吸も落ち着きを取り戻し、痙攣もなくなった鈴雪を見下ろす。こんなことを、とてもではないが、鈴雪本人に伝えられるわけがなかった。

 ぐったりとしている鈴雪を抱え起こし、手に持ったままだった薬湯の碗を持ち上げて口に含むと、色を失っているその唇へと流し込む。本人が知ったら嫌がるだろうが、うっかりの医師が匙を置いて行かなかったのが悪い。

 鈴雪の唇が微かに動き、喉許が小さく鳴る。もう一度そうして飲ませようとすると、今度は噎せて咳込まれ、口に入れさせた分を吐き出されてしまう。その口許を手拭いで拭いてやり、背中を摩る。

 甲斐甲斐しく世話を焼く自分を面白く思いながらも、藍叡らんえいは鈴雪に薬湯をしっかりと飲ませ、もう一度寝台へと寝かせた。


 布団をかけようとして、胸許が濡れていることに気づく。あれだけ水を浴びせかけたのだから無理もないことか。

 取り敢えず脱がせてしまおうか、と帯に手をかけるが、僅かに思い留まる。意識のない相手を脱がせるのは、あまり心地のよいものではないし、目を覚ましたときの鈴雪の心情を思うと躊躇われた。

 仕方なく手拭いを押し当て、湿り気を軽く乾かす程度に留めておく。

 ふと見遣ると、小卓の上に水盆が用意されていた。発熱したときの為だろうか、と思いつつ手拭いを絞り、よく見ると汚れている頬や顎を拭ってやる。


 夜明けまでは、あとどれくらいだろうか。

 それまでに目覚めてくれるだろうか、と期待を込めつつ、藍叡は僅かに目を閉じた。





 鈴雪が目を覚ましたのは、鳥の声が聞こえたからだ。

 聞き慣れた雀の明るい鳴き声に、朝だわ、と思って瞼を押し上げる。


「――…鈴雪?」

 ただいつものように目を開けるだけだというのに、なんだかものすごい疲労感が押し寄せて来るのを感じていると、藍叡の声が聞こえて来た。

 ゆるりと視線を彷徨わせ、その声の主を捜す。

「…………おぅ、さま?」

 尋ねる声が掠れて震える。喉の奥に痛みが走った。


 風邪でもひいたのだろうか、と思って喉を鳴らすと、藍叡がホッとしたように息をつく。

「誰か、医師を呼んで参れ」

 扉の向こうへ声をかけると、控えていた侍従から応じる声が返り、遠ざかる気配がした。

「何処か痛むところや、変なところはないか?」

 いったいなんなのだろう、と内心で首を傾げていると、伸びてきた大きな掌が輪郭を確かめるように触れてくる。そのことに少し驚きながらも鈴雪は頷いた。

「少し喉が痛いです。あと、胸のあたりが……胸焼けしたみたいな感じで」

「他には?」

「いいえ。特には」

「そうか……」

 鈴雪の受け答えの様子を見ながら、藍叡は大きく息を吐き出す。

 そんな様子に、鈴雪は困惑しかない。

「あの……私、なにか……?」

 記憶に間違えがなければ、昨夜は永清君の別れの宴が開かれたあと、ねい貴妃きひに呼び出されて水上にある小塔の露台に赴き、そこで一連の子殺しの下手人についての話を聞いていた筈だ。それなのに、いつの間にか藍叡の寝所で寝ている。


 話の途中で寝てしまったのだろうか、と必死に記憶を辿っていると、御殿医達がぞろぞろとやって来た。

 驚いている鈴雪を他所に、御殿医達は一礼のあとに薬箱を広げ、鈴雪の脈を取り、目や口の中を覗き込む。

 目の前で振られる指の動きを目線だけで追って見たり、立てられた指の数を確かめさせられたりしながらも、やはりなにがなんだかわからない。


「昨夜の宴のあとに、なにか口にされましたか? お茶とか」

 一通り鈴雪の様子を見終わった医師の一人が、質問を始める。

 夕餉のあとはいつも本を読みながらお茶を飲む程度で、特になにも口にしない。昨夜はその習慣も行っていなかったので、いいえ、と首を振りかけ、不意に思い出す。

「桃を、食べました」

「桃?」

 怪訝そうに顔を上げる医師に、はい、と頷く。

「有名な唐雲とううん県からの桃を頂きまして。それが少し傷み始めていたので、勿体ないな、と思って……」

 美味と有名な産地のもので、しかも初めて手にするものだったので、食べずに捨てるのはさすがに勿体ないと思ったのだ。わざわざ持って来てくれたよう昭儀しょうぎにも悪い。


「愚か者!」

 それを素直に説明すると、一緒に聞いていた藍叡から叱責される。


「傷み始めていたから勿体ない? なにを馬鹿なことを……傷んでいたのなら、捨てろ!」

 その剣幕に気圧されつつ、鈴雪は頬を染めた。

「でも、せっかくの頂き物でしたし」

「そんなに食いたければいくらでもくれてやる。明日から毎日、唐雲県から届けさせればよい」

 憤りに満ちた声で吐き捨てると、藍叡はそれを命じようと侍従を呼ぼうとする。鈴雪は慌てて「やめてください!」と叫び、気短な王を押し留める。


 確かに、傷み始めているものをわざわざ食べることはなかったのだ。生来の貧乏性が災いしてしまったのだが、食中りを起こしたのだろうと気づき、頬を染めて俯いた。

「主上、どうか、気をお鎮めください」

 苛立たしげに鈴雪を睨みつけている藍叡を、御殿医達はおろおろと宥めに回る。目を覚ましたばかりの患者を前に、あまりそういう負の気配を漂わせるのはあまりよろしくない。


「王后様、よく思い出してください。王后様のご症状は、食中りではございません。なにかの中毒症状かと思われますが、胃の中身を調べてみても、特に異物は見当たりませんでした。だから、なにか口にされたもので、変な味がしたとか、そういうご記憶はございませんか?」

 尋ねられるが、特になにも思い至らない。首を振るしかなかった。

「では、昨夜の宴で、お口にされたものは?」

「菜物と、蒸し鶏……あと、貝の酒蒸しを少し頂いたと思います」

 鈴雪の回答を書き取った弟子は、それを別の書きつけと見比べてから医師達に見せた。

 集まった医師達は書きつけを見て意見を交わし合い、首を捻る。想定していた結果と相違があったのだろうか。

 時折ぼんやりとする視界を迷惑に感じながら、もうなんともないのだけれど、と鈴雪は医師達の後ろ姿を見守る。昨夜の自分がどれほど異常な状態にあったのかを知らないので、こんなに早朝から集まってもらって、少し申し訳ない気持ちになっていた。


曼陀羅華まんだらげ華鬘草けまんそうを口にした可能性は?」


 外から聞こえて来た女の声に、御殿医達は一斉に振り返った。

 そこに立っていたのは、寧貴妃とこう賢妃けんひだった。藍叡と鈴雪以外の人々は一斉に叩頭するが、すぐにそれをやめさせ、二人は部屋の中に入って来た。


「曼陀羅華は幻覚を見せたり、眩暈や意識を喪失させることがあるわ。華鬘草は痙攣と嘔吐を引き起こす――そのどちらも娘子じょうしのお庭に植わっていた花です」

 一睡もしていないのか、寧貴妃はその美貌に黒々とした隈を作っている。

「特に曼陀羅華は、その汁で中毒症状を起こす。例えば茶碗などに塗布しておくだけで、それにお茶を淹れて飲めば、気づかれることなく簡単に飲ませることが出来るのではないかしら?」


「娘子の部屋の茶器はこれだ」

 黄賢妃が運んで来た茶器一式の入った櫃を差し出す。御殿医の弟子の一人がそれを受け取り、中身を確かめる。

 どうだ、と尋ねる藍叡の言葉に、筆頭御殿医は頷いた。

「可能性はなくもありません。すぐに調べます」

 茶器を持ち帰ってくれたことに対して礼や讃える言葉を口にし出すのを、黄賢妃は手振りだけで押し留め、懐から細長く折り畳まれた布を差し出した。

「それと、卓の上に使用した形跡があった小刀があったので、持参した」

 鈴雪が桃を食べるときに使った小刀だった。使ったままにしておくと錆びると思ったので、洗面用の水でさっと洗い流したあと、手拭きに包んでおいたのだ。

「桃はまだあったか?」

 御殿医達が茶器と小刀を確認している様子を見ながら、藍叡は二人に確認する。

「えぇ……卓の上に置かれていたものなら、いくつかありましたけれど」

 記憶を辿りながら答えた寧貴妃は、確認するように黄賢妃を振り返る。彼女も大きく頷いた。

 藍叡は御殿医達を見やる。その視線の意図するところに気づいた医師達は、すぐに頷き合い、一番身の軽い若い医師を後宮の鈴雪の部屋へと向かわせた。


「二人とも、ご苦労だった」

 本来ならば、こんなことは妃嬪達がすべきことではない。けれど、緊急のことで、機転の利く二人が手を貸してくれたわけだ。

 いいえ、と少し疲労を滲ませる表情で首を振った二人の様子に、鈴雪はぽかんとする。彼女達が協力してなにかをしていることにも驚いたが、鈴雪の部屋で夜通しの調べ物をして来たらしいことも意外だったのだ。


「至急で女官長を呼べ」

 状況を追いきれずにいる鈴雪を抱え上げ、藍叡はこう侍従を呼びつける。

「玉門に一等近い部屋を整えさせろ。王后はしばらくそこで療養させる」

 その言葉に鈴雪は驚くが、藍叡の考えは揺らぐことがないようで、一通りの指示を出し終えると、鈴雪を抱えたまま寝所を出た。


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