八 毒の痕跡(一)
大きく半身を揺らめかせた
頭から床へ落ちそうになるところを、駆け寄った
「鈴雪!?」
突然のことに事態が飲み込めないながらも、鈴雪の身になにかが起こったらしいことはわかった
「王后様! お気を確かに!」
痙攣するように微かに震える身体を抱え起こし、竣祥は表情を険しくする。いったいなにが起こったというのだろう。
「
扉の傍に控えていた洪侍従に慌てて指示を出しながら、鈴雪の姿勢を整えて顔を覗き込む。苦しげに歪んだ顔は血の気を失って白く、唇ががくがくと震えて唾液を零している。明らかに様子がおかしい。
「主上、ここからなら主上のご寝所が近うございます。そちらに運びましょう」
口許の唾液を拭ってやり、このまま引きつけを起こして舌を噛まないよう、手拭いを口の中に押し込んでおく。
素早く頷いた藍叡は、竣祥から鈴雪を受け取ると立ち上がり、そのまま水上の露台をあとにする。
「……なにか、よくないものを口にされたのやも知れません」
ようやく気を持ち直した寧貴妃は、藍叡のあとを追って行こうとする竣祥を呼び止め、そう告げた。
「とにかく吐かせるのがいいかと。お水をたくさん用意して」
なにを飲み食いしたのかはわからない。とにかく悪いものを身体から出してしまうのがいいだろう、と提案した。
「わかりました。貴妃様方は如何なさいますか?」
「私は、戻ります。いてもお邪魔になりましょう。あなたは?」
話を振られた黄賢妃は「我は
「女官達に気づかれないように行くつもり?」
「コソ泥のようなことはしたくはないが、仕方なかろう」
「そう。では、私も付き合いましょう」
その言葉に黄賢妃は怪訝そうな顔をする。
「勘繰らないで。一人より二人の方が速いし、持ち出すものがあれば人手はあった方がいいわ。違くて?」
「違わないな」
頷き合った妃嬪達は竣祥に別れを告げ、足早に後宮へと戻って行く。
竣祥も急いで露台を出ると、不寝番の内官を捕まえて水瓶と桶を運んで来るように告げ、藍叡の寝所を目指した。
「鈴雪、鈴雪、しっかりしろ!」
断りの言葉もそこそこに寝所の扉を開けると、藍叡の切羽詰まった声が響いてくる。彼のこんな声音を聞いたのは初めてだ。
「主上、あまり動かさない方が」
寝台に寝かせた鈴雪の肩を掴んで揺すっている様子に、竣祥は慌てて声をかける。なにがどうなっているかはわかったものではないので、余計なことをしない方がいいと思ったのだ。
藍叡はハッとしたように顔を上げて振り返るが、なんとも言えない目つきになる。
「いったいなにがあったのだ!」
責めるような声で竣祥を詰問するが、それに答えられるものを今の竣祥は持ち合わせてはいない。首を振るので精一杯だ。
「寧貴妃様が、とにかく吐かせた方がいいとご助言くださいましたので、今、水を運ばせております」
だから少し待ってくれ、と説明すると、藍叡は僅かに不服そうな表情をしたが、確かになにも出来ることはないと理解したのか、そのまま押し黙った。
小刻みに震える鈴雪の細い手を掴み、藍叡は眉を寄せる。反応がないのに変に力が入って硬直しているようにも感じて、それがまた異様に思えるのだ。
程なくして現れたのは、水瓶を運んで来た内官達だった。
御殿医の方が先に来るかと思ったのだが、時刻が時刻だけに身支度に手間取っているのかも知れない。そのことに気づいた藍叡は僅かに憤慨したようで、表情を険しくして小さく舌打ちを零した。
「とにかく王后様に水を」
竣祥は内官達に指示をするが、彼等はどのようにすればいいのかと戸惑いの表情を見せ、一瞬怯む。その様子を見て取った藍叡は素早く鈴雪を抱え起こし、口の中から手拭いを取り除いて顎を掴むと、そこへ「早く水を注ぎ込まぬか!」と内官達を怒鳴りつけた。
恐れ多くも王后にそのようなことを、と尻込みしかけるが、王からの命令とあらば仕方がない。柄杓で掬った水を、開かされた鈴雪の口へと流し込む。何度かそうして水を飲ませるが、口の外へ多くが流れていき、きちんと飲み込めているのかどうかはよくわからない。それでも方法がないのだから仕方がない。
ごふっ、と鈴雪の唇が空気と水を吹き上げたのを見て、藍叡は鈴雪を桶の上で俯せにして口に指を押し込んだ。
「吐け! 鈴雪!」
舌の根の方を強く刺激すると、鈴雪は苦しげに呻き声を零し、嘔吐いた。
「主上、お手が……」
鈴雪の口に入れていた藍叡の手には、彼女が吐き戻した吐瀉物が降りかかる。それを「構わぬ」とひとことで切り捨て、粗方吐かせてしまうと、次の水を要求した。
そうして、洪侍従に連れられた御殿医がやって来るまでの間に更に二度ほど吐かせていると、寝間着に官服を引っかけただけのだらしのない格好で駆け込んで来た御殿医は、藍叡の行っていた応急処置に目を丸くした。
「遅い!」
なにやら言いかける御殿医の口を叱責で黙らせ、早く診療するように要請する。
改めて寝台に寝かされた鈴雪の細い手首を手に取り、脈拍を確認し、震える瞼を押し上げて様子を見たあと、御殿医は眉を寄せた。
「このような状態になられる前に、なにか変わったことは?」
いや、と藍叡は首を振った。
「話をしていたが、受け答えは特に変わりなかった。呼びかけても視線を彷徨わせるだけで反応しなくなり、そのまま意識を失った」
なあ、と同意を求められたので、竣祥も頷く。
「時折苦しそうに胸許に手を当てておられましたが、話の内容にご気分を害されていたのかも知れませんし、それはなんとも……」
「飲み食いも特にはしておらぬ」
二人の回答を受け、ふむ、と頷いてから医師は弟子に持たせていた薬箱を受け取る。
「胃の中のものを吐かせたのならば、一先ずは安心していいと思われます。取り敢えず炎症止めを飲ませ、今夜は経過を診ることに致しましょう」
「それだけか?」
下された所見に藍叡は不満げな声を上げる。医師は申し訳なさそうに頷いた。
「恐らく、なんらかの中毒症状とみられますが、重篤な症状ではなさそうですし、胃が空になっているのなら取り敢えずは問題ないかと。あとはお目覚めになってから、なにか口にされなかったか確認したいと思います」
「問題はないと?」
「今のところは、でございます。夜が明けても意識が戻らないようなことはないと思います。一応のご安心を」
薬を煎じて用意すると、説明を打ち切った。
「これは炎症を抑える薬湯で」
「わかった。飲ませておく」
示された碗を受け取ると、医師は驚いたような顔をして僅かに戸惑った。
「女官の方は?」
部屋の中にいるのは男ばかりで、王后がいるというのに、彼女付きの侍女も女官も見当たらない。その様子を怪訝そうにするのを藍叡は溜め息で黙らせる。
「様子を見ているくらい余でも出来る。捨て置け」
不機嫌そうな声で零された答えに医師は恐縮した様子で、頷いて頭を下げた。
「王后様が吐き戻されたのは、こちらの桶ですね? なにか異物がないか調べてみましょう」
宴を終えたばかりだというのに、桶の中身は随分と少なかった。
弟子に桶を抱えさせ、医師は医局の方へ戻って行き、内官達も水瓶などを抱えて退室して行った。その様子を見送りながら、藍叡は眉根を寄せる。
以前も思ったことだが、鈴雪はあまり食べない。こちら戻ってから何度か食事を共にしたが、茶はよく飲むのに、料理自体にはあまり口をつけない。離宮にいる間もついていた
そんな少食の鈴雪に、なにかしらの毒を盛ろうとするとなると、なかなかに難しいことなのではなかろうか。
いつ、どうやって、こんな状態になるようなものを口に入れさせたのか。
(女官達の中に、鈴雪の命を奪おうとする者がいるとでも?)
一番近くに仕えている女官達以外に考えられない。
しかし、先日の
もしも仮に、その女官達の誰かが細工をしたとして、何故今になってそんなことをするのか、という新たな疑問が生まれる。
こんな人目の多い後宮に戻ってからなにかするよりも、人気も少なく、医師の派遣も遅れて手遅れになりやすい離宮で事に及ぶ方が、ずっと成功率も高く、不審な目を向けられることもなく楽だったのではないだろうか。
鈴雪が居室にいるときは、常に恵世か玉柚が傍らに従っている。外出するときはどちらか片方が付き従い、片方は部屋に残る。不審なことがあればすぐに気づくだろう。
そうなってくると、あまり考えたくはないことだが――と藍叡は眉を寄せる。
恵世か玉柚がなにかしているか、或いは、外部の手引きをしているとしか思えない。
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