七 亡女達の執着(二)



 藍叡らんえいの手元には何冊かの書籍が置かれている。一番上の表紙の文字を盗み見ると、几帳面な手蹟で『宮女』という文字が見えた。そのあとは藍叡の手に隠されて見えない。


「子殺しの下手人は、恐らく三人だ」


 竣祥しゅんしょうに用意するように言っていた名簿だろうか、と思いながら見つめていると、藍叡はそう言った。


「まず一人は――芳蘭ほうらん、お前なら知っていよう?」

 藍叡は左隣に腰掛けるこう賢妃けんひへと視線を投げかけた。彼女は静かに視線を上げ、ややして頷くように下げる。

 鈴雪りんせつは驚きと共に僅かに眉根を寄せる。

 後宮には男の手は届かないから、女の鈴雪に調べろと言ったくせに、藍叡は自分で解決してしまったのだろうか。

 それとも、もしや初めから目星はついていたのだろうか。


「あの頃お前はここにいなかったから、わからんだろうな」

 鈴雪の様子を察した藍叡が視線を上げ、説明の為に口を開いた。

龍蓮りゅうれん――この菖香しょうこうが生んだ第一太子のことだが、あの子は池で死んだ」

 藍叡の言葉を補足するように、ねい貴妃きひが「八年前のことです」と小さく呟く。

 幼い太子が亡くなったことは知っている。鈴雪が王后へと封じられ、離宮へと移ったあと、少ししてから亡くなったという話だ。


天麗てんれいが手に掛けたのだ」

 藍叡は今は亡い妹の名前を出す。


 生まれつき病弱で、その生涯を後宮の中で終えた公主の名は、昨日知ったばかりだ。

 鈴雪は驚いて双眸を瞠り、その言葉が真実であるのかどうか、とまわりの人を見回した。その場にいる誰もが頷かないながらも、否定の言葉も発することもなく、ただ沈鬱な面持ちで耳を傾けている。


「龍蓮は池に落ち、共に遊んでいた天麗が池に飛び込んで救い出したが、間に合わなかった――当時はそのことを疑う者は一切いなかった。母である菖香でさえも」

 舟遊びも出来る程の大きな人工池は、深さもかなりあった。当時十六歳の天麗でも足がつかないほどの深さだったのだから、僅か三歳の龍蓮が溺れるのは必然だった。


 自身も溺れかけながら小さな甥を救い上げた天麗公主は、元々身体が丈夫ではなかった為、それから十日ばかり高熱で魘され、意識もほとんどない状態が続いた。

 ようやく意識を取り戻して発した第一声が甥の身を案じる言葉だったこともあり、誰も彼女自身が甥を池に突き落としたとは思っていなかった。


「天麗を疑っていたのは、唯一、この芳蘭だけだった」

 そう言って藍叡は黄賢妃を示す。彼女は小さく頷き、その場にいる者達へ視線を投げた。

「我は……天麗公主が、どうにも恐ろしかった。無邪気な童女こどものようでいて、その実、残酷で苛烈な内面を持っておられたからだ」


 花のように美しく気高い公主は、病弱故に甘やかされていた部分もあるのだろう。自分の望んだものが手に入らなければ癇癪を起こし、気に入らないものがあれば壊し、処分する。それがたとえ自分に仕える女官であろうとも、少し気に入らないことがあれば容赦なく鞭打ち、残酷なまでの仕置きをする。

 そんな苛烈な内面を、一部の女官達以外は誰も知らなかった。


「今でも、時折思い出す。公主のほっそりとした小さな白い手が、小鳥を縊り殺していた、あの情景を……」

 偶然その場を見てしまった黄賢妃は尋ねた。なにをしているのか、と。

 事切れた小鳥を足許にぼとりと落とした天麗公主は、拗ねたように唇を尖らせ、お仕置きをしたの、と言った。私の手を突いて来たから悪い子なの、と嫌そうに呟いて。


 天麗公主は明るく無邪気で、その花のような美しい容姿と愛くるしい笑顔で誰からも愛されたが、生まれつき身体が弱く、季節の変わり目には必ず寝つく――それ故に、本性がそんなにも恐ろしいものだとは、誰も思いもよらなかったのだ。


 先王が亡くなり、後宮の主が入れ替わったことで、女官の入れ替えもあった。そのこともまた、天麗の本性を知る者を最小に留めていた一因ともいえる。

 それでも、妃嬪達の中で黄賢妃だけは気づいていた。

 気づいてはいたが、どうすることも出来なかった。


「あの頃は、王太后様がご存命であられた故に、我にも、寧貴妃にも、この後宮の中で、たいした力はなかったのだ」

 後宮の主人は、王の正室である王后が務める。だが、その頃はまだ鈴雪も封じられたばかりであり、しかもすぐに離宮へと移されてしまった為、結局実権を握っていたのは先王の正室であった王太后だった。

 王太后は先王の正室であり天麗の生母ではあったが、藍叡の生母ではなかった。それ故に、藍叡は王太后に対して立場が弱く、口出しをすることが出来ずにいた。


 本来ならば、先王の喪が明けると同時に妃嬪は正室も側室も後宮を出て、先王の菩提を弔う為に尼となることが普通だった。しかし、王太后は後宮へと残った。病弱な天麗を後宮から出すことが躊躇われたことと、当時の藍叡に正室がいなかったからだ。

 慣例通りに藍叡の妃嬪達に後宮を空け渡していれば、実権を握ったのは最も位の高かった寧貴妃だっただろう。しかし、彼女は側室の一人にすぎない。将来正室を迎えた際、長く側室が権利を握っていた後宮では問題が起こるのは明白だった。その為、正室を迎える前に側室達に大きな力を持たせないよう、その監視と戒め役として、王太后も後宮に残ることになったのだった。

 もちろん王太后も分はわきまえていた。後宮内の秩序を見守り、運営管理はするが、藍叡の側室達になにかを命じるようなことはなく、ただの相談役兼管理人に徹していた。

 後宮という機関の均衡を正常に形作る為に、それが当時は最善であったのだ。その影に隠れ、天麗公主の事情が明るみに出なかったのは、酷い皮肉だったといえよう。


 そんな中、託宣に因って鈴雪が王后へと迎えられることになった。

 当時の状況に僅かな不安を抱いていた黄賢妃は安堵し、後宮の正当な主人を迎えられることに因って齎される変化に期待を寄せたが、女官達に抱えられて連れ込まれたその姿を見て愕然としたものだった。

 あんなにも幼い童女が、この後宮を取り仕切れるわけがない。


 結局、三年前に王太后が亡くなるまで、なにも変わることがなかった。天麗公主が亡くなったのはその前のことだったが、彼女の残虐な仕打ちのなにひとつとして、大きく伝聞されることはなかった。


「初めは、我も疑ってはおらなんだ。しかし、しばらくして、よう昭儀しょうぎの娘も死んだ。そのときも居合わせたのは天麗公主だった。それ故に確信したのだ。あの方が手に掛けたのだと」

 黄賢妃の話に鈴雪は思わず身震いした。


「助けられなくてごめんなさい、と泣きながら床の中から謝ってきた公主のことを、私は、微塵も疑いもしませんでした」

 黄賢妃の言葉を継いで寧貴妃が零す。その声が涙に震えた。


 鈴雪は藍叡を見る。亡くなった子供達の父親であり、恐ろしいことをしでかした公主の兄であるこの男は、そのとき、いったいなにをしていたのだろうか。

「誰も……黄賢妃以外、誰も、天麗公主のことを疑ったりはなさらなかったのですか?」

 問いかける鈴雪の声も知らずうちに震える。

「黄賢妃も、公主のことを不審に思っておいでだったのに、誰にも、なにも仰らなかったのですか?」

 当時のことなど幼かった鈴雪は知りもしない。けれど、ここにいた人々は実際にそのときを共にし、関わっていたのではなかったか。

 今更いったいなんだというのだ。八年も経ってそんなことを言い出しても、肝心の天麗公主はとうに亡くなっているし、誰もなにも知ることはないことではないか。


「誰が疑えると言うのだ」

 責めるような鈴雪の言葉を遮り、藍叡が呟く。


「お前は糾弾出来たか? 自らも溺れかけ、何日も生死の境を彷徨う高熱に魘される公主に向かい、お前が幼子を凍える池に突き落したのだろう、などと、お前なら問えたのか、鈴雪?」

「それは……」

 出来るわけがない。そんな状態の人のことを疑えるわけがない。

 鈴雪は口を噤み、僅かに俯いた。

「――…だが、お前の言も一理ある。芳蘭の訴えを聞き入れなかったのは俺だし、仕置きとして冷宮に入れたのも俺だ」

 苦々しげな呟きが藍叡の口をつき、眉間に深い皺が刻みつけられる。


 あのとき、黄賢妃が勇気を振り絞って奏上して来たことを、藍叡は黙殺した。それどころか、命がけで太子の命を救おうとした天麗公主に対して非情であるとして、頭を冷やせ、と冷宮に行くように命じたのだ。

 少しは疑うべきだったのだ。思慮深い黄賢妃が、言われない罪を着せたり、他人を陥れるような性分でないことくらいは知っていた。そんな彼女が口にするくらいなのだから、そう判断する要素があったのだから。

 簡単に事故として片付けてしまわず、もう少し調べてみればよかったのだ。そうすれば、なにか不可解なことなども見つかったかも知れない。けれどあのときは、藍叡も相当に気落ちしていた故に、あまり煩わされたくはなかったのだ。だから黄賢妃の訴えも退けてしまった。


「今更悔いても詮ないことだとはわかっている。だが、世継ぎ云々に関わらずとも、幼い命が奪われる連鎖だけは止めねばならん」



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