六 面倒事(四)


 軽く夕餉を済ませて身支度を整え、刻限が来たので房を出る。相変わらず回廊のあちらこちらから、様子を探る人々の視線を感じはするが、以前より数が減っているようにも感じた。そのことに内心でホッとする。

 王の寝所の前に辿り着くと、いつもと同じように人払いされ、供でやって来た玉柚ぎょくゆうも戻って行った。


「明後日の晩は、少し騒がしくなる」

 もうほとんど緊張を感じることなく部屋に入って来た鈴雪りんせつに向かい、藍叡らんえいは相変わらず書状を読み耽りながら、そんな言葉を投げかけて来た。

「なにかあるのですか?」

 前回こちらに来たときに、少し書籍の山を整理して置いた筈なのに、また随分と散らかっている。たった三日でこれか、と思わず眉が寄った。

永清君えいしんくんがお帰りになられるので」

 藍叡の代わりに答えたのは竣祥しゅんしょうだった。初めてここを訪れたときと同じように、続き間の方でお茶の支度をしている。


「暑気払いも兼ねて、先日よりも多くの廷臣が列席しての宴になります。楽の音だけでなく、旅芸人や舞い手なども呼び寄せて、少々賑やかしいものになりますね」

「お祭りみたいですね」

「ああ、そうかも知れませんね。まあ、そこまで雑多な感じにはならないと思いますけれど。――どうぞ」

 淹れたてのお茶を差し出されたので礼を言って受け取り、一口啜る。ちょっと湯冷めしかけていたので、温かいお茶は嬉しかった。

「主上、お茶が入りましたよ」

 まだ来ない藍叡に向かい、竣祥は急かすように声をかける。それに対して「すぐに行く」とぶっきら棒な声が返り、ややして、書面を巻き取る音が続いた。


「こちらに戻られてから十日余りが経過致しましたが、如何ですか?」

 藍叡がやって来る足音を聞きながら、竣祥は早々に本題を切り出す。

 そうですね、と鈴雪は少し考え込むように首を捻った。

「まだなにもわかっていないというのが現状なのですが、ねい貴妃きひこう賢妃けんひは、お互いのお子様をお互いに殺されたと思い合っているそうです」

 これは黄賢妃から聞いただけの答えなので、信用度は低い。寧貴妃側からも聞いてみないことには正確なことはわからないが、しばらく様子を見ていても、なんとなくそう思い合っているのだろうな、というのは感じられるくらいには、二人の態度は明白だった。

 そのことも説明すると、藍叡は苦笑した。

「あの二人は昔からそうだ。原因はなんだったかな……」

「絹の色だか、花見だかではありませんでしたか?」

「ああ、そんな話だったか?」

「違いましたかね?」

「さてなぁ……言い合いなど頻繁のことだったしな」

 なにせ二人が出会ったのは十年以上も前の話だ。ただでさえ記憶は曖昧になってくるような年月が流れているというのに、原因になった出来事は物凄くくだらない内容だったので、記憶力には自信のあった竣祥でさえもよく覚えていない。

 とにかく、寧貴妃と黄賢妃の対立は、ほんの些細でくだらないものから始まり、今日のような状況に至っているのだという。

 同じ敷地内、ひとつ屋根の下ともいうべき環境で共に暮らしながら、そんな状態をずっと続けているというのだから、ある意味尊敬にも値する。


「でも、寧貴妃はそんなことをするような人ではない、と黄賢妃は仰っていました」

 男二人がお互いに顔を見合わせて苦笑しているところへ、鈴雪は静かに口を挟む。苛烈な性格ではあるが、そんなにも非道なことをするほどに情がない女ではない、と黄賢妃は寧貴妃を評していた。

「その意見には、私も同意致します」

 鈴雪には実際のところ、寧貴妃のことはよくわかっていない。あの茶話会以降も、何度か面会を求めてみているのだが、体調が悪いとか、いろいろと理由をつけられて避けられている。先日の玉門の前でのやり取りに腹を立てているのかも知れない。


 そんな鈴雪の話に、そうか、と藍叡は頷いた。

菖香しょうこうのことは俺の方でなんとかしてやろう。……他に、なにか気にかかることは?」

「はい。あん……」

 そこまで言いかけ、ハッとする。


 あん充媛じゅうえんは、永清君に恋をしているのかも知れない――これは言ってもいい話なのだろうか。本人に直接確認したわけでもないし、なにかそうしたような行動を取っているところを確認したわけでもない。ただ、白鷺姫という恋する乙女の舞いを披露しながら、永清君に熱い視線を向けていただけだ。その視線だって、もしかすると鈴雪の見間違いかも知れなかった。


 少し考えてから、口を噤んで咳払いをし、曖昧に誤魔化す。

天麗てんれい公主というお名前を耳にしました」

 安充媛の話題から逸らそうと、よう昭儀しょうぎが口にしていた名前を思い出す。

「王様の、亡くなられた妹君とか」

「ああ、そうだ」

 頷きひとつ、藍叡は静かにお茶を啜った。

「どのような方だったのでしょうか?」

 いつまでも少女のようで、病弱故に後宮の中で育って生涯を閉じた、と聞いた。楊昭儀はそんな彼女を好もしく思っていたような口振りだったので、どんな女性だったのか少しだけ興味があった。


 藍叡は静かに茶碗を置き、己の指先に視線を落としている。

 こんな様子の藍叡を見るのは初めてで、鈴雪は僅かに首を傾げた。

「知ってどうする?」

 視線を指先に落としたまま藍叡が呟く。これまた初めて見る様子で驚いてしまう。

「いいえ、どうするということもありませんが……。ただ、楊昭儀が随分お慕いしているようなご様子でしたので、どんな方だったのかと気になっただけです。ご気分を害されたのなら、申し訳ありませんでした」

 確かにもう何年も前に亡くなっている人物について尋ねても、なにがどうなるわけでもない。ただ鈴雪の好奇心が満たされるだけだ。


 失礼なことをしてしまった、と申し訳なく思っていると、藍叡も自分の言い方がきつかったことを感じたのか、軽く咳払いした。

「いつまでも、童女こどものような娘だった。花摘みと、月琴を弾くのを好んでいたな」

 そこまで言葉にして、ふと、なにかに気づいたような顔になる。

「王様?」

 黙り込んだ様子に声をかけると、藍叡は難しい顔をして首を振った。

「竣祥、古い宮女名簿はまだ保管してあるな?」

「もちろんです。文書庫にございます」

「過去二十年分、すぐに用意してくれ。確認することが出来た」

「御意」

 頷いた竣祥はすぐに立ち上がり、周囲を気にしてから部屋を出て行った。


 なにがなんだかわからない鈴雪は、静かに閉ざされた扉を見送ってから、まだ難しい顔をしている藍叡を振り返る。彼はその視線に気づきつつもなにも言わない。

 寝所の中には沈黙が下りてきて、時折ジジッと照明が微かに爆ぜる音が響く。


 なにを考え込んでいるのだろうか――気になったが、どうも声をかけられるような雰囲気ではない。そっと立ち上がり、すっかり冷めてしまった茶碗を空け、新しく淹れ直す。

「天麗の名を出してくれて助かった」

 茶碗を置くと、藍叡がぽつりと呟いた。

「昔、あれにはある疑念があったことを思い出した」

「疑念、ですか?」

 短く頷き、新しいお茶を一息に飲み干す。空になった茶碗を戻しながら、藍叡は昏さを含んだ鋭い目つきを鈴雪へと向けた。


「あれが幼子を殺めた――という疑念だ」



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