六 面倒事(一)



 あと二十日ほどで重陽ちょうよう節だ。

 お抱えの園丁にわし達が忙しく葉の具合などを見て回っている菊花の鉢は、どれもがまだ小振りな硬い蕾を眠らせている状態だが、これから重陽節の当日に向けて花開かせ、宮殿中を埋め尽くしてくれる予定となっている。

 この暑い中、日当たりの加減で鉢を移動させたり、水を与えたり、園丁の男達には相当な重労働だろう。それが彼等の仕事とはいえ、ご苦労なことだ。

 鈴雪りんせつが労いを込めて冷えた茶を振る舞うと、彼等は一様に恐縮した様子になって茶碗を戴き、恐る恐るとした仕種でもしっかりと飲み干していた。真っ黒に日焼けした顔が屈託なく笑う様子に、鈴雪も笑みを返した。


「王后様」

 園丁達の仕事見舞いを終え、居室に戻る為の道を歩いていると、門衛を務める衛士が駆けて来た。

「ご面会の方が」

 礼儀正しく拝跪した衛士は端的に用件を告げる。鈴雪は静かに眉を寄せた。

「お断り致しますか?」

 初めから鈴雪の答えを知っていたかのように、衛士は尋ねる。

 ええ、と短く頷くと、彼は承諾してすぐに立ち上がり、持ち場でもある境界門の方へ駆けて行った。

「なかなか諦められませんね」

 走り去る衛士の後ろ姿を見送りながら、恵世けいせいが溜め息混じりに零した。

 まったくだ。鈴雪も思わず溜め息を零す。


 面会を求めて後宮の門を叩いているのは、鈴雪の兄を名乗る男だ。今まで会った覚えもなければ、記憶にすらない。

 それでもそう権清けんせいという名のその男は、確かに鈴雪の生家の子息であり、兄といえば兄なのだ。一応の血の繋がりもある。

 しかし、宋家の男子に与えられる『せい』の字を名に持たないことで、その立場は窺い知れる。権清は嫡子として認められていないのだ。


 そんな男が、先日の永清君えいしんくんの歓待の宴の晩から、鈴雪への面会を求めるようになった。

 初めの接触は、宴も終盤に差し掛かり、宵の帳も深くなった頃、妃嬪達は王や重臣達の男性陣よりも一足早く退席することとなったときに、広間を出てすぐのところで物陰から声をかけられたことだ。

 一応の無礼を詫びた権清は、自分は鈴雪の兄だと名乗り、大事な話があるので後日時間を作って欲しい、と告げて来た。

 控えていた玉柚ぎょくゆうと合流した鈴雪は、兄を名乗る男の身許を確認する意味で尋ね、事実その通りだという答えを得てから、申し出にはっきりと断りを入れた。それなのに権清は、毎日訪ねて来ては面会を求めてくる。


 そんなことも今日で七日目になる。いい加減にしつこい。

 困ったものだ、と部屋に戻ってお茶を淹れてもらっていると、先程の衛士が再びやって来た。

「本日は、お会い出来るまで決して動かぬと、門前で居座られております」

 衛士は困り果てた顔でそう告げ、追い返すようにとの命を守れず申し訳ない、と言わんばかりに深々と叩頭した。

 まだ陽は随分と高い。本来なら務めを果たしている頃ではないのだろうか。

 仕事を放り出してまで座り込みをしているということか、と呆れ半分、憤り半分、鈴雪は大きくはっきりと溜め息を零した。

「日没の少し前になってもいらっしゃるようなら、もう一度報告を頂けるかしら?」

 少し考えたのち、鈴雪は衛士にそう提案した。彼は大きく頷き、

「一応、王后様のお考えはお変わりない、とお伝え致しましょうか?」

 と尋ねてきた。話が早くて助かる。

 そのように応対して来る、と答えた衛士は、すぐに自分の持ち場へと引き返して行った。

「しぶとい御仁ですね」

 この訪問が始まっていったい何日だ、と指折り数えた玉柚は苦笑する。そうね、と頷きながら、鈴雪はもう一度溜め息を零した。


 権清の話はわかっている。もっといい官職が欲しいのだ。

 表仕えに兄弟のいる小玉しょうぎょく丁花ていかが探って来てくれたところ、権清は交易管理局の農務部で書記官補佐という役職を得ているらしいのだが、各部署に二十人ほどもいる書記官に補佐というものは特に必要のない役職で、若手が先輩の仕事を見て覚える為の立場なのだとか。

 つまり、事実上の閑職だ。彼にはその程度の能力しかないと判断されているということに他ならない。


 どんな立場の者であっても、才覚があれば積極的に採用して取り立てる。藍叡らんえいの布いた政策はそういうものなのだから、身分や出自、血筋に関わらず、己で努力をすればいくらでも高位の官職を得ることが出来る筈なのだ。

 それなのに、権清はその努力を放棄して、二十年近くも会ったことも話したこともなかった妹である鈴雪を頼ろうというのだ。開いた口が塞がらない。


 先日の宴以来、考えなければならないことがいろいろとあるというのに、本当に煩わしい。

 誰かに対してこういった気持ちを抱いたことがなかった鈴雪は、そんなことを考えてしまっている自分にもうんざりする。


「鈴雪様、よう昭儀しょうぎがお見えです」

 空になった茶碗を指先で弄んでいると、取り次ぎの小玉がそう告げて来た。

 意外な人物の名前を耳にして少々驚くが、すぐに通すように伝え、座る場所を用意するように玉柚に頼んだ。

「先触れもなく、ご無礼致しました、娘子じょうし

「構いません。どうぞこちらに」

 通された楊昭儀は詫びの言葉を口にして、丁寧に腰を折ってくれたので、鈴雪も不快な気持ちを抱くことなく迎え入れる。


「なにかありましたか?」

 鈴雪が後宮に戻ってから既に十日以上が経っているが、今まで一度として、他の妃嬪達が訪ねて来てくれることはなかった。少し不思議な心地だ。

 はい、と頷いた楊昭儀は、共に連れて来た侍女を呼び寄せ、彼女が持っていた籠を受け取る。

「縁戚の者が桃を届けてくださいましたの。少々ではございますけれど、娘子にも是非と思いまして」

 覆いを外し、大きな桃を見せて来た。まあ、と鈴雪は思わず声を漏らす。

「こんな立派な桃を?」

「はい。唐雲とううん県の桃です。お口に合えばよろしいのですが」

 桃の産地として有名な地方だ。

 宮殿にもたわわに実の生る桃苑はある。しかしその桃は観賞用のもので、香りはとてもいいのだが、味の方は今一つなのだと聞いたことがある。園丁達が土を改良したり、肥料の配合を変えたりといろいろと手を尽くしているらしいのだが、一向に味がよくならない。

 しかし楊昭儀が持って来てくれたこの桃は、天下一品だと言われる甘さと果汁で有名な唐雲県のものだ。後宮に届けられるくらいなのだから、きっととても高級で、味もよいものが選ばれたのだろう。

「いい香り……。ありがとう、楊昭儀。嬉しいです」

 心から笑みを浮かべて礼を言うと、楊昭儀も嬉しそうに笑ってくれた。


 それから少し、いくつかの話をした。楊昭儀はその風貌に見合ったおっとりとした喋り方で、柔らかく微笑む女性だということを鈴雪は把握した。とても柔和で感じがいいと思ったが、それ故に、この後宮という場所には少々不似合いなように感じられる。

「先日の茶話会、楽しゅうございました」

 出したお茶がなくなる頃、思い出したように楊昭儀は言った。

 そうですか、と頷くと、彼女は思い出し笑いを浮かべる。

天麗てんれい公主様がご存命だった頃には、私達もよくああした茶話会を致しておりました。それももう、随分と以前のことで」

 耳慣れない公主の名前に目を瞬かせると、それに気づいた楊昭儀は慌てて申し訳なさそうに頭を下げた。

「娘子はご存じありませんでしたね。主上の一番下の妹君で、ご病弱故に降嫁されることもなく、この後宮でお過ごしのまま、五年前にお亡くなりになられました」

「そうなのですね」

 藍叡の妹で、後宮にずっといたのなら、なにかの折りに見かけたことがあるかも知れない、と思ったが、九年前にここへ連れて来られたときはほとんど閉じ込められていたし、婚儀のときの列席者なども記憶にはない。

「いつまでも少女のように朗らかで、とてもお美しい方でした。桃色のお衣裳がお似合いで……」

 懐かしむように楊昭儀は呟いた。


 五年前に亡くなったということは、随分と若くして亡くなられたのではないだろうか。この美しくも醜く、巨大な牢獄のような後宮から出ることもなく、その花のような生涯を終えたということだろう。

 なんと儚い。憐れだ、と鈴雪はその亡き公主へと思いを馳せた。



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