五 白鷺姫の宴(四)
「
空になった盃に茶を注いでくれながら、
その言葉に
対立する者を作れば、それだけ自身に危険が及ぶ。それを回避する為には、特に懇意とする者も反目する者も作らないように心がけながら全員と平等に付き合うか、誰とも深く関わらずに中立を保つかしかない。
その考えに黄賢妃は頷いた。
「では、正直にお考えをお話しくださった礼に、ひとつ、お教え差し上げよう」
その言葉に鈴雪は目を向ける。
「子を殺している者は、恐らく一人ではない」
静かに低く零されたその囁きは、吐息のように本当に小さく微かなものだったのに、酒席の喧騒にも負けず、はっきりと鈴雪の耳に届いた。
黄賢妃は左手を腹の上に当て、静かに握り拳を作った。
「
半月ほど前に亡くなった幼い太子のことを言っているのだろう。瑛という名だったのか、と思いながら、鈴雪は微かに頷く。
「
それは長く子を抱くことが出来なかった女の本心なのだろう。空っぽの腕の中をそっと見下ろす横顔は、慈愛に満ちた母の顔だった。
「故に、許せぬ。罪なき宝を奪う愚か者が」
その言葉には同意しかない。
なんの為に子を殺すのか。自分が世継ぎを生みたいが為、他の太子の命を奪うのならまだわかるが、王位に関わりのない公主まで命を奪われる必要はないではないか。
「黄賢妃は、誰が……その、手を下していると、お思いなのですか?」
本当はこういうことを訊くべきではないとわかっているが、同じ気持ちでいてくれている彼女の意見は少し聞いてみたかった。
黄賢妃はふっと小さく微笑む。
「寧貴妃」
返答はあまりにも明瞭だった。けれど、すぐに緩く首を振る。
「――と、言いたいが、先程も言うたように、一人のしたこととは思えぬ。それはもちろん妃嬪とは限らぬ」
「女官が、自らの意志で、子殺しに手を出していると?」
それは意外なものだった。
この
そして
それは黄賢妃もわかっていることなので、彼女は静かに首を振った。
「わからぬ。しかし、いくらあの女狐が苛烈な
さすがに付き合いは長いらしく、そういう性格のことは把握しているようだ。
そうですか、と頷いていると、広間の半ばの方でわっと歓声が巻き起こる。
何事かと思って見遣ると、まだ僅かに幼さの感じられる頬を赤らめた
「宴席に、僅かながらの華を添えとう存じます。お許し頂けますでしょうか、主上?」
こてりと首を傾げ、お
「好きにせよ」
「有難う存じます」
嬉しげに深々と頭を下げると、安充媛は楽団の方へ目を向ける。視線を受けた楽師は頷き合い、曲を切り替えた。
「……またか」
新しく奏でられ始めた曲を聴きながら、黄賢妃は眉を寄せて苦々しげに呟く。
広間の中央にいる安充媛は、持って来させた被布をふわりと腕に通し、長い袖を優雅に翻して顔を隠す。
「白鷺姫だ。毎度これを舞う」
楽の音に合わせて安充媛の身体がゆらりゆらりと揺れ、長い袖と被布は初夏の爽やかな風に揺れる枝葉のように、涼を齎す清流のように、たなびいて舞う。その様のなんと美しいことか。
「あの……無教養でお恥ずかしいのですが、これは、白鷺姫の物語を題材にした舞いですか?」
安充媛の舞いに目を奪われながら、黄賢妃にこっそりと尋ねる。そうだ、と彼女は頷き返してくれた。
「若者の前に降り立ったところから、惹かれ合い、別離を迎え、再び愛を確かめ合うまでのすべてを舞いにしている。宮中では不謹慎だと流行らぬのだが、安充媛は好んでおるな」
舞いは初めて目にするが、白鷺姫の小説は鈴雪も読んだことがある。
美しい一人の娘は、悪しき道士に見初められてしまう。心に決めた男性のいた娘は道士の求愛を断ると、怒った道士の邪術に因って白鷺の姿に変えられてしまい、百年の間道士から逃げ続けることが出来れば、諦めて元の姿に戻してやろう、と告げられた。しかし、このことを誰かに話したら永遠に白鷺の姿のままだという。
娘は必死に道士から逃げ回る。その間に愛していた男性は死に絶え、優しかった家族も皆亡くなり、たった一人、白鷺の姿で逃げ続ける。
もう少しで百年になろうかという頃、道士からだけでなく猟師からも逃げなければならない日々に疲れ果て、泉の淵で羽を休めていた。この頃になると、呪いの効果は薄れ、満月の晩にだけは元の姿に戻れるようになっていた。
そこで一人の青年に出会う。嘗て愛した男とよく似た青年だった。
二人は一目で恋に落ちた。けれど、この恋は叶うことがない。道士の呪いの期限までは、まだあと三年程あるのだから。
それでも娘は青年に会いたくて、満月の晩にだけ密かな逢瀬を重ねる。そんな娘のことを青年は不思議に思っていたが、無理に問うことはなく、娘が自分の妻となってくれる日を静かに待つことにした。
そのことに道士は気づいてしまった。そうしてある満月の晩、道士は青年を昏倒させるとその姿に化け、泉の畔で待ち構えていたのだった。
そんなことを知らない娘はいつものように愛しい青年に会いに来た。しかし、熱い抱擁を交わした相手は、あの憎らしい道士だったのだ。
娘は人型から再び白鷺の姿に戻されたことでなんとか道士の手からは逃れる。けれどもう二度と青年と会うことは出来ないのだと悟り、悲しみに暮れた。
娘と道士のやり取りから呪術の存在を知った青年は、在野の道士の許を訪ね、術を解く為の知恵を貸してもらうことにする。
心優しい道士の力を借りて悪しき道士を倒した青年は、人の姿に戻った娘と結婚し、末永く幸せに暮らした――という伝承を許に作られた小説が『白鷺姫』だ。
他の男に言い寄られたり、見知らぬ男と一目で恋に落ちたり、たった一人の男に仕える後宮の妃嬪の立場から見れば、あまりいい設定ではない。しかも、妃嬪は後宮から生涯出ることが叶わないというのに、あちらこちらと飛んで逃げ回る娘が主人公なのはあまりよろしくない、と眉をひそめる人がいてもおかしくはない。だから不謹慎だと言われるのだろう。
昔からある恋愛小説で、若い娘は好んでいる話だ。鈴雪も離宮にいるときに手に取ったし、面白い読み物だと思った記憶がある。
舞いは既に佳境に入って来ており、白鷺姫が青年の許を去る情景の場面のようだった。安充媛の表情があまりにも切なげで、胸に来るものがある。
「彼女は若い」
黄賢妃が呟く。その声に鈴雪は顔を上げた。
「故に、あのように情感を込めて舞うは、危ういことよ」
白鷺姫に己を重ねるかのように、安充媛は舞い続ける。細身ながら豊かに女らしさを実らせた肢体を撓らせ、動き続けたことで紅潮した顔には切なくも妖艶な表情が浮かぶ。男から見れば、なにか心の奥の方でざわつくようなものだろう。
その視線が向けられているのは、上座の方――それは当たり前のことだ。
しかし、どうも視線が僅かに藍叡から逸れているようにも感じる。
「……気づいたかや?」
鈴雪の胸の内に小さな疑念が芽生えたところで、黄賢妃が茶を注ぎながら尋ねてきた。
では、勘違いではないのだろうか。
「まさか……」
鈴雪は思わず黄賢妃を見遣る。彼女は静かに頷き返し、僅かに双眸を眇めた。
安充媛の切なげな視線が投げかけられているのは、藍叡ではなく――
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