五 白鷺姫の宴(三)


 溜め息を零しそうになりながら玉柚ぎょくゆうを振り返ると、彼女は満足気な笑みを浮かべて頷いてくれた。どうやらこの対応で正解だったらしい。


 行きましょう、と自分の供の者達に促して回廊を渡ると、少し遅れてねい貴妃きひ達も続いて来る。その後ろには丁度こちらにやって来ていたこう賢妃けんひも加わり、ずらりと長い行列になってしまった。その先頭に立つことになってしまった鈴雪りんせつは少々うんざりしたが、目にした表仕えの者達は、その華やかさに思わず感嘆の表情を見せる。


 広間の前で案内の為に控えていた侍従は、鈴雪が先頭をやって来たことに少々困惑したようだ。普通は位階序列や身分の低い者から順に着座し、貴人は最後に来るものとされている。順序が逆だ。

 しかし生憎と、離宮暮らしが長く、宴席の作法などに疎い鈴雪はそういうことがわからず、何故彼が困ったような顔をしているのか理解しがたかった。このことは教えるのを忘れていた玉柚の失態だ。

 結果として、鈴雪は寧貴妃達を従えるように入室することになり、その姿の堂々とした様子に、既に着座して待ち構えていた廷臣達はギョッとしつつ、年若い王后が側室達を掌握しているのだと解することとなったのは皮肉だろうか。


 段の上の上座は藍叡と永清君の席らしいと目を向けていると、妃嬪達はそのすぐ下の席だと案内される。席次は特に決められていない、と告げられたので、宴席にはあまり長居をしたくない鈴雪は、退席しやすいように下座寄りに座ろうかと思ったのだが、それはさすがに許されなかった。侍従が「恐れながら王后様はこちらに」と鈴雪の席だけは指定してくる。

 つい先程、女官や衛士の前で恥を掻かされることになった寧貴妃は、隣になど座りたくない、と言わんばかりに対面の席に行ってしまう。

 その態度に若干呆れながら卓の向こうに回り込もうとしているときに、よう昭儀しょうぎあん充媛じゅうえんがやって来た。

 二人は自分より上の位の妃嬪達が既に着座しかけているところを見て、慌てて中に入って来ると、まずは鈴雪に頭を下げて詫びる。そんなこといいのに、とやんわり宥めると、恐縮した様子の二人は寧貴妃の方へも謝罪に行くが、若干機嫌のよろしくない彼女はそっぽを向き、さっと手を払った。


「先程のご処断、少々手緩かったのでは?」

 やれやれ、と思って腰を下ろして裾を払っていると、隣に座った黄賢妃が囁きかけてきた。相変わらず窶れてはいるが、先日の茶話会のときよりかは幾分顔色がいい。

「そうでしょうか?」

 鈴雪は小首を傾げる。

 本当はあんな罰すら与えたいとは思っていなかった。けれど、あの場ではああ振る舞うしかなかったので仕方なしとしたことで、あれが最良だと思っていたのだが。

「あの場合は、寧貴妃をはっきりと叱責し、蟄居ちっきょか、冷宮れいぐう送りにでもしてしまえばよろしかったのです」

「……そこまではさすがに出来ません。だいいち、あれは女官のしたことです」

「なればこそ、主人である寧貴妃の監督責任を問えばよかったのですよ。あれの態度は目に余る」

 そう言って、黄賢妃は酷く冷淡な目つきを寧貴妃へと向ける。


 冷宮とは、妃嬪達の中で王の寵を失った者や、後宮内で大罪を犯した者が送り込まれる場所だという。丑寅の方角に高い石組みの塀があり、その奥がそれだという話だった。

 罪を犯した妃嬪には粗末な建屋に冷えて粗末な食事しか与えられず、身の回りのことはすべて己で熟さなければならない。有態に言えば懲罰小屋なわけだが、管理は引退した宮女が務めているとかで、酷い体罰を加えて精神的にも肉体的にも追い詰め、改心させて懺悔させるどころか、命を絶つように仕向ける者もあるとか。とにかく恐ろしい場所だ、と玉柚から言い聞かせられていた。

 確かに寧貴妃の女官がしたことは無礼な振る舞いであり、不敬罪だ。けれど、そんな場所に送るほどのことではない。先程の平手打ち程度でいいことではないか。


 鈴雪は黄賢妃をそっと見遣る。

「私が不在の間――それより以前からのことかも知れませんが、あなたと寧貴妃があまり仲がよろしくないのはわかっています。その私的な感情で、ありもしない罪を着せるのは、さすがにやり過ぎだと思います」

 その言葉に黄賢妃は片眉を上げた。

娘子じょうしはあの女狐の味方をなさるか?」

 そういう話ではない。鈴雪はどう説明すべきか、と考えて口を開くが、銅鑼の音が鳴り響き、侍従が「主上のお越しにございます」と声を張り上げた。


 居並ぶ者達がさっとその場に拝跪すると、藍叡らんえいが大股に広間を突き進んで行く。その後ろを相変わらず奇天烈な格好の永清君えいしんくんがゆるゆるとした足取りでついて行った。

 藍叡は腰を落ち着けると、永清君が座るのを待って、楽師達の方へ手を振った。それを合図に、宴の開始となった。


「……私は、誰の味方ということはありません。寧貴妃の味方でもなければ、あなたの味方でもありません。中立でいるつもりです」

 楽師達の奏でる耳馴染みのある楽曲を聞きながら、鈴雪は先程の答えを黄賢妃に返した。

 ほう、と一重の瞳が鋭く光る。

「中立とな。面白いことを申される」

 まったく面白くなさそうな口調で呟きながら箸を取り、端にあった菜物をつつく。

「後宮の中で、この私だけは、絶対に中立であらねばならぬと思っています。違いますか?」

「ほほっ。歴代の王后が聞いたら、さぞ驚かれることだろう」

「あなたも驚かれたのですか?」

「驚いてはおりませぬな。どちらかというと、少々呆れたという方が正しかろうか」

 今度は可笑しそうに笑って答え、つついた菜物を口に運んだ。

 鈴雪も箸を取り、蒸し鶏を一切れ口に運ぶ。酒席で供される料理だったので味はどうかと思ったが、濃くも薄くもなく程よい味つけだったことに思わず安堵する。これなら少し食べられそうだ。


「先日の、氷菓」

 汁物と飯物もあればいいのに、と膳の上を見ていると、黄賢妃が呟く。

「細工をしろと命じたのは、我だ」

 その突然の告白に、鈴雪は静かに双眸を瞠った。けれど、騒ぎ立てるようなことはせず、何事もなかったかのように「そうですか」と頷くだけに留めた。


「たった十余で王后と定められた娘とは如何様な者か、試させて頂いた」

「私が口を切って騒ぎ立てず、残念でしたね」

「残念? いいや。そうでもない」

 鈴雪が意地悪く応じると、黄賢妃は口許を笑ませる。

「これで子殺しはなくなると安堵致した」

 低く零されたその言葉に、鈴雪はぎくりと手を止める。


 黄賢妃は侍従から受け取った瓶子を捧げ持ち、どうぞ、と勧めてきた。

「たった今、氷菓に細工をしたと仰った方のお酌を受けるとでも? それに、御酒は頂きません」

「警戒されるな。我も御酒は苦手故、これは茶だ。酒席で茶を所望しては興が殺がれようからに、こうして瓶子に淹れさせておる」

 そう言って先に自分の杯に注いで見せ、毒見のつもりなのか、ひと口飲んでも見せる。

 鈴雪は自分の杯を袖口で軽く拭ってから、黄賢妃の方へ差し出した。


「何故あのとき、騒がれなかった?」

 注いでもらったお茶の味を確かめてみるが、変に感じるところはない。本当に普通のお茶だ、と思いながらもうひと口飲むと、黄賢妃が話を戻してきた。

「騒いでもなにもならないと思ったからです」

 夕刻になって涼しくなってきたとはいえ、まだ暑い。少し温いが、お茶は渇いた喉にとても美味しく感じられた。

「あそこで私が騒ぎ立てても、下手人を決めつける程の判断材料もなく、あの程度の玻璃如きで騒ぐ器の小さな小娘と嘲られるだろうと思いましたし、あまり得策ではないと思ったからです」

「悪意は感じなかったと?」

「いいえ。もちろん感じました。けれど、恐ろしさは不思議と感じませんでした」

 怪我をする可能性は確実にあったが、それは取り返しのつかないほどのものではないし、ただの嫌がらせだろうと思えば、悪意は感じても恐怖を抱くほどではなかった。


「面白いな。……もう一杯如何か?」

「頂きます」

 注がれたお茶をもう一度飲み干し、鈴雪は静かに目線を上げる。

「初めは、やはり寧貴妃がしたことだと思いましたし、彼女もなにか知っているような口振りでしたので、疑いは強くなりました」

「しかし、糾弾するほどの材料がなかった故に、黙して躱したと?」

「そうですね。あの場では、それが正しいと思いました」

 頷きを返しながら、深刻な話をしていることを悟られないように、料理に箸を延ばす。さっきの蒸し鶏はなかなかに美味だった。

 そんな鈴雪の様子を見つめながら、黄賢妃も同じく料理を口に運ぶ。


 みんな酒が随分と進んできたらしい。楽団の音色よりも笑い声や話し声の方が大きく聞こえるようになってきている。

 上座からは永清君の陽気な笑い声が響いてくる。手酌で飲んでいる藍叡と違い、彼は引き連れて来た侍女を侍らせ、酌をさせていた。

 軟派な男なのだろうか、と鈴雪はひっそりと眉を寄せる。無能者を装っているにしても、少しやり過ぎではないだろうか。本当にそういう怠惰な男なのだと認識せずにいられない。


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