四 後宮の女達(四)
いくらもしないうちに、
先程適当に放り投げた布団から細い手足が出ていたので、改めてかけ直してやる。盛夏とはいえ、少し標高の高いここは朝晩は冷える。
それでもまだ手先がはみ出していたので、思わず苦笑して、起こさないようにそっと掴んで布団の中に潜らせる。
そのとき、無意識に触れた鈴雪の指先に、ちょっとした違和感を抱いた。
なんだろう、と思ってその細い指を撫でると、何ヶ所か、少し硬くなっている部分がある。その正体を確かめるように何度か撫でてみて、それが
(……ああ、あれか)
再会した離宮で、鈴雪が反物を織っていたことを思い出す。
離れていた八年の間、彼女は白絹を織って、御廟の神仏に献上していたのだと言っていた。来る日も来る日も毎日そのようなことをしていたので、すっかりと硬くなってしまったのだろう。
よく見てみれば、爪も短く整えられているし、掌は少しかさついている。これは機織りだけでなく、炊事などの雑用もしていたな、と藍叡は思った。そうでなければこのような荒れ方をする筈がない。
側室達の誰も、こんな手をしている者はない。
富裕な良家に生まれた娘達は、機織りなどしない。家事もしない。陶器のようなつるりとした美しい手で、時折筆を持って詩を書き、針を持って刺繍をし、鋏を持って花を生ける程度のことしかしないので、こんな手になることはないのだ。
思い返せば、鈴雪は幼いときから働く女の手をしていた。生まれ育った御廟では、
不思議なものだ。家事などをするのは卑しい身分である証拠だ。多少富裕な家であれば
「――…ぅ……ん……」
あまりにもしつこく撫でていた為か、鈴雪は僅かに眉根を寄せ、小さく呻いて手を振り払った。そのままごろりと背を向けてしまう。
起きたのかと思ったが、静かな寝息はそのままだった。
苦笑して藍叡も寝台に上がり、鈴雪の隣に横たわる。そろそろ就寝すべき頃合いだ。
幼い頃から変わらない折れそうなほどに細い首の下に腕を差し入れ、これまた驚くほどに細い腰を抱いて引き寄せてみるが、すっかり寝入ってしまっている鈴雪は抵抗なく藍叡の腕の中に納まった。
やはり疲れていたのか、鈴雪はよく眠っている。
腕の中にあるあどけない寝顔に、藍叡はなんとも言えない感情を抱いた。
(あのときも、こうして眠ればよかったのだろうか)
同じ寝台に横たわっていて思い出すのは、八年前の婚儀の晩――幼かった鈴雪との初夜となる筈だった晩のことだ。
あのときの鈴雪はまだまだ幼く、もしかすると、初潮もまだ迎えていないような頃だったのかも知れない。当然、男女の
それでもあの晩、鈴雪は藍叡に対して本能的に怯え、いつも以上に泣いて嫌がり、たどたどしく逃げ惑っていたのだろう。
儀典や祝宴の疲れもあって苛立っていた藍叡は、その様子に酷く腹が立った。だから乱暴なことをしてしまった。
元々、あんなにも幼い
片腕だけで抱え上げられるほどだった鈴雪は難なく捕まえられ、簡単に組み敷くことが出来た。
寝台に抑えつけて、少し脅かしてやるだけのつもりだった。それなのに、あれだけ泣き叫んでいた鈴雪は組み敷いた途端に声も出さず、全身を硬直させて、その大きな黒い瞳でただただ藍叡を見上げていた。恐怖でいっぱいになったあの瞳で。
暗がりの中でもはっきりと認識出来たあの幼い瞳を、未だに忘れることは出来ない。
安らいだ表情で眠る鈴雪の顔を見つめ、思わず眉を寄せる。
あのときも、苛立ちを堪えてあんな態度を取らず、こうして静かに横たわっていれば、八年のときを失うことなく、この美しい娘は微笑んでいてくれただろうか。
美人でも不美人でも、女は笑った顔が最も美しいと思う。穏やかな笑みも、屈託のない笑みも、華やかな笑みも、どんな笑みも女を輝かせて美しく感じさせる。だから、鈴雪の笑った顔も見てみたかった。
藍叡は初めて出会って挨拶を交わしたとき以外、鈴雪の笑った顔を見たことがなかった。その笑顔も、見知らぬ人へ向けての愛想笑いに他ならない。にこにこと笑っていても、相手を不快にさせない為のものだった。
こんな気持ちを抱いたのは、初めてのことだ。
鈴雪が美しく育っていたから抱いた感情ではないと思う。恐らく、幼い彼女の人生を奪って、無理矢理後宮に封じたことへの罪悪感から、幸せそうに笑っていて欲しいと感じているだけだ。
だから、今日の昼に衛士から
自害した
報告にあった白粉はすぐに御殿医と監察官に調べるように指示を出し、夕刻までに漆のようなものと、なにか他のものが混ぜられている、という報告は受けていた。
漆程度では危害を加えるようなものではない。精々が皮膚をかぶれさせるのがいいところだろう。もちろん、かぶれても適切な治療をすれば痕になるようなこともないし、ちょっとした嫌がらせといったところか。
では、他のものとはなにか。その結果が早く欲しい。
青燕という女官は、
自害してまで秘密を守ろうというのならば、嫌がらせ程度ではないとしか思えない。
仮に、毒物として、それはいったいどのような効能のものなのか。経口でなくても効き目のあるものなのか、命を奪うほどのものなのか、なにが目的なのか――そういったことをすべて調べなければならない。
先日の
香炉や生薬と言われて思い浮かぶのは、
黄賢妃の子のときのことも、今回のことも、証拠は今のところ一切ない。寧貴妃ではないのかも知れない。
しかし、どちらにも共通の手口として、薬物が使われている。
それ故に、死んだ青燕が何処からどうやって鈴雪付きの女官になったのか、そこを調べれば、もしかすると黄賢妃の子殺しの件にも行き着くことが出来るかも知れない。藍叡はその淡い期待を持っている。
穏やかに眠る鈴雪の寝顔へと視線を戻し、そっと髪を梳いて頭を撫でてみる。鈴雪は僅かに身動いだが、まるで大人しかった。
(今も昔も、後宮は変わらぬ)
藍叡がまだ太子の一人として後宮に暮らしていた頃、三月に一度は、この鈴雪ぐらいの年頃の娘が新しく後宮へと上がっていた時期があった。あれは父王の側室ではなく、当時の世太子である異母兄の側室として、
後に王の資質に欠けるとして廃された異母兄は、その娘達をいたぶり、次々に儚い命を奪っていっていたのだ。それ故に廃された。
娘達もまた、次代の王の寵を得ようと、お互いを牽制し、蹴落とし合っていた。
その醜くも憐れな諍いを見たくなかった故に、藍叡は妃嬪の人数を極力抑えていた。四人でも多いくらいだが、嫡子を残す為には仕方なく、最低限の人数だと思っている。
そんな少人数でも今の状況だ。しかも肝心の嫡子がいない。
どうすればよかったのだろう。鈴雪の言う通りに、後宮など廃してしまえばよかったのだろうか。けれど、これがそんな単純な話でもないことはわかっている。
せっかく治世が平定したというのに、王の懊悩が尽きることはなかった。
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