四 後宮の女達(三)



 夜半――

 今宵も鈴雪りんせつ藍叡らんえいの寝所へと呼び出されていた。


 昼前に訪ねて来たときに「また今宵」と言い残して立ち去ったが、まさか本当に呼び出されるとは思っていなかった。

 一応は湯浴みを済ませ、身支度も夜伽のときと同じように整えていたが、どうせ昼の茶話会での成果を聞こうというところだろうと思った鈴雪は、昨夜ほど緊張せず、知人の家を訪ねるような心地で王の寝所の扉を潜った。

 藍叡もまた昨夜と同じように書状を読み耽っていた。


 続き間の方へ目を向けてみるが、今日は竣祥しゅんしょうはいないようだ。まったく気配がない。

「そこに茶がある」

 書状から目を上げないまま、藍叡が口を開いた。

 そこ、というのが何処のことだろう、と探してみると、書簡や書籍の積み上がった卓の上に茶器が置いてあった。

「飲んで待っていろ。こちらはもうじき終える」

 はい、と返事をして、卓へと近寄る。盆の上に茶碗は二つあったので、どうしよう、と一瞬迷った後、二つともお茶を注いだ。

「どうぞ」

 そのうちのひとつを差し出すと、うん、と藍叡は手だけを向けて受け取った。

 座る場所を作って腰を下ろし、お茶に口をつける。書状を読み耽っている藍叡も、その文面に目を落としたまま啜っている。


 恐ろしささえ感じていた男と二人、言葉もなく、ただ同じ空間にいる。

 穏やかだな、と感じた。それが不思議で、喜ばしくもないが不快な感じもしなくて、やはり不思議だと感じる。


 昨夜は緊張していて部屋の様子を確かめるような余裕はなかったが、こうしてゆっくり見てみると、あちこちに書簡や書籍が積み重なり、まるで政務室か、科挙の受験生の部屋のような様相だ。

 ちらりと確認した程度だが、書籍のどれも小説というわけではなく、議事録や目録のように見える。寝所という私的な空間に仕事を持ち込むほど、彼は政務に熱心なのだ。


 思えば、藍叡はあまり悪い噂のない王ではある。鈴雪の曾祖父でもある先々代の王は、暗愚として今でも揶揄される程度には名を語り継がれているくらいなのだが、藍叡のことでそういう話をしている民はあまりいない。賢王かどうかということまではわからないが、悪い王ではないのだろう。

 それでも、十年ほど前までは国情が乱れていたと聞く。第二太子だった藍叡が即位したことを不服とした第三太子が、王の資質なしとして廃された第一太子と結託して内乱を起こし、それをなんとか収めれば、今度は旱魃と飢饉が二年続いた。即位前後から不安定だった廷臣達の間には賄賂まいないが蔓延り、政治の腐敗が地方から広がり始めていたということだ。

 そんな状況を収める為に、鈴雪は御廟から連れ出されたのだ。

 自分一人が嫁ぐことでそんなものが収まるわけがない、と離宮に移ってから玉柚ぎょくゆうに詳しく講義を受けながら、鈴雪は憤慨していた。そんなことで天災や国政の腐敗がなくなるのなら、為政者など必要ないではないか。

 けれど、一年ほど経って落ち着いてみれば、まったくその通りになってしまった。

 廷臣達の腐敗については、官吏の新規登用者を増やすという策が功を奏したのか、有能な者達が官吏として多く採用され、不埒者は徐々に廃されて乱れていた機能は回復した。旱魃や水害もなく実り豊かとなり、飢饉の恐れは去った。

 鈴雪はもちろんなにもしていない。すべては藍叡と重臣達が行ったことであり、鈴雪には関わりのないことだった。

 それでも人々は言う。これも占見うらないに従って、王后を得たお陰だ、と。

 託宣とはそういうものなのだ、と玉柚は言っていた。託宣の言葉に従って行動すれば、事態は必ずよい方向へと流れていく。

 けれど、治世が平定したその反動なのか、子が次々と夭逝してしまう。


「収穫は得たか?」

 つれつれと考えごとをしていると、読み終わった書状を巻き取りながら藍叡が尋ねてきた。

 やはりその話だったか、と思った鈴雪は、静かに頷き返した。これを訊く為に呼び出されたのだ。

「なんとなくではありますが、側室の方達の力関係というか、人間関係のようなものを把握致しました」

「そうか。意味はあったか」

 頷いて笑い、手を差し出して「近う」と告げられる。

 言われるままに傍に寄り、見下ろすのは失礼に当たるだろうと思い、その場に膝をついて腰を下ろした。

「なにをしておる?」

 その姿に藍叡は怪訝そうに眉を寄せた。

「見下ろすのは不敬かと思いまして」

 椅子を持って来ればいいことなのだろうが、すぐ傍にあるものは書簡が積み上がっている。下ろしていいのだろうか、と視線を彷徨わせると、溜め息をついた藍叡の手が伸びてきて、抱え上げられた。

「えっ、あの!?」

「軽いな」

 しみじみとした調子で呟かれ、座らされたのは藍叡の隣――寝台の上だった。

「あの者達は一筋縄でいくまい。時間は多少かかっても構わぬ故、調べを進めてくれ」

「は、はい」

 何故寝台に座らされたのだろう。困惑と共に緊張して声が上擦る。手足が強張り、肩に力がこもった。

 鈴雪のそんな様子を見ていた藍叡だが、ふっと表情を緩める。

「――…この状況で、俺に色目を使えないあたりが、お前がまだ幼い証拠だな」

 そんな言葉を怪訝に思う間もなく、藍叡の手が伸びてきて、額のあたりを押されて後ろに倒された。

「なにを……?」

「横になれ」

「? なりました」

 倒れた姿勢のまま答えると、藍叡はおかしそうに笑った。

「そうだな」

 目尻に笑い皺が生まれると、いつもより近寄り難い雰囲気が薄れた。その表情に鈴雪は双眸を瞠る。

「自分の部屋では眠れていないと聞いた。ここならばよかろう。少し眠れ」

 昨夜もその前の晩も、後宮に戻ってから鈴雪はきちんと眠れていない。自分の部屋に嫌な記憶があり、横たわるべき寝台が恐ろしくて堪らないからだ。

 誰がそんなことを藍叡に伝えたのだろうか。恐らくそれは彼と乳兄妹であった玉柚なのだろうが、わざわざ耳に入れるようなことでもない。余計な気遣いだ。


 ふっと表情に昏いものを滲ませると、不意に額を撫でられる。驚いて手の主を見上げた。

「眠れ。さすがに疲れているだろう」

 確かに疲れは感じている。精神的なものもそうだし、寝不足に因って頭が重たくも感じている。昼間の暑さもあり、体力的には少し苦しいものを感じ始めていた。


 けれど、こんな場所で眠れるわけがない。

 緊張して表情を強張らせていると、藍叡は寝台の外に投げ出される格好になっていた鈴雪の両脚を抱え上げ、ひょいっと寝台の奥へと転がした。

「お、王様……!?」

 広い寝台の奥に転がされた鈴雪は驚き、反転した姿勢の勢いで飛び起きようとするが、その上に布団を投げかけられる。

「今宵はお前を眠らせる為に呼び出した。だから、もう寝ろ」

「でも」

「俺はなにもせん。まだ読みかけの書簡が残っておるからな。構わず、そこで眠っていろ」

 そう言って背を向け、竹簡の巻き物を手にした。


 寝台は、大柄な藍叡が三人ほど横になっても窮屈ではないくらいに広い。鈴雪だったら四人は横になれるかも知れない。

 確かにこの寝台には、自分の部屋のものに感じるような恐怖は感じられない。布団に焚き染められた香の匂いも、強張っていた心を安心させてくれるような優しいものだ。それ故に、鈴雪はゆっくりと全身の緊張を解いた。


 藍叡は大きな背中を向けたまま、こちらには一切目もくれず、書簡に目を通している。読み終えて先に進む為に、巻かれている部分を開くとカシャカシャと微かな音が零れた。その時折聞こえてくる音が心地よかった。

 そう考え始めると、鈴雪の瞼はとろりと下がり始める。いけない、とすぐに目を開こうとするのだが、徐々に間に合わなくなっていく。



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