三 戦闘準備(四)



「如何でしょう?」

 考え込んでいるうちに髪は綺麗に結い上がり、先程藍叡らんえいから受け取った櫛と簪が挿されている。

 鏡を覗き込んでみると、衣裳の色の所為か、いつもより随分と大人びて見えた。恵世けいせい玉柚ぎょくゆうが「強そう」と評しただけのことはある。


「白粉を失礼致します」

 見かけだけなら、他の妃嬪ひひん達と対等に渡り合えるだろうか、と十歳以上も上の側室達のことを思い浮かべていると、女官の手が伸びてきた。驚いて思わず身を引く。

「お化粧はいりません」

「え、でも……」

 白粉の入った容器を手にした女官は、困惑気に鈴雪りんせつを見つめる。

「美しく装われる為にも、お肌を白くすることは必要です。どうぞ」

 尚も食い下がって、さあ、と手を差し出す。


 義務からなのか、化粧をすることが作法であるとでも思っているのか、なかなかに強引だ。彼女には恐らく悪気はないとわかっているので、鈴雪は困ってしまう。

「玉柚」

 仕方なく、師でもある腹心の侍女を呼んだ。

 気づいた玉柚はすぐにやって来て、女官の手にした白粉と、困惑気にしている主人とを見つめた。

「鈴雪様は、お身体に白粉が合わないの。何度か試されたことがあるけれど、気分が悪くなられるのよ」

 仕事熱心なのはわかるが、無理強いはよろしくない、とやんわりと告げると、今度は女官が困ったような顔をする。

「でも、高貴なお立場の方が、素顔で出歩かれるのは、みっともないです」

「……そうだけどね」

 玉柚は引かない女官の顔を見る。見覚えはまったくないので、離宮で暮らしていた女官ではない。鈴雪が後宮に戻った為、必要で集められた者のうちの一人だろう。

「名前……なんだったかしら?」

青燕せいえんです」

「そう、青燕。あなたが鈴雪様のことを気にかけて、きちんと仕事をしてくれているのはわかるわ。でも、そのことで鈴雪様が体調を崩されるのは、あなたとしても不本意ではなくて?」

 諭すように問われた青燕は黙り、僅かに俯いた。けれど、その手に持った白粉を下ろそうとはしない。

「青燕?」

 もう一度問いかけると、彼女は「でも」と小さく零した。


 鈴雪も黙って青燕の横顔を見上げるが、彼女の顔色が随分と悪いことに気がつく。唇が色を失くし、指先は微かに震えている。まるで怯えているかのようにも見える。

 何故、と鈴雪は不思議に思って瞬いた。

 確かに叱られることは恐いことだが、今は鈴雪も怒って怒鳴りつけたりしたわけでもないし、玉柚も優しく諭しているだけで、そこまで強い口調で叱ってはいない。余程気が小さい娘なのだろうか、と思うが、そんな小心者が宮中仕えなど出来るだろうか。


「ねえ、青燕? 何処か具合が悪いの?」

 鈴雪は思わず尋ねていた。体調が悪くて顔色がよくないのかと思ったのだ。

 その言葉に、青燕は弾かれたように顔を上げる。ぎょろりと大きく見開かれた双眸が鈴雪を見つめ返した。

「……い、いいえ、王后様。なにも」

 ご心配ありがとうございます、と返されるが、その顔色は先程よりも更に悪くなったように見える。その様子を鈴雪は僅かに訝しんだ。

「具合が悪いのなら、無理をしないで下がってくれていいから」

「はい。あ、いいえ……でも」

 口籠もりつつも引き下がる気配のない様子に、玉柚は双眸を眇めた。

「――…そんなにも、鈴雪様に化粧をさせたいの?」

 玉柚が柔らかな声音で尋ねると、青燕はびくりと身体を震わせて振り返る。その瞳の中に明らかな怯えを感じ取った玉柚は、

小玉しょうぎょく紅可こうか

 と掃除をしていた二人の女官を呼びつけた。


 手を止めて寄って来た二人は心得たもので、玉柚が指示をすることもなく、さっと青燕の後ろに回り込むと、両側からそれぞれ腕を掴んで抑えつけた。

「なに? なにを……!?」

 抑えつけられた青燕は驚いて腕を振るが、後ろに捻るようにして掴まれているので、痛みが走って上手く動けない。抑えつけているのがそう強くもない女性の力であっても、簡単に振り解くことも出来なかった。

 鈴雪も驚いて、玉柚がいったいなにをさせるつもりなのかと顔を顰めるが、その玉柚は、青燕が取り落した白粉の容器を拾い上げる。

「素顔で出歩くのはみっともない――だったわね」

 白粉に刷毛はけをとんとんと押し当てる。

「あなたも素顔でみっともないわよ。白粉を塗ってあげるわ」

 そう言って微笑み、青燕の頬に手を伸ばした。彼女は明らかに青褪めて怯えた表情になり、けれど必死に笑顔を浮かべ、首を振った。

「そんな、玉柚様……それは王后様のものです。私などが王后様のものを使わせて頂くなど、恐れ多くて……」

「あら。気にしなくていいわ。鈴雪様は寛容なお方だから」

 遠慮しないで、と笑顔を向けると、青燕は激しく首を振る。

「どうしたの、青燕? ほら、じっとして」

 そう言って迫って行く玉柚の笑みが、鈴雪は恐ろしかった。声音も微笑みも優しげなのに、有無を言わせぬ強さと威圧感があり、思わず身震いしてしまう。


 次の瞬間、青燕は声を上げて泣き出した。

 その声に他の女官達も作業の手を止め、何事か、と集まって来た。


「――…わね?」


 泣き崩れた年若い女官を底冷えするような目つきで見つめながら、玉柚は白粉のついた刷毛を目の前に突きつけた。青燕は激しく首を振るが、泣き止まない。


 玉柚はいったいなにをしているのだろう、と鈴雪が不安げに見上げると、彼女はくるりと振り返り、汚いものでも見るように白粉の容器を睨んだ。

「皮膚をただれさせる程度のものか、お命を奪うほどのものか――それはわかりませんが、鈴雪様を害するものが混ぜられた可能性があります」

 その言葉にハッと息を飲み、泣き続けている女官を見た。


「誰に頼まれたの、青燕?」

 泣きじゃくる女官に、玉柚は先程と打って変わって冷たい声音で尋ねた。その問いかけに青燕は一層激しく泣き声を上げるが、答えを返そうとはしない。

 まさか、と鈴雪は青褪めるが、恵世が傍に寄って来て、水で絞った手拭いで手や顔など、衣から出ている部分を拭き始める。白粉がついているといけないとでも言うかのように。


「さっさと言った方が身の為よ」

 尚も冷たい声音で語りかける玉柚に、青燕は泣き濡れて真っ赤な瞳を上げる。

「正直に言えば、むしろ打ち程度で済ませて頂けるわ」

 右側を押さえている小玉が囁くと、左側を押さえている紅可も「そうよ」と頷いた。

 莚打ちとは、莚で罪人を簀巻きにして、そこを棒で打ち据える簡易刑罰の方法だ。打ち据える回数は罪状の重さにもよるが、大抵は二十回ほどで終える。

 打撲は相当痛むし、力の加減によっては骨が折れたりもするが、命を取られるわけではない。そういった意味では、かなり良心的なお仕置きだろう。

 それでも痛いものは痛い。青燕は青褪め、また泣き出した。

「あなたの泣き声なんか耳障りなだけ。誰に頼まれたのかを言いなさい」

 玉柚は鬱陶しそうに言い、縮こまる女官の姿を睨みつける。

「本当は、今すぐにでも殺してやりたいのよ。私の大切な鈴雪様を害そうとした愚かな不届き者など!」

 この白粉もすぐに叩き割ってしまいたい。けれど、大切な証拠品だ。保管して、調べてもらわなければならない。

「けどね、お前如きが一人でそんな大それたことをしでかすとは思わないから。温情をかけてあげようって言うの」

 ねえ、と今度は優しく言うが、逆に恐ろしさが増し、青燕はまた声を大きくして泣き喚いた。


 鈴雪は気の毒になって玉柚を呼ぶ。

「勘違いということはありませんか? それにはなにも入っていないと思うのです」

 まあ、と声を上げて玉柚は大袈裟に驚いて見せると、申し訳なさそうに微笑んだ。

「鈴雪様がお優しいことは存じ上げておりますが、きっとそのようなことはございませんよ。この白粉には、なにか鈴雪様を害するものが混ぜられているのは確実です」

「でも……」

「鈴雪様も、先程のこの者の態度はおかしいと感じられたのでは? 主人が嫌がっているというのに、無理にも押し通そうとする様子を」

 確かにそうだ。少し強引すぎる感じがして、それに違和感を覚えはしたが、仕事熱心だと思ったのだ。


 でも、と鈴雪が尚も玉柚の考えを否定しようとすると、小玉が「あっ」と声を上げた。

 その声に振り返ると、青燕の身体がぐらりと傾ぐ。そうして、その場に倒れ伏した。

 玉柚はさっと駆け寄り、力なく床に落ちた頭を抱え上げ、その顔を覗き込む。

「――…とんだ忠義者だこと」

 青燕は事切れていた。

 食い縛られていた口を開かせると、微かになにかの匂いがする。口の中に予め薬でも仕込んでいて、それを飲んだのだろうか。

 溜め息と共に立ち上がり、部屋の中にいる女官達を振り返った。

「悪いけれど、私が名前と顔を把握している者達以外信用ならない。出てちょうだい」

 その宣言に女官達は不満げな顔をしたが、玉柚の言わんとしていることはわかるので、仕方なく引き下がるようだ。さわさわとしながらも、仕事の手を止めて退室して行った。

「紅可、玲園れいえん、女官長と衛士を呼んで来て。小玉、容蘭ようらん夕媛ゆうえん丁花ていか、今日主上に頂いたもの以外の衣は燃して、装身具は煮沸、寝具も払って。卓の上の果物や飲み物は廃棄。恵世様は鈴雪様を御殿医の許へお連れしてください」

 素早くそれだけの指示をすると、青燕の泣き声の所為で様子を見に来ていた他の房の女官達を鋭く睨みつけ、追い払った。



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