四 後宮の女達(一)
正午を過ぎ、陽が少し傾き始める時間帯とはいえ、盛夏の今は暑い。
当初の予定では、百合の盛りである千琳亭という場に茶会の席を設けるつもりだったが、もう少し涼しげな水辺の方がよかろう、と女官長が進言してくれたので、同じ東区画の沙湘苑という場所にすることになった。
どういう場所か、と問えば、
蓮の花が咲くのは早朝のことだ。こんな真昼では、もうすっかり萎んでしまっているだろう。見れないのは少しだけ残念だった。
約束の時間の少し前に到着するように居室を出たが、意外なことに、側室達は既に
「お待たせしてしまったようですね」
「いいえ、そのようなことは」
鈴雪が謝罪の言葉を口にすると、
一番奥の、少し高座になっている場所が鈴雪の為に用意された席のようなので、控えていた女官に促され、そちらへと歩みを進める。居並ぶ
「我等側室一同、
鈴雪が席に着くと、寧貴妃がそう口上を述べた。他の妃嬪達も「お戻りなさいませ」とその口上に追従する。
(娘子――本当にそう思っているのかしら)
その呼び名は、この後宮内で、王の正室である王后を指す尊称である。同じ王の后という立場であろうとも、側室達に対しては使うことの許されぬものだ。
敢えてその呼称を使っての口上ということは、昨日の態度を詫びているつもりなのか、はたまた盛大な嫌味なのか。それは今のところわからない。
自分達は下の立場である、と一応の礼儀としての言葉だというのはわかるが、本心はいったいどうなっていることやら。
妃嬪など、如何にして他の妃嬪を追い落とし、王の寵愛を得るかだけを競うものだ。子を生せば次は我が子を玉座に就ける為に競い合い、追い落とし合う。今は誰にも子がいないから、如何に権勢を振るうかに苦心しているのだろう。
鈴雪はそんな争いに興味はない。しかし、この後宮に於いて、王后という地位を賜っているのだから、そんなことを言ってもいられない。それ故に、こうしてこの席を設けた。
顔を上げて、と告げ、腰を下ろすように薦めた。
「暑い中集めてしまって、申し訳なかったと思います。けれど、早くあなた方のお顔を見たかったの。許してくださいね」
そう言って鈴雪が微笑むと、側室達も笑みを浮かべて応じた。
席次は位順になっているようだ。
一番上手に座るのは、貴妃寧氏
その向かい側に座るのは、
寧貴妃の向こう隣に座るのは、
最後は丸顔が可愛らしい印象の
華やかな妃嬪達の顔を一通り見回してから、丁度運ばれて来た茶器と氷菓へと目を戻す。
女官の手によって小卓の上に供された氷菓は、涼しげな玻璃の器に細かく削った氷が盛られ、そこに糖蜜がかけられている。この盛夏に氷だなんて、なんと贅沢なのだろうか。
その贅沢なものを、寧貴妃はさも当然のように口に運び、うっとりと微笑む。安充媛も躊躇なく口に運び、美味しかったのか、少し幼さの残る笑みを浮かべた。
黄賢妃と楊昭儀は、鈴雪が口にするのを待っているようだった。目上のものよりも先に手をつけるのは礼儀に反すると思っているのか、伏せた目線が僅かにこちらを見遣り、その気配を探っている。
鈴雪は器を持ち上げ、添えられた匙で掬って口に入れる。シャリッと微かな音を立てた氷菓はすぐに口の中で溶け、涼だけを残して果てる。糖蜜の甘さが仄かに後を追って消えて行くのが、少しだけ勿体ないような気がした。
三口目を口に入れたとき、違和感があった。
眉を寄せ、用意されていた布巾を口許に当て、たった今口に含んだ氷菓を吐き出す。
細かく砕かれた氷に紛れていてよく見えなかった。玻璃の欠片だ。
不用意に口を動かさなくてよかった。こんなものを舐め転がしたり、噛んだりなどしていたら、口腔内が切れていたに違いない。飲み込んでいても大変なことになっていただろう。
「娘子? 如何なさいましたか?」
寧貴妃が鈴雪の様子に目を留め、おっとりと尋ねる。
「……いいえ、なにも。とても冷たいものだから、口の中が少し痛みましたの」
そう困ったように笑って答えると、楊昭儀が大きく頷いた。
「私もですわ。眉間のあたりにも痛みが……」
その言葉に黄賢妃も微かに笑みを浮かべ、匙を口許に運びながら「ゆっくり食べませぬとな」と応じた。
「あら。でも、急がないと、溶けてしまいますわ」
もうすっかりと綺麗に食べ終えてしまった安充媛は、けろっとした顔でそう意見を述べる。彼女は冷たいものを一気に食べてもなんともなかったようだ。
「今日も暑いですから、氷菓は美味しゅうございますね」
もう一杯食べたさそうな口調で零し、安充媛は可愛らしい笑みを浮かべた。その屈託のない様子が、この集いには不似合いにも思えるほどになんとも稚い雰囲気で、鈴雪は僅かに毒気を抜かれた。
そうして僅かに緊張を漂わせていた妃嬪達にも笑顔が見えたというのに、寧貴妃は僅かに意地悪く笑い、鈴雪を睥睨した。
「私はてっきり、なにか入っていたのかと思いましたわ」
その一言で、和やかになりかけた場がピリリッとまた緊張感に包まれる。
鈴雪はそっと双眸を眇め、こちらを見ている寧貴妃を見つめ返した。
「なにか――とは?」
「なにか、ですわ。娘子」
少し吊り上り気味の一重の双眸がにんまりと笑む。その表情がなんとも狡猾そうに見え、まるで御伽噺に出て来る人を化かす狐の化生のようだ、と思ってしまった。
鈴雪は残りの氷菓を匙で突いて軽く確かめながら、口に入れた。
「面白いこと。私の器になにか入れられていたと、そう仰るの?」
「そうは申しておりませんわ、娘子。ただ、なにかご不快のご様子でしたので、なにか――例えば、玻璃の欠片でも、入っていらしたのかと」
その意地悪そうな響きを孕んだ指摘に、まあ、と他の妃嬪達が大袈裟に動揺する。その様子を鈴雪は一瞥した。
「ご心配ありがとう。でも、なにもありませんよ、寧貴妃。それとも、なにかご存知でいらして?」
言いながら更にひと口含み、寧貴妃を見つめる。
いいえ、と寧貴妃は首を振った。
「私も後宮に上がった頃、そのようなことがございましたの。ですので、まさか娘子にも、と思ってしまっただけです」
「それは恐ろしいこと」
黄賢妃が眉をひそめて大袈裟に驚くと、寧貴妃はそちらをジロリと一瞥し、すぐに表情を改めて鈴雪に向き直る。
「私の杞憂でしたらようございました」
その笑みの裏に隠された真意を、鈴雪は探ろうとした。けれど、そういうことに関しては、まだまだ経験が足りない。
寧貴妃がこの玻璃の欠片についてなにか知っている可能性は大きいが、なにをどう知っていて、彼女が関わっているのかどうかさえわからない。悪い方に考えることはいくらでも出来るが、本当はそうではないかも知れない。そのあたりの見極めがまったく出来なかった。
仕方なく鈴雪は笑みを浮かべ、気遣いに対して礼を述べた。
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