三 戦闘準備(三)
それにしても、こんなにたくさんいらないのに、と
「余ったものは女官達に与えればいいのですよ」
反物を手にして困惑顔をしている鈴雪に、
そういうものか、と頷き、自分の好みの色のものを三本ほど手にすると、あとはいい、と女官達に告げた。これには皆が揃ってギョッとしたような顔になる。
「いけません、
「これはすべて主上が王后様にとご用意くださったものです」
「私共には一反ずつで構わないのです」
口々に注意された鈴雪はたじろぎ、不安になって恵世と
「……では、皆が先に好きなのを選んでちょうだい。私は残ったもので」
「馬鹿なことを申すな、愚か者」
女官達に反物を選ぶように告げた鈴雪の言葉を、
いつの間にこちらに来たのだろう、と驚いて振り返ると、昨日と同じく官服を改めないままやって来た藍叡は、従えて来た侍従を回廊に控えさせたまま、大股で部屋に入って来た。同時に女官達はさっと叩頭して控える。
「お前はこの国の王后だ。その地位に相応しい
失礼なことを言う、と鈴雪は双眸を眇めた。今着ているものだって使っている生地は上等な絹だし、胸許や裾に広がる刺繍も手が込んでいて美しい。采女がこんなものを着ているわけがない。
確かに、昨日見かけた寧貴妃の装いに比べれば地味かも知れないが、それは本人の好みに因るものだろうし、そういう部分を比べられているとしたら少々腹立たしい。
ムッとした表情で黙り込んでいると、藍叡は部屋の中を見渡し、恵世が手にしている黒の衣裳に目を留めた。
「着替えているかと思って見に来たというのに……
呆れたように零されるので、鈴雪は更にムッとした。着替えをする間などこちらの自由ではないか。
しかしその言葉に恵世はハッとしたような表情になり、慌てて鈴雪の肩を掴む。
「今すぐに」
藍叡にそう答えると、鈴雪を衝立の向こう側へ連れ込んだ。
なに、と怪訝な顔をする間に、着ているものの帯を解き始める。鈴雪は驚いてやめさせようとするが、小声で「お召しになってお見せして、お礼を」と進言された。
確かに礼はまだ言っていない。わざわざ着替えずともよいのでは、と思いはするが、せっかくの贈り物なのだから、身に着けて見せるのが礼儀だと諭される。
「お待ち頂くような時間などないでしょうに」
三人がかりで脱がされるのにうんざりしながら任せて呟くと、衝立の向こうから藍叡の笑い声が向けられた。
「生憎と、今日の午前は少しだけ時間がある。茶を飲みつつ、お前の顔を見るくらいの時間はな」
聞こえていたのか、と肩を僅かに竦め、そうですか、と頷き返した。その間にも着々と着付けは進んでいく。
すっかり支度が整っても、着慣れない色はやはり落ち着かない。不安になって恵世を振り返るが、彼女は満面の笑みを浮かべている。
「――…悪くはないな」
衝立の向こうから出て来た鈴雪を見て、藍叡はにやりとする。そうして、
「適当に見繕って来たが、これも似合いそうだ」
そう言って洪侍従から受け取った箱を差し出すので、進み出た恵世が受け取り、中を確かめ、まあ、と声を上げて笑顔を見せるので、玉柚や他の女官達も寄って来て覗き込み、同じように声を上げた。
中身は簪や飾り櫛だった。繊細な銀細工で舞う蝶を模った櫛も、漆に螺鈿細工の簪も、名のある職人の作品だろうか。削った貝を使って蓮の花のようになっているものまである。どれも細部まで美しく見事な細工物だった。
「気に入ったか?」
言葉もなく見入っていると、藍叡は面白がっているような口調で尋ねてきた。
気に入るもなにも、見るからに高価そうなこんなものを身に着けたことはないし、欲しいと思ったこともない。
「……ありがとうございます。大切に使わせて頂きます」
自分の身の丈に合わないもので困惑しきりだが、一応は礼を言っておく。その様子に満足したらしく、丁度茶を飲み終わっていたこともあり、藍叡は立ち上がった。
「馳走になった。余は正殿に戻るが、また今宵」
冠を被り直して微かに口許を笑ませると、来たときと同じように唐突に立ち去った。
鈴雪は回廊を渡って行く後ろ姿を憮然として見つめていたが、ほう、と控えていた女官達が吐息を漏らし、うっとりと表情を綻ばせる。
「今まで王后様のことはいろいろと噂されていましたけれど――」
預かった簪類を化粧箱の傍へと運んでいた女官が、そっと口を開く。
「王后様こそが、主上の一の寵愛を賜っておられるのですね」
「そのようでございますね」
託宣に因り選ばれた王后だが、婚儀のあとから一度も王宮へ戻ることなく離宮で暮らしていた故に、王に疎まれて後宮を追われたのだと誰もが思っていたし、隠すことなくおおっぴらに噂していた。今も昔も、一番の寵愛は
しかし、いざ王后が戻ってみればどうだろうか。王自らが迎えに行くし、すぐに夜伽を命じている。その上、忙しい政務の合間を縫ってわざわざ後宮へと足を運び、王后の顔を見て行くのだ。こんなこと、今までどの妃嬪に対してもしたことがない。
後宮に仕える妃嬪も女官達も、長年に渡って築かれてきた勢力図がじわりと塗り替えられていくのを、敏感に感じ取っていた。
藍叡が即位して以降、後宮の頂点に君臨していたのは、貴妃である寧氏
誰もがそう予見していた九年前のあの日、占者は思いもよらぬ託宣を下した。
その結果、鈴雪はこの場へと導かれることとなった。
それでもやはり、一番の寵を得ているのが寧貴妃という現実に変わりはなく、藍叡は彼女の許をよく訪れたし、流産や死産が続きはしたが、六度もの懐妊を果たしたのは寧貴妃だった。だからこそ、鈴雪が王后へと封じられて以降も、寧貴妃は後宮の頂点へ君臨していたのだ。
着替えた黒絹の衣裳に合わせて髪を結い直されながら、鈴雪は鏡の中の自分を見つめる。
十五年以上にも渡って後宮の実権を握っていたあの女性に、まだ年若く、経験の乏しい自分は勝てるのだろうか。とても不安だった。
けれど、勝たねばならない。勝たずとも、程よい均衡を保てる関係を見つけなければ。
下働きの水汲み女まで含めれば、千人にも達する人数の女達が仕える後宮――他国の後宮のように、王が気に入った娘に手をつけて側女に迎えるような風習はないが、女官達は仕える主人を最優先にするし、その為には、他の妃嬪達を蹴落とすくらい簡単にやってのける。故に、女官達は主人を守るし、主人も自分に仕えてくれる女官達を守る。後宮とはそういう世界だ。
今日という日に妃嬪達を集めることにしたのは、彼女達がこちらの情報を多く集める前に会っておきたかったからだ。ただでさえ鈴雪は離宮に暮らしていた為、彼女達が得ている情報は少ない。情報が少なければ、どういう対応をするべきかと向こうも悩むことだろう。
鈴雪がすべきことは、妃嬪達に自分の方が立場が上であるということを示し、少しでも優位に立つことだ。
その最初の一手は、寧貴妃に対しては打ったつもりだ。彼女がそれをどう受け止め、どう生かすつもりか――それを見極める。
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