三 戦闘準備(二)
居室となっている南東側の局に戻ると、なにやら周囲が騒がしい。
おや、と首を傾げながら野次馬をしている様子の女官に尋ねようとすると、彼女達はハッとしたような顔になり、そそくさと逃げて行った。他の
いつもの敵情視察だろう、と
それでもなんだか様子がおかしい。こんなにあからさまな人集りを作ることはあまりない。普通は通りかかる態でさり気なく確認したり、警戒されない程度に身を隠しながら探るものだ、と玉柚も訝しむ。
「お戻りなさいませ、
何事か、と漣のように引いて行く女官達を眺めてから部屋に入ると、
「どうしたのです、恵世?」
「はい、鈴雪様。こちらをご覧くださいませ」
笑みを崩さぬまま、恵世は鈴雪を部屋の奥へと招き入れる。
連れられるままに続き間へ向かうと、反物が山と積まれていた。繻子や綸子の絹を始め、今の時季に丁度いい紗などの薄物などがあり、色も赤や青の濃いものだけでなく、白や薄紅などの淡いものもあって、まるで花園のように色とりどりで華やかだ。
反物だけでなく、帯や飾り紐なども一通り揃っているようだ。刺繍用の糸が入れられた箱も積まれている。
「これはいったい……」
一刻ほど前に部屋を出る前にはなかった。つまり不在の間にこれだけのものが用意されたということなのだろう。
驚いて玉柚と二人で目を丸くしていると、女官達が声を揃えて、
「主上からでございます」
と答えた。その答えにもまた目を丸くする。
「すべて……ですか?」
「はい、もちろんでございます。これらでお衣裳を仕立てるようにと仰せつかりました」
頷きながら恵世は黒絹の衣裳を手に取り、鈴雪へと差し出した。
「本日はこちらのお衣裳を身に着けるように、と文が添えられておりました。どうぞ」
反物以外にも、すぐに袖を通せるように何枚か仕立て上がっている衣裳があったが、この黒絹のものを、と敢えて指定されているらしい。どういうことか、と思いつつも、胸許に当ててくる恵世の手を振り払うことはせず、衣裳の様子を見下ろした。
地模様のある黒絹を基調に、挿し色として紅が使われている。派手な図案の刺繍はないが、雨垂れのような銀糸の縫い取りが施されており、落ち着いた雰囲気ながらも華やかさと品がある。しかし随分と艶めいた様子も感じられた。
「帯は挿し色に合わせて、こちらの紅のものに致しましょう。白翡翠の帯飾りを下げて、被布も紅の薄物に致しましょう。それとも、こちらの紫がよろしいでしょうか?」
恵世は届けられた品々の中から組み合わせを提案し始め、鈴雪を閉口させる。今までこんな色のものを着たことがないので、どういうものが合うのかなどわかりはしないし、そもそも華美に着飾ることをあまり好きではないので、そう矢継ぎ早に尋ねられてもなにも答えられない。
せめてあちらの色ならいいのに、と山と積まれた反物の中でも淡い色合いのものを見遣る。普段から好んで着ていた色は山吹色や若葉色などだ。黒どころか挿し色に使われている赤系すらもあまり着たことはない。
「――…随分と、迫力のあるお衣裳ですね」
様子を見ていた玉柚が、呆気に取られたような声音で感想を漏らす。
彼女の言う通りだと思う。黒地に紅い挿し色というのが、見るからに『強そう』だ。
鈴雪が今まで袖を通したことのないような色合いだし、好みというわけでもないし、ずっと離れて暮らしていた
普通、妃嬪は己の美意識に因って衣裳や装身具を選別し、美しく装う。王の目を楽しませる為の衣裳選びの感性も、妃嬪の資質のひとつだと思われる。
いくら鈴雪の持っていた衣裳が質素であったとしても、それは鈴雪の感性の結果であるし、仕立て上がったものまで用意する必要はない。それ故に少し首を傾げた。
確かにこのはっきりとした色合いなら、全体的に細い鈴雪が、背の高い藍叡の隣に並んでも見劣りはしないだろう。黒というどっしりと落ち着いた雰囲気が、十六歳もある年齢差を埋めてくれるかも知れない。そういう意味で贈ってきたのだろうか。
「ご側室達を威嚇しろ、ということかしら」
考え込んでいた玉柚がぽつりと呟く。そうね、と恵世も頷いた。
「鈴雪様は大人しいご気性でいらっしゃるから、見た目だけでもお強そうに見せるべきだ、という主上のご指示では?」
「わざわざ?」
驚いて尋ね返すと、恵世は笑った。
「鈴雪様は主上のことを快く思っておられないかと思いますが、細やかな気遣いをされる優しい方ですよ。ねえ、玉柚?」
「そうですね。昔は」
根は悪人ではないことは一応はわかっているつもりだが、妃嬪とのことにまで気を回されるとは思わなかった。それは鈴雪が自力で切り抜けねばならないことだろうに。
「黒絹は、
少し不満を感じて眉を寄せていると、懐かしむように恵世は呟いた。
「私が女官として出仕致しました頃には、もう既に降嫁されておられましたけれど、折に触れ、後宮へご挨拶にお出でになっていらしたお姿を拝見致しました。いつも黒いお衣裳をお召しになっていらして、凛として、いつまでもお美しい方でございました」
それは見も知らぬ祖母のことである。鈴雪は僅かに双眸を瞠った。
不吉な託宣を受けた鈴雪の為に、先王に命乞いをしてくれた情に厚い祖母は、もう十年以上前に亡くなってしまったという。一度も会わぬままに。
鈴雪が今こうして生きているのは、その祖母のお陰だ。
「お祖母様は、黒がお好きだったのですか」
少し意外な気がした。心優しい人だと思っていたので、勝手に優しい色彩で想像していたのだ。
「お好きであったのかは存じ上げませんが、とてもお似合いでございましたよ」
恵世は微笑みながら、もう一度衣裳を鈴雪の胸に当てた。
「銀蓮公主様はとても肌の色の白い方で――まるで淡雪のような白さと、古くからいる者達は申しておりました。そんなお肌には濃いお色がよく映えたとか。それを公主様もおわかりだったのではないでしょうか?」
恵世は銀蓮公主に直接仕えたことはないが、古参の女官達がそう話していたことを覚えている。華やかに装うことが常となっている後宮で育った公主であるので、自分に似合うものをよく理解していたのだろう。
「では、鈴雪様とご一緒ですね」
反物を一度片付けるように指示しながら、玉柚は微笑んだ。
「ご存じありませんか? お名前の由来」
鈴雪は首を傾げる。
自分の名前は三つある。生まれたときに名づけられたが、一度も使ったことのない名前、
「主上は鈴雪様をご覧になったとき、色の白いお子だと思われたそうです。その声は鈴が鳴るように高く涼やかだ――それ故に、鈴雪と字を当てたとお聞きしたことがございます」
玉柚はそう言って微笑んだ。
初めて聞く話だ。鈴雪は驚いて口許を押さえる。
「まあ。それは私も初めて聞くお話です。そのような事情からついた御名だったのですね」
恵世も目を丸くし、すぐに笑みを浮かべた。新しい名を与えたことは聞いていたが、名づけの理由や由来は聞いていなかった。
「ふふっ。銀蓮公主にお似合いだった黒なら、鈴雪様にもお似合になられると思われたのかしら」
「どうでしょうね」
そう言って玉柚と恵世は笑い合った。鈴雪だけが眉を寄せて難しい顔をする。
藍叡のことは未だによくわからないが、そんな単純な男だとは思わない。生まれ育った環境から美醜には五月蝿そうだし、色白の肌には黒が映える、などという理由から選んだとは思い難かった。
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