三 戦闘準備(一)
側室達のほとんどは、陽が高くなるまで、自室から外に出ることはほとんどないのだという。
本来なら、
午前中のうちに茶話会をしてしまいたかったのだが、今までの習慣を崩させてまで無理矢理に集めるような横暴はさすがにしたくない。集うのは午後にして、
入室して来る臣の誰もがまずハッとして、玉座から一段下がったところに控えている鈴雪に目を向けると、落ち着きなさ気に自分の定位置へと腰を下ろし、さわさわとする。皆が揃ってそんな様子だ。
いくつもの囁き声が収まらない広間の様子に、鈴雪は困ったように藍叡を見遣った。
「あの……王様」
「どうした、王后?」
その微かな声のやり取りに廷臣達はお喋りをぴたりと収める。窺うように玉座の方へ目を向けた。
「慣例とお聞き致しましたので参りましたが、やはりご迷惑だったのでしょうか?」
困惑気に零されたその問いかけに、くっ、と藍叡は微かに笑い声を零す。
「気にするな。其方が帰って来たことに驚いているだけだろう。胆の小さきことよな」
そういうものだろうか、と首を傾げながら廷臣達を見回すと、玉座のすぐ下に立っていた
「貴様等のくだらぬ囀りなど聞きとうはない。喧しくて敵わん。時が惜しい故、揃ったのならさっさと始めろ、
「畏まりまして」
藍叡の乱暴な物言いに、竣祥が応じて振り返って開会の言葉を告げると、書記官からまず初めの奏上の記された書状を受け取る。
「
竣祥の声がつらつらと読み上げる内容を聞いていくが、鈴雪にはよくわからなかった。
初めてのことなので当然だともいえるが、聞き流して「わかりません」だけで済ませていいことでないことは、鈴雪にもわかっている。なるべく内容を覚えるようにして、居室に戻ってから
それなのに、藍叡は「其方はどう思う?」と鈴雪に意見を求めてくる。
「県令の
「堤の補修……」
専門的な名称なども交えて長々としていた口上をまとめ、要点だけを簡潔に尋ねてくれたので、先程の奏上がどういった内容のものだかわかった。
「予算はあとで算出させるが、それなりに必要だ。財務官が渋い顔をする程度にはな」
金銭の話を出したということは、かなり高額の費用を捻出する必要があるのではないか、と考える。そして、その費用を今すぐ用意するには、少々問題があるのではないだろうか。
どうしたものか、と藍叡と竣祥、後ろに控えてくれている玉柚に目を向けてみるが、ここで答えをくれはしないだろう。
何故このようなことを門外漢の自分に問うのだろうか、と困惑しつつ、広間に居並ぶ廷臣達の視線を全身にチクチクと感じながら、小さく咳払いをして「そうですね」と口を開いた。
「お恥ずかしながら不勉強で、そちらの土地のことをよく存じ上げないのですが……穀物の収穫の時期がすぐに訪れることと思います。人手を割くのは、農地の方々に負担になられるのではないでしょうか」
「と、すると?」
鈴雪の答えに、藍叡は面白そうに目を細め、先を促す。
「雨季はとうに過ぎ、今はもう乾季の盛夏です。雨は降ってもたいしたことがないと思いますが、もし、数日の長雨ですぐにでも決壊しそうなほどに弱っているのであれば、すぐにでも手を入れるべきです。そこまで心配する程度ではないのでしたら、秋の収穫後に着工してもよいのではないか、と私は思います。農閑期に当たる冬場には都市部まで出稼ぎに出られる方も多いと聞きますし、工事があればお仕事を得ることが出来て、丁度いいのではないでしょうか?」
「そう至った根拠は?」
「衛林県は、南方の土地ですよね? 温暖な平野が多く、降雪しない土地柄だと聞いたことがありますので、冬季の工事でも問題なく進むと思いました」
多少工事が遅れて春先までかかったとしても、雪解け水で増水するとか、そういった心配も少なそうであるし、問題はないと思う、と説明すると、藍叡は満足そうに笑う。
「其方は謙遜が過ぎるな。なかなかにいい勘をしている」
その口振りに鈴雪は思わず頬を染める。間違ったことを言わないように、と懸命に考えて出した答えだったのだが、褒められるとは思っていなかった。
「傭蓮江の補修は秋の収穫後に着工とする。それまでに治水部は現況を調査し、工事日程と予算を計算し、改めて報告せよ。財務部は予算を捻出しておけ。それらを笙県令自身に報告させよ。――次」
自分の回答を採用されたことに驚き、こういうものなのだろうか、と首を傾げつつ、次の奏上へと耳を傾ける。今度のものは読み上げの途中だというのに藍叡が即答で「不裁可」と言い放ち、すぐにその次へと移る。そうして十ばかりの奏上を聞き終えると、今度は廷臣達自らが口頭での奏上を始めた。
気を利かせた
なるほど、と頷いて礼を言い、口上へと耳を戻した。
「
五十絡みの男が前に出て拝跪する。
寧という名から、寧
「今年の雨季は雨が少なかった為か、既に流民の一部が都の大門付近に
「許可する。陶宰相、人選を任せる」
「畏まりまして。――次、
「李
その後も続いていく奏上に耳を傾けていると、再び洪侍従がやって来て、退室を促してくれた。藍叡からの指示だという。
いいのだろうか、と藍叡と竣祥を交互に見ると、どちらからも頷きが返された。
「王后様、ご退出にございます」
廷臣達からの奏上を終えたところで丁度きりがいいだろうと思い、鈴雪は立ち上がる。その様子に気づいた者達は揃って叩頭した。
鈴雪は藍叡に膝を折り、続いて叩頭している廷臣達にも向けて一礼すると、そのまま踵を返した。
しばらく行ってからホッとして、従って来てくれていた玉柚を振り返る。
「朝議って、ああいうものなの?」
問われた玉柚は首を傾げる。
「さあ? 私も初めてのことですので、わかりかねます。けれど、主上が問題ないとされておられるので、ああいうものなのでしょう」
「意見を訊かれるとは思わなかった」
「そうですね。
どのような血筋の者であろうとも、親族や懇意にしている者があれば、その者達に利益となることをしようとする。決して中立の意見を述べることはない。
「それと、鈴雪様の存在を示されたかったのではないでしょうか?」
「私の存在?」
「はい。鈴雪様がお戻りになられた、とはっきりと示され、ご側室様方のご親族に、王后様はご健在であると喧伝する意味があったのだと思います。そうでもなければ、昔からほとんど形骸化している朝議への列席など必要ないではありませんか」
王后の列席は、数代前に即位した王が病弱で頼りなかった為、望んで請われた王后が臨席することとなり、それを慣例化させて王室典範にも追記させた為だ。それ以降、代によっては一度も列席しなかった王后もいるし、不在でもまったく問題はない。あってないような規則なのだ。
そういうものか、と頷きながら後宮との境を通り抜ける。
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