二 後宮のこと(四)


 どうぞ、と扉を開けて促され、鈴雪りんせつは躊躇いつつも室内へと足を踏み入れた。

王后おうひ以外は下がれ」

 低い声で命じる藍叡らんえいは書状に目を通していて、視線も上げぬまま、鈴雪と共に入って来た玉柚ぎょくゆうに告げる。

 鈴雪と玉柚は一瞬視線を交わし合うが、ここで駄々を捏ねても詮ないこと、とお互いに納得し合う。ここから先は鈴雪が切り抜けなければならない問題だ。持参した酒肴を卓の上に置くと、玉柚は退室して行った。


「少し待て」

 書面を読み終えてしまいたいらしい。時間が過ぎることは鈴雪も願ったりのことなので、静かにその場に佇んで待つ。


 しばらくすると読みたい部分は終えたのか、同じような書状が山となっている机の上に手にしていたものを乗せ、足許に散らばしていたものも掻き集めて無造作に積んだ。

 一通りのことを終えた藍叡は、黙って佇んでいた鈴雪を振り返った。

「なんだ。立ったままでいたのか? そこらで腰を下ろしておればよいもの」

 変な奴だな、と言わんばかりの口調で笑い、大股で部屋を横切って来る。そうして目の前まで来ると、鈴雪の姿をまじまじと見つめた。


 金糸で刺繍の入った衣裳は、今までの鈴雪のものに比べれば随分と華やかだ。しかし、生地が同系の山吹色であるので、その華やかさが随分と抑えられてしまっている。

 ねい貴妃きひは紅の衣に金糸の大胆な刺繍のものを好いている。こう賢妃けんひは涼やかな淡い寒色系が好みで、よう昭儀しょうぎも寒色に銀糸の刺繍を施した涼やかな雰囲気のものを好いている。一番若いあん充媛じゅうえんは明るい色を好んでいて、刺繍は目立つように華やかな色合いにするのが好みのようだ。

「……お前はいつも控えめだな」

 彼女達に比べると、鈴雪の衣はなにもかもが大人しい。


 夫の言わんとしていることが汲み取れない鈴雪は、困ったような表情で見つめ返してくる。そんな彼女の後ろにある卓の上に、先程まではなかった酒の用意があった。

「これは?」

 怪訝に思って手を伸ばすと、鈴雪が少し青褪めた顔で「私が用意致しました」と答える。

 ああ、と頷きつつ元に戻すと、今度は鈴雪へと向かってその手を伸ばした。

「酒よりも他のものに酔いたいのでな。こういうときには飲まぬようにしている」

 間近で囁かれた言葉に、鈴雪は身震いした。

(――…恐い)

 寝間着姿の藍叡には忌まわしい思い出しかない。先程のように離れた位置にいればそうでもなかったが、こうして目の前に来られ、上から覗き込むように見つめられると、指先から冷えて震え始める。

 このまま寝台に連れて行かれる前に、どうやって切り抜けるか考えるしかない。


 梃子でも動くまい。通用するかはわからないが、いざとなれば幼い頃のように泣いて逃げ回ってやろう、と考えていると、急に藍叡が笑い出した。大笑いという風ではなく、笑うまいと我慢していたのが堪えきれなくなって、それでも声は出さないようにと身体を揺らしているようだ。

「随分と怯えているな」

 何故笑われるのかわからず、唖然としていると、震える拳を口許に当てながら藍叡が零す。

「なにもせんから、そこらへ座れ」

 そこら、と示すのが寝台の方ではなく、寛ぐ為の卓が置かれている部屋の方だった。


 怪訝に思うが、行け、と手を振って示されるので、仕方なくそちらの部屋へ行くと、いつからいたのか、茶器の用意をしている若い男がいた。

「これは宰相を務める男で、竣祥しゅんしょうという」

 きょとんとしている鈴雪に説明する藍叡の声に、文人然とした男は振り返ると柔和な笑みを浮かべ、鈴雪に拱手した。

とう竣祥と申します。王后様のご無事のお戻り、お待ちしておりました」

「口上などいいから、お前も座れ」

 呆れたように告げながら、藍叡は鈴雪の手を引き、手前に座らせた。その向かい側に自分も腰を下ろす。そんな様子に、ひとり立ったままの竣祥が苦笑を零した。

「相変わらず気短であられる」

「黙れ。時が惜しい」

 はいはい、と頷く様子を見て、この王と若い宰相は随分と気安い間柄なのだと窺い知れた。けれど、鈴雪はこの状況がいったいどういうものなのか見当がつかず、ただただ困惑してしまう。


「どうぞ。今夜は少し冷えますから」

 先程から用意していた茶を三人分用意すると、竣祥はようやく腰を下ろした。

 品のよい茶碗から立ち上る薫り高い湯気を見つめながら、鈴雪はまだ状況が呑み込めないでいた。

 自分は今夜、藍叡から夜伽を言い渡されてこちらへ連れて来られたのだ。そこからどうやって逃げ出すかばかりを考えていたところだったのだが、今は藍叡と竣祥の三人で卓を囲んで座っている。この展開は考えていなかった。


「そう思いつめたような顔をするな」

 取り敢えず茶を飲め、と言われたので、一応言われた通りにしてみる。緊張で縮こまっていた臓腑がほぐされていくようだ。

「昼間、ああいう言い方をしたからな……お前が怯えて来るのもわかっていたのだが、今宵はなにもせぬ。これを同席させたまま事に及ぶことなど御免だ」

「わたしだって御免です」

「黙れ、竣祥。突き詰めた話をしたくて呼んだ」

「話、ですか……?」

 それならば昨夜もしたではないか、と怪訝に思うが、少し様子が違うようだ。

「主上は王后様に負い目があるのですよ」

 よくわからなくて首を傾げる鈴雪に、竣祥がそっと告げる。それを聞いた藍叡が嫌そうな顔をした。

 ますますわからない、と困惑の表情を隠さずに向けると、藍叡が嫌そうな顔のまま口を開く。

「俺も一応、人の心は持ち合わせている。帰らせてくれ、と毎日腫れが引かないほど泣き続けていた小さなお前を、国の為とはいえ、無理矢理後宮に封じたことを、多少は悔いているということだ」

 鈴雪は言葉もなく、双眸を大きく見開いた。


 驚いた――というのが素直な感想だった。根は悪い人ではないとわかってはいたが、そういう考えを持っているとは思わなかった。

 国事に関わるような託宣を受けたからには、個人の意志などなきものと扱われるのが常だ。生まれたときからそのような状況にあった鈴雪は、そのことを少なからず理解してはいた。ただ、あのときはまだ幼く、近づくことを禁じられていた王都に連れて行かれることの方が恐ろしくて、泣くことで必死に抵抗していたのだ。


 藍叡がばつの悪そうな顔をしたが、鈴雪はそれを好意的に捉えることが出来た。

「こちらにお呼びしたのは」

 無言で見つめ合う国主夫妻の間に、若い宰相が申し訳なさそうに口を挟む。

「ひとつは、王后様のお立場の防護策の為、もうひとつは、わたしは後宮に入ることが出来ない為、王后様とお話しするにはお出で頂く外なかった為です」

 竣祥の言葉に鈴雪はますます困惑した。


 国王以外では、侍医や妃嬪の親兄弟などの限られた者しか男性の後宮への出入りは制限されているのは知っているが、まったく面識もなにもないこの男性と会う為に呼び出されたということが、鈴雪にはまったくわからなかった。

「困惑なさっておいでですね。申し訳ございません」

 竣祥は本当に心から申し訳なさそうに頭を下げながら、謝罪の言葉を口にした。それから頭を上げ、まっすぐに鈴雪へと目を向ける。

「わたしと主上は、後宮の中のことを知りたいと思っているのです」

 竣祥の言葉を聞いて鈴雪は藍叡を見る。特に感情を見せない表情をしている王は、宰相の言葉に頷いているようにも見えた。


「それは……側室の方々の動向を探れ、ということでしょうか? それとも、出入りする親族の方々のことでしょうか?」

 言葉を選びながら、宰相にその真意を尋ねると、彼も王も顔を見合わせて目を丸くした。

「ええ、ええ。その通りです」

 なにか間違ったことを言ってしまっただろうか、と一瞬不安になるが、竣祥の言葉にそれは払拭される。

 ホッとしつつ藍叡を見ると、彼は口許に薄っすらと笑みを浮かべていた。

「お前は思っていたよりも随分と聡い」

 何故か感心されたように言われ、鈴雪は戸惑いと共に静かに俯いた。


「日中に尋ねたな。お前は両親に会いたくはないか、と」

 茶碗を空にしてから藍叡は言葉を続ける。

 確かに言われた。その問いに対して鈴雪は首を振り、薄情と思われるかも知れないが、と前置いたうえで、記憶にない生みの親にまったく興味がないことを伝えていた。

 その答えが気に入ったのだ、と藍叡は笑う。

「お前以外の妃嬪ひひん達はな、親類に権力を与える為にお互いの腹を探り合い、策を弄している。それが俺は堪らなく不愉快なのだ」

 これはまたおかしな言い分だ。娘が後宮に封じられることは親族に権力を与えることであるのは必然で、王の寵を得ていればそれはもっと強まる。そんなことは国王と臣下と後宮が存在する時点で定まった関係であり、それを不愉快に感じるのなら後宮をなくせば済むことではないか。


 鈴雪は呆れたように藍叡を見つめた。

 後宮がなければ鈴雪は彼の妻にされることはなく、今も御廟で静かに暮らしていたことだろう。それなのに今更そんなことを言う藍叡が腹立たしく感じられた。

「子が育たぬ話は聞いていよう。お前が呪い殺しているというあの話だ」

 鈴雪の視線からその心中を察したのか、藍叡は少し不機嫌な表情になって話を続けた。

 嫌味のような言葉に鈴雪は腹立たしさを感じたが、黙って頷いた。そのくだらない噂を抑えさせる為という事情もあって、八年ぶりに後宮へと連れ戻されたのは知っている。

「あの噂は、半分は本当のことが含まれているのだと思います」

 お茶の替えを淹れながら、竣祥が藍叡の言葉を継いだ。

「もちろん王后様がそのようなことをなさっておられないのは百も承知です。けれど、呪詛は本当に行われていることだと思うのです」

 新しいお茶を受け取りながら、鈴雪は静かに頷いた。

「つまり、御子を呪い殺しているのは、側室達の誰か、若しくはその親類の方々であると……そういうことを仰りたいのですね?」

「はい、その通りです。それに、先日の黄賢妃の御子の死に、薬物が使われていることはほぼ確認出来ています」

 あまりにも御子の死が続くので不審が募り、密かに調査は進めていた。しかし、すべては後宮の中で起こる出来事である故に、探る手はなかなか伸びず、防ぐことも容易ではなかった為に、幼い子供達は次々にその命を奪われて行った。証拠を得ることも出来ないままに。


「後宮で男は無力だ」

 卓の上で硬く拳を握り締めて藍叡が呟く。国の頂きにある王である藍叡でも、女達の生きる後宮の深部には手を伸ばせない。

「それ故に、王后。お前の力を借りたい」

 この藍叡の言葉を、鈴雪は予想もしていなかった。

 頼む、と頭まで下げられたので、思わず頷いてしまったことをすぐに後悔するが、それでも、これ以上罪のない命が犠牲になる前に、解決出来るのならば協力はすべきだと思った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る