二 後宮のこと(三)



「あら。では、一服差し上げればよいのでは?」

 玉柚ぎょくゆうがお茶を飲みながらそんなことを提案し、にっこりと微笑んだ。

 国主に対して酷い無礼を口にする姪を、恵世けいせいたしなめるように睨むが、玉柚は気にする素振りもなくお茶を啜っている。藍叡らんえいの乳兄妹でもあった彼女は、幼い頃を共に過ごしていたこともあり、藍叡が王になった今でもそういう立場で見ている節がある。

 鈴雪りんせつも玉柚の口振りには苦笑した。

 藍叡は夫だ。夫婦ならば当然の営みを命じられたからとはいえ、鈴雪はそれを受けるつもりはないし、過去の出来事から嫌悪すら感じる。

 だからといって、玉柚の提案に乗ることも出来ない。

「鈴雪様のことを思えば……可能なら、薬でもなんでも使いたいところですけれど」

 姪を窘めつつも、いい案だとは思っているらしい。恵世が同意を示したことで、鈴雪は溜め息をこぼした。


 離宮の片づけをしていた女官達が昼過ぎに到着したので、参謀役の玉柚と共に、側室達と行う予定の明日の茶会について話を始めようと思ったのだが、その前に藍叡がとんでもない発言を残していったので、それについての話題になってしまった。

 基本的に、王からの命には逆らえない。月の障りなどがあれば可能だが、鈴雪はそういうこともなく、断るべき要素が見当たらない。体調が悪くはないのは相手に知られているので、謹んで受けるしかないのだ。

「けれど、鈴雪様。後宮に住まう女にとって、王のお召しがなによりも重要だということは、もちろん理解なさっていますわね?」

 困っている鈴雪に向かい、玉柚は少し意地の悪い口調で尋ねる。

 それは離宮に移り、幼い鈴雪の身体が僅かに丸みを帯び、娘らしい身体つきになってきたときから言われてきた教えだ。


 妃嬪ひひんとは、王の寵をどれほど受けているかにより、位の上下が定まる。たとえ高貴な血筋に連なろうとも、家柄がどれほどよくとも、王と同衾していない后とは、後宮ではなによりも立場を失うものなのだ。

 出自でいえば鈴雪は王后に相応しい血筋であり、婚儀のあとに初夜を共に過ごしたことにもなっているが、実際のところは幼かった彼女に王の手はついていない。それは後宮の――特に鈴雪の入宮より前からいた側室達は把握している事実で、後宮では見下されるものなのだ。それ故に、今朝の藍叡からの命は、鈴雪の王后としての立場を固める為にも、渡りに船ともいえるものだった。


 鈴雪は静かに溜め息を零し、師である玉柚を見つめ返した。

「――…あんな思いを、もう二度としたくはない、というのが本音です」

 なにもなかったこととはいえ、大きな身体に抑えつけられた幼い日の恐怖は、未だに薄れることはない。同じことに再びこの身を晒さねばならないのかと思うと、全身から血の気が引いて行くような感覚に襲われる。

 今もそうだ。考えただけで手足が小さく震えているのだから。

 怯えて泣いていた鈴雪の姿を知っている恵世は、痛ましい面持ちになる。


 本来なら愛情を交わす行為である。けれど、鈴雪は当時の己の立場に混乱したまま、理解も出来ずにいたところを乱暴に扱われた。受け入れられるわけがない。

 そこで、玉柚のあの提案だ。

 悪くはない――寧ろ、最良ともいえる案である。

 夜食の酒の中に眠り薬を少し混ぜればいいだけの話なのだ。成功すれば、鈴雪は再びあの屈辱的で恐ろしい目に遭わずに済むし、王が同衾したという既成事実も作れることになる。

 しかし、事はそう上手く進むものだろうか。鈴雪にはなんだか嫌な予感しかない。


「それでは、湯浴みに参りましょうか」

 お茶を飲み終えたらしい玉柚が、立ち上がりながらそんなことを言う。

 朝に湯浴みをしたばかりだ。まだ陽は高く、夕方と呼ぶにも早い時間帯である。

「主上のお渡りがあるのですから、全身を磨き上げませんと」

 戸惑う鈴雪ににっこりと微笑みつつ、後宮に暮らす女達は昔からそのようにしている、と告げた。恵世も同意する。

「主上は今宵渡られる妃嬪を、朝議のあとと夜半に居室に戻られたときの二度だけ、侍従にお伝えするのですよ。大抵は夜のときになりますが、そのお召しによってご寝所にはべることになります」

 陽が高いうちは見初めてもらえるようにと着飾り、陽が暮れる頃になると皆が浴場に集うくらいだ。いつ何時指名されてもいいように、後宮の女達は己を磨き上げる。

「幸いにも今日はこんなにも早い時間からご指示があったので、お支度をしっかりと出来て有難いですわ」

 玉柚は微笑みを浮かべたまま鈴雪を立たせ、まわりの女官達に細々と指示を出していく。


「待って、玉柚」

 鈴雪の着物としては華やかな山吹地に金糸の入った衣を持った玉柚を慌てて引き留める。このまま湯浴みに連れ出されたりしたら、肝心の明日の話が出来ない。鈴雪にとって大事なのは、明日のお茶席で妃嬪達を牽制しつつ、後宮の内情を探ることにあるのだ。

 それを告げて留まらせると、玉柚は真摯な表情を向けてきた。

「側室達に対する牽制は、主上のお渡りで十分です。昨日、主上自ら離宮にお迎えに来てくださった事実もありますし、第一段階の牽制は済んでいると考えていいでしょう。あとのことは、明日の鈴雪様の話し振り次第になりますが、そのあたりは湯浴みをしながらでも話せます。行きましょう」

 牽制云々の話は、今朝の寧貴妃の態度で一目瞭然だ。彼女は鈴雪に対して自分が優位であることを見せつける為、女官達を引き連れて顔を見せに来たのだから。

 それ故に、玉柚にとっては夜伽の支度の方が大事らしい。援護を求めて恵世を見遣るが、彼女もまた玉柚と同じ考えらしく、然もありなんと頷いていた。

 鈴雪はすっかり困ってしまったが、師である玉柚の言葉には全幅の信頼を寄せているし、言っていることに間違いもないので、従うより他はなかった。


 夜伽を命じられたのだと他の妃嬪達に周知させる為にも、仕方なく本日二度目の浴場へと向かい、湯に浸かって全身を揉み解されながら、側室達に対する話題と立ち居振る舞いを教えられた。

 本当は、他者を疑ったり探ったり、そういうことは好きではない。けれど、自分のちょっとした振る舞いひとつで、己のみならず、仕えてくれている人々にも害が及ぶ可能性があるというのなら、鈴雪は彼女達を守る為に立ち回らなければならない。それが国権の中枢に隣り合う後宮に住まう女の生き方なのだ。

 望まぬまま与えられた地位であるが、そこで生きなければならないというのなら、相応の覚悟を持つべき――それがこの八年の間に学んだことだ。


 支度を整えて話しているうちに陽も沈み、念の為に用意された薬入りの酒肴の説明を受けていたが、やはり参謀玉柚の思惑通りに事は進まなかった。


 夜半になって鈴雪の許を訪れたのは、藍叡ではなく、彼が特に信頼しているというこう侍従だった。

「ご寝所に参られますように、と主上のご下命でございます」

 すぐにお支度を、と伝えてくる洪侍従に、玉柚が眉根を寄せて剣呑な表情を見せる。

「わかりました。少し外に出てお待ちください」

 歯軋りでも零しそうな玉柚を隠しながら恵世が素早く応じ、洪侍従を部屋の外へと導き追い出した。

「まずいことになりましたね」

 鈴雪の衣装を整えながら、恵世が声を潜めて囁いた。


 藍叡は妃嬪に夜伽を命じると、その妃嬪の部屋を訪れることがほとんどだった。だから後宮では、夜伽のことを『お渡り』と呼んでいる。

 どの時代の王も、後宮を訪れることもあれば、妃嬪を寝所に呼ぶこともあったのだが、藍叡は自分の寝所に呼ぶことはほとんどなかったのだ。これは殊に稀なことだった。

 恐らく、王の寝室の方で夜食等は用意されていることだろうし、夕餉は別に済ませているので酒を少し飲む程度だという藍叡のことだから、訪れる頃にはもう終えているかも知れない。こちらで用意していた酒肴は使えない。


 鈴雪は青褪めた。手足が微かに震えてくる。

「体調がすぐれないと伝えましょうか?」

 主人の様子を案じた恵世が困ったように尋ねてくる。それを否定したのは玉柚だ。

「なりません。今夜はそれで乗り切ったとしても、次はどうするおつもりですか? 鈴雪様の為にも、一度は主上の寝所に伺わなければなりません」

 おわかりですね、と強い口調で尋ねられ、鈴雪は頷くしかない。

 後宮に暮らすということは、そういうことなのだ。王の命は絶対で、彼が望めば、この身を差し出さなければならない。例え別に好いた男がいようとも、王に請われたら従うしかないのだ。

「お早く」

 廊下に追い出された洪侍従が焦れたように声をかけてきた。

 意を決した鈴雪は玉柚に供を頼み、用意した酒肴を一応持参することにした。


 洪侍従の先導に従い回廊を渡る。鈴雪にお召しがあったことは昼過ぎには後宮中が知るところとなっていたので、側室達に仕える女官が様子を探りに来ていたようだが、侍従に連れられて居室を出た王后の姿に、慌てたように報告へ走る姿が視界の隅に散見された。

 こういうことか、と鈴雪は妙に納得した心地である。

「鈴雪様」

 あちこちの房から投げつけられる居心地の悪い探るような視線に、鈴雪の頭が下向いて来たことを感じた玉柚が、窘めるように小さく声をかけた。ハッとして顔を上げ直す。侮られることがないよう、常に毅然としていなければならない。

 視線を気にしないようにする為と、心を落ち着ける為にも、鈴雪は行く先の景色に意識を集中させることにした。


 今までの鈴雪は後宮の中でさえほとんど出歩いたことがない。八年前にこちらへ連れて来られたときもひと月ほどは暮らしていたのだが、ほとんど部屋に閉じ込められているような状態で、何処かを見て歩いた記憶はない。

 ただ、今歩いている回廊だけは別だ。

 閉じ込められていた鈴雪は泣き暮らし、十日ほど経った頃、どうしても王様に会わせて欲しい、と懇願したことがある。御廟に帰らせてくれるように直訴する為だ。

 政務に追われていた藍叡は、一度だけ会ってくれた。休息の為に居室に戻ったときのことで、そのとき通ったのが、この回廊なのだ。

 もちろん、鈴雪の願いは聞き届けられることはなかった。だからこうしてここにいる。


「主上、王后おうひ様をお連れ致しました」

 部屋の外から洪侍従が声をかけると、中から藍叡の声がした。


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